saheiziさんのところで、懐かしい歌を聞きました。
「青葉の笛」少女時代の愛唱歌の一つでした。ソプラノでしたから。
今は高音が無理ですが、歌詞も曲も覚えています。
平家物語の一の谷の合戦の場面。討ち死にした平家の公達二人の物語。
青葉の笛 ・・・・・明治39年(1906)
1 一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁寒き須磨(すま)の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし言(こと)の葉あわれ
今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や今宵」の歌
一番の物語は有名なので詳しく覚えています。
源氏の武将熊谷直実が、一の谷で、海に向かって敗走する武将を呼び戻して一騎打ちを挑み、組み敷いたところが、自分の息子と同じ年16歳(満14〜5歳)の少年であった。助けたいと思ったが、それが出来ず、首を跳ねた。少年は青葉の笛を持っていて、前夜に聞こえた美しい笛の音の主と知る。
直実はのちに出家し、敦盛の霊を弔った。
二番は、薩摩守平忠度(さつまのかみたいらのただのり)の物語。
歌人として有名ですが、年齢は幾つだったのでしょう。都落ちする時、密かに戻って、恩師に歌を託してから一の谷へ向かった、とは知っていましたが、「わが師」とは誰なのか、調べたくなりました。
薩摩守忠度、享年41(数え年) 一の谷で、敵陣に紛れて戦おうとしたが、お歯黒をつけていたため、平家の名のある武将と見破られ、源氏の岡部忠澄に討たれた。彼は文武に優れた人として敵味方から惜しまれたと言う。
岡部忠澄はのちに埼玉県深谷市の清心寺に、忠度の供養塔を建てて、菩提を弔った。
平忠度は都落ちの時、京に駆け戻って、わが師、藤原俊成に、自分の歌集を託した。
俊成はその中から一首、
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
・・・千載集六十六 ・・・に詠み人知らずとして載せ、後年、俊成の息子、藤原定家に依って、平忠度作とされた。
唱歌「青葉の笛」の二番に「花や今宵」とある歌は、
行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし
矢を入れる箙に結び付けてあった、辞世の歌でした。
平家物語は戦の哀れを沢山描いているのですね。
[蛇足]
乗り物に「タダ乗り」する事を、「さつまのかみ」と言ったのは、だいぶ昔からの事。江戸時代から言われていたようですね。渡し舟のタダ乗りにもさつまのかみと言ったとか。良くない事に名前を使われちゃって、お気の毒。
まあ今の人にはなんの事やらわからないでしょうけれどね。