もっともっと不思議なこと。それは実業家を夢見てアメリカで長年暮らしたのに、帰ってきてからの父の職業が『占い師』だったことです。アメリカで西洋星占いを勉強してきたのです。
西洋星占い『アストロジー』の占い師として日本では草分けだったでしょう。祖父は明治のジャーナリストの草分けで父は星占い師の草分け・・・ヘンな親子です。
その占いはもっぱら株式の予言でした。証券取引所の隣町に住んで『理財研究所』なるものを始めて、よく当たるので会員制の機関紙を出して十数年間はとんとん拍子でした。
あらゆる銘柄の株価の上下を予知していました。ある日株屋さんが相談に来たとき父は「今すぐ売って来い」と叫んで、追い立てたそうです。売れたとたんその銘柄は大暴落。その株屋さんは命拾いしたと喜びました。そんなことが続いて大した人気だったようです。
でも占い師自身の運が傾くと占いは当たらなくなるものです。
それはほかの占い師の生き様を見ても解ったはずなのですが、『易者の身の上知らず』と昔から言うとおり、自分と家族の運は当てられませんでした。
余談ですが、昔渋谷の辺りでしょうか、字ははっきりしませんが隠田(おんでん)と言う町がありました。そこに超能力者がいて、「おんでんの神様」と呼ばれ繁盛したそうです。伊藤博文に可愛がられていて、彼は伊藤公が今何処にいて何をしているか常に言い当てたそうですが、伊藤博文が暗殺されると、(それを当てられなかったからでしょうか?)何も言い当てられなくなって、透視占いが全くできず、たちまち困窮してしまいました。占い師仲間を頼りに娘さんが父のところに借金を申し込みにこられたけれど、父はお金には厳しいので、小額を差し上げて貸しては上げなかったそうです。
父も「明日はわが身」だったのですが、自分のことは占えないものです。
父自身、自分の不運な時期が丁度昭和の大恐慌と合致したとき、株式相場の先行きが全く読めなくなると、家にこもって雌伏10年を考えたのでしょう。次の幸運期が何年後と予想して、めげないでいたのは幸いでした。四人のうち三人の子供らを大幸運児と予測していたし、自分の運気が再上昇したらあれもこれもと夢が有ったようです。そんな中62歳での突然死でしたから、娘の私としてはせめてもの慰めです。
その後の変動は戦争とインフレのセイですから、私が学校にいけなかったのは,父のせいではありません。あの悲惨な戦争を体験せず、先を見通せないまま死んだ父は恵まれていたのかもしれません。
もし父があと十年長生きしていたら、私は生き方をめぐって父に反抗し、戦いになったでしょう。婿をあてがわれて敷地内に住まわされるなんて私には真っ平だったでしょうからね。
31歳でこの顔?・・・人生の前半大変だったからでしょうね。