ブログ仲間のぶいぶいさんが、大学の実習でデイサービスのお手伝いをして、お年寄りから戦争の話を聞いたと書かれていたので、私も語っておかねばと思い立ちました。
先ずはヒロポン飲んで防空壕を掘った話から。
7歳で父に死別し大きな洋館から小さい家が建て込んだ街に移った私が、12~3歳になった頃でした。
一家に一つ防空壕を掘れという命令が下ったのです。
一角に14軒ほどの家がある地区で、7~8軒づつの隣組が組織されていました。
上からの命令は総て隣組長に伝えられ、回覧板で周知徹底されます。
この地域では、土を掘るだけの防空壕ほどばかばかしい物はありませんでした。
防空壕は爆風避けには必要ですが、木と紙と土(瓦と壁)だけで出来た平屋が並ぶ街に爆弾は落としません。
爆風の起きない焼夷弾に対して、防空壕は役に立たないどころか返って危険です。
穴の中で蒸し焼きになるだけだからです。
でも命令です。ばかばかしくても掘るしかありません。
母は45歳で私を産みましたから、当時50代後半。お嬢様育ちで力仕事なんか出来ません。私が掘るしかなかったのです。
軍需工場に徴用(強制的に勤めさせる制度)で働いていた或るおじさんが、白い錠剤を二つ私の手に乗せて『これはね、ヒロポンといって、とっても元気が出る薬だよ』とくれました。
後で知ったことは、元気が出る薬ではなく、興奮状態になって、疲れを感じないままどんどん働き、後でどっと疲れが出る、覚せい剤だったのです。
私は2錠を1度に飲んで、日曜日の一日だけで防空壕を掘ってしまいました。
庭は狭いので、家の縁の下まで掘り進み、深さ1mあまりで3平米ほどの穴が出来ました。
でも絶対に入りませんでした。
町会の役員が空襲警報が鳴る毎に、『防空壕へ退避、タイヒーッ!!』とヒステリックに叫んで歩き、防空壕に入らないで居れば酷く怒られますが、我が家は奥まっていて道から見えないので、私は台に乗って空を睨んでいました。「B29はこっちに向いていないから大丈夫」などと言いながら。
焼夷弾は小さい消火器ぐらいの管にジェル状のガソリンのようなものが入っていて、19本ずつハガネのバンドで束ねて二段重ねが一つになっています。そんな物が何百も投下されるとすぐ火がついて、バンドが外れて、はじけ飛びます。燃えながら落ちてくる焼夷弾の雨は、まるでナイアガラ花火のようです。
焼夷弾は瓦屋根を突き破って畳の上で止まるように作られていました。畳を突き破って地面に刺さっては火災を起こせなくなるからです。
昭和20年3月10日の東京大空襲は、非戦闘員(女子供と老人)の暮らす街を焼き尽くして、人心を攪乱する目的だったようで、じゅうたん爆撃(あたり一面火の海にして逃げ場を与えない)で人も街も燃え尽きました。
その後の山の手の空襲は、あちこちで火の手が上がって総て火の海で囲まれたように見えはしたものの、火災の間には逃げ道がありました。
5月25日の晩焼夷弾の雨は隣町に降りました。同級生のお父さんが立派な屋根付き防空壕の中に居て、脚に不発弾の直撃を受けて亡くなりました。防空壕の屋根に30センチの土盛りがしてあっても、焼夷弾はあっさり突き抜けました。不発弾でなかったなら、防空壕の中で一家は全滅するところだったのです。
黒煙が垂れ込めて家に居られなくなった私たちは、3キロ先の練兵場の塹壕に避難しました。翌朝帰って見ると、意外にも家は無事でした。大火災で風向きが変わったのです。でもちっとも嬉しくはありませんでした。今夜にでも又B29が来て焼かれるのでしょうから。
3月10日の下町ほどの恐ろしさは体験しなかった私ですが、あの憎いけど美しすぎたB29の、一糸乱れぬ編隊と、降り注ぐ火の雨は忘れられません。