sideさんが、線量計を持って
福島市に行かれたそうです。28日の三つの記事をご覧ください。
こんなにも線量の多いところで元気に遊んでいる子供達。将来が心配でなりません。
山下教授が大丈夫大丈夫と力説したために、将来何が起きるか恐ろしいです。
だから、8月に郡山に行っても、放射線の話は口に出せないでしょう。
それだからこそ、昭和20年に政府の命令に従った人たちがどれほど死んだか、聞いていただきたいのです。
あの頃のお父さんたちは、大抵兵隊に取られていましたが、同級生のお父さんは珍しく家に居ました。
だから立派な防空壕を作りました。一家5人が入れる広さの穴に、屋根をつけて、その上に土をどっさり被せて、入り口にはドアもついていました。
5月の空襲で、一家が防空壕に入っていた時、焼夷弾が、防空壕の屋根を突き破ってお父さんに当たりました。
それは不発弾で燃えなかったから、一家全滅はまぬがれました。でもお父さんは死にました。
防空壕に入らず、西に向かって逃げていたら、死なないで済んだはずです。
防空壕に入って居ろという命令に私は疑問を感じたから、入らなかった。誰が何と言おうと じぶんの感覚をこそ信じるべきではないでしょうか?
で、我が家にも南風に乗って真っ黒い煙が流れてきました。隣組の組織は全く機能していなかったので、母と二人で西に逃げました。3キロ先の原っぱに着いて辺りを見回したら、360度どっちを見てもあかあかと燃えて居ました。ただし山の手空襲は、3月10日と違って、絨毯爆撃でなく、飛びとびにばら撒いたので、逃げ道は有りました。
翌朝、戻って見ると、奇跡的に我が家の一帯は焼け残っていました。風向きが逆になったそうです。
あの時代の東京では、最高に恵まれていました。戦争で誰も死にませんでしたから。
そんなに恵まれていても、私は学校を続けられなかった。戦争はとにかくむごいですよ。