この話は何度でも書きたいので、今回は高齢大の「こぶし野」に載せました。
ヒロポン飲んで防空壕を掘った話
東京に戦火が迫った頃、一家に一つ防空壕を掘れという命令が下りました。
しかし、上目黒のこの地域では、土を掘るだけの防空壕ほどばかばかしい物はありませんでした。
防空壕は爆風避けには必要ですが、木と紙と土だけで出来た平屋が並ぶ街に爆弾は落としません。
爆風の起きない焼夷弾に対して、防空壕は役に立たないどころか返って非常に危険です。
穴の中で蒸し焼きになるだけだからです。
でも命令です。ばかばかしくても掘るしかありません。
母は45歳で私を産みましたから、当時58歳くらい。お嬢様育ちで力仕事なんか出来ません。12〜3歳の私が掘るしかなかったのです。
軍需工場に徴用(強制的に勤めさせる制度)で働いていた或るおじさんが、白い錠剤を二つ私の手に乗せて『これはね、ヒロポンといって、とっても元気が出る薬だよ』とくれました。
後で知ったことは、元気が出る薬ではなく、興奮状態になって、疲れを感じないままどんどん働き、後でどっと疲れが出る、覚せい剤だったのです。当時はそんな事は分からず元気が出る薬と信じて居ましたし、薬局で買える薬だったのです。
私は2錠を1度に飲んで、日曜日の一日だけで防空壕を掘ってしまいました。
庭は狭いので、家の縁の下まで掘り進み、深さ1mあまりで3平米ほどの穴が出来ました。
でも絶対に入りませんでした。
町会の役員が空襲警報が鳴る毎に、『防空壕へ退避、タイヒーッ!!』とヒステリックに叫んで歩き、防空壕に入らないで居れば酷く怒られますが、我が家は奥まっていて道から見えないので、私は台に乗って空を睨んでいました。「B29はこっちに向いていないから今夜は大丈夫」などと言いながら。
焼夷弾は小さい消火器ぐらいの管(直径8センチ、長さ50センチの8角柱)にジェル状のガソリンのようなもの(ナフサとパーム油のジェル)が入っていて、19本ずつハガネのバンドで束ねて二段重ねが一つの鞘に入っています。そんな物が何百も投下されるとすぐ火がついて、バンドが外れて、38本に分かれてはじけ飛びます。燃えながら落ちてくる無数の焼夷弾の雨は、まるでナイアガラ花火のようです。
焼夷弾は瓦屋根を突き破って畳の上で止まるように作られていました。畳を突き破って地面に刺さっては火災を起こせなくなるからです。
昭和20年3月10日の東京大空襲は、非戦闘員(女子供と老人)の暮らす街を焼き尽くして、人心を攪乱する目的だったようで、じゅうたん爆撃(あたり一面火の海にして逃げ場を与えない)で人も街も燃え尽きました。
その後の山の手の空襲は、あちこちで火の手が上がって総て火の海で囲まれたように見えはしたものの、火災の間には逃げ道がありました。
5月25日の晩焼夷弾の雨は家から800mぐらいのところまで降りました。同級生のお父さんが立派な屋根付き防空壕の中に居たのに不発弾の直撃を受けて亡くなりました。防空壕の屋根に30センチの土盛りがしてあっても、焼夷弾はあっさり突き抜けました。不発弾でなかったなら、防空壕の中で一家は全滅するところだったのです。
黒煙が垂れ込めて家に居られなくなった私たちは、3キロ先の練兵場の塹壕に避難しました。翌朝帰って見ると、意外にも家は無事でした。大火災で風向きが変わったのです。でもちっとも嬉しくはありませんでした。今夜にでも又B29が来て焼かれるのでしょうから。
3月10日の下町ほどの恐ろしさは体験しなかった私ですが、あの憎いけど美しすぎたB29の、一糸乱れぬ編隊と、降り注ぐ火の雨は忘れられません。
それから、当時の隣組を通して徹底された国の命令の馬鹿馬鹿しさも忘れがたいです。
庭のない家で、床下に掘った防空壕にもぐって居たら、逃げる機会を失って蒸し焼きになるだけです。
各家の前にに小さな防火用水とバケツと鳶口と火叩きを置くことも義務でした。バケツリレーで火を消す訓練もさせられました。焼夷弾の油火災を水で消せるわけもないし、鳶口や火叩きなど江戸火消しの道具が役に立つはずもなかったのに、政府はそんな馬鹿馬鹿しいものをみんなに買わせたのです。
(江戸火消しの道具で、焼夷弾火災を消せと言われていました)
焼夷弾の油火災は消せるわけがなく、逃げるしかないのに、逃げないで消せと命令されて居ました。
当時の国の発表は嘘ばかり、命令は理屈に合わない馬鹿なことばかりでした。
2度とあんな風に、騙されたくないものです。
戦争だけはやっちゃダメだと、戦中派は肝に銘じて居ります。(2018年2月、こぶし野に掲載)