もう一度話を明治に戻します。
父は金太郎という親に貰った名前が嫌いでした。日本に居た時は戸籍上の改名が出来なかったので、アメリカで申請しました。『近所に、K Nakataniと言う人物がいて、郵便物が間違って配達されるので困っています。』と言うウソで『亨』(とおる)と改名することがあっさり許可されたそうです。役人が嘘を真に受けたと言うよりは、金太郎ではかわいそうだと言う粋な計らいだったかも知れません?サンフランシスコに住む人間を調査するのも面倒だったでしょうし。
母がサンフランシスコで暮らしたのは明治36年(1903)に嫁いでから大正3年(1914)までの11年間です。
明治37年に長男が生まれています。父はいずれ帰国することを決めており、初めから日本で教育を受けさせたいと思っていました。
丁度帰国する友人が居り、その人に託して幼い長男を日本の祖父母に預けました。母もずいぶんドライな人だと思うのですが、父に逆らわず息子を手放します。祖父母と叔母は喜んで大事に育ててくれました。叔母の縁談に支障をきたしたほどだったと言います。
しかし、長男にはこれが大変なダメージとなります。3歳ぐらいから10歳まで預けられ、総領の甚六と言う感じの人だったので帰国した両親には妙に愛されなかったのです。帰国翌年の大正4年次男が生まれます。今度はとても賢い子だったので父は次男だけを溺愛します。
自らが孤児として育った父は、子育てにでたらめなところがありました。親としてどう対応すればよいかが全く分からない人で、占い師でありながら子供の個性を伸ばすことなど考えもしなかったのです。
次男誕生の5年後三男が生まれました。女の子でなかったので失望したのと、あまり目立たない子だったので、家の中での天下は依然として次男でした。次男が16歳、三男が11歳のとき女の子が生まれました。私です。父54歳母45歳で思いがけず待望の女の子ですから家の中心は私に変わってしまいました。
もう昭和の大恐慌真っ只中、満州事変が勃発した年です。父の仕事はどんどん悪くなる一方でした。
16歳の次男は突然天下を奪われて、混乱したでしょう。父にしてみれば16歳は立派に自立すべき年齢、もう甘やかす必要はない。しかし次兄にしてみれば15歳まで女中さんにかしずかれてお坊ちゃま暮らし、風向きが急に変わって厳しく自立を迫られたって対応できないはずです。
そうしたことに気付く母ではないし、第一家の資産が増えても減っても全く気付かない呑気な母でした。父は株の研究で頭が一杯で常に機嫌が悪い。娘を溺愛することに、癒しを求めていたのでしょう。
母は常に父の言いなりでした。反抗期の次兄は母のお上品な暮らしかたを酷く嫌って、貧しい友人の家に遊びに行くのが好きでした。彼は大学に進学しないで大会社に就職します。(父の資力が衰えたからと言うよりは、自立しなければというあせりがあったのかもしれません)彼は家の中で只一人のコツコツ型努力家でした。定年までその会社で勤め上げたのですから。大学を出ていない差別にあいながら、戦争に行く前も、復員してからも、ずーっと一つの会社で働き、三人の子供を育て上げた。それは“やまっけ”の強い我が家の誰にも出来なかった偉業だと思います。私がこの兄と気が合わなかったのは仕方のないことでした。
長兄は仕事に行くこともなく家にいました。父が外に出すことをはばかったようです。父の要求は高くて、長兄は到底それに応えられない人でした。幼い日一緒に暮らさなかったことも大きなマイナスになったと思います。次兄も反抗するし、三兄はまだ子供。その三兄の中学進学も父の命令で志望校の受験は許されませんでした。兄は工業学校に進みたいのに、そこは程度が低く入学が易しくて、一方第一商業は合格率7人に一人と厳しかったので、「お前なら商業に受かるのだから受験しろ」と命じられます。父の命令は絶対でした。結果三兄はエンジニアになるまでにえらく回り道することになってしまいました。
父の子育てがなんともはちゃめちゃだったことで三人の兄たちはそれぞれかなりの被害をこうむりました。私もその結果で妙なしわ寄せをこうむって、19歳から母の生活のかなりの部分を経済的に支えなければならなくなるのでした。
東京の祖父母と叔母と、そこに預けられた長兄。サンフランシスコに送るための記念写真。
七五三なのでしょうか?海軍みたいな服を着ています。