福島で、
細胞生物学の研究をしている学者さんのブログをご紹介します。
以前ブログに書いた記事を、違った意味に引用されていることに違和感があるというお話。
一部を転載します。
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今の時期に、そんな話をさかんに引用されると、ちょっと違う、と、自分で書いた記事でありながら、感じます。60年代から今まで、世界中で、できるだけそんな汚染は無くそう、なるべくきれいにしようとしてきたわけです。この10年、20年くらい、それが達成されつつあったように見えました。しかし実は、それは幻想であり、原発=クリーンエネルギーというイメージを、原子力産業と、関連する原子力研究者たち、政権を担ってた自民党や現在の民主党の半分くらいの人たちは自ら信じ、人々に浸透させようと、教科書に入れたりしてきました。最大の問題点である最終処理については、ひたすら先送り、誰かがいつか解決してくれる、ということを前提にして。トイレが下水道につながっていない家をあちこちに建てたようなもの。
今回の原発事故は、それは幻想だったこと、核分裂を制御して電力に変えるなんて、人間には100年早い技術であることを教えてくれました。確かに車や飛行機の場合は、事故を起こしながらも、少しずつ改善して、心配せずに乗れるような安全な技術を作ってきました。しかし、原発の場合、こういう大事故は10年に一度くらいの割合で、それも(福島のは大震災によるものではあっても)ほんのちょっとしたミスでも(チェルノブイリ)起きていて、その回復作業、あるいは、正常な廃炉そのものですらも、膨大な費用を伴い、経済としても、結局ペイしてないように見えます。今回の汚染された土砂の行き場が決まらない福島の状況なんて、原発の基本的な問題そのもの、全くの想定内のはず。原発があれば、今の福島の事態はどこでも起こりえるはず。なのに法律すらないなんて。
ただ、現在の状況を選択したのは、何度も書いたように我々です。蛇口をひねればいつでもお湯が出て、室内は沖縄でも北海道でも年中20度台で湿度は低く、オール電化で清潔で安全な市民生活を享受してきた、我々の選択です。自分で小泉チュルドレンも小沢ガールズに投票をするわけはないにしても、疑問を持ってはいても、積極的な原発反対運動にも参加はしませんでした。前にも書いたように、原子力産業は世界を滅ぼそうとする悪の権化、という、彼らのハリウッド映画的発想に嫌気がさしたからではあります。しかし、反対の意思表明をしないというのは是認したこと。訴えられるべきはこういう選択をした我々。
60年代の高い放射線量の話を知ることで、無駄な精神ストレスが減るのなら良いですが、原発に依存する社会を選んだ罪悪感を和らげるために、昔はもっとひどく放射能があったんだからこれくらい平気とという感じでいわれるのは、まったく違和感。
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