江戸時代の火消し道具で、焼夷弾を消せと・・・
(左から火叩き、防火用水、鳶口・・・ミニチュアを作ってみました)
戦争ほど愚かなことは無いのにそれが分からないで、ずいぶん無駄なことを人類は繰り返していますね。
太平洋戦争を終わらせるのも一部の指導者が愚か過ぎたためにずいぶん遅れてしまいました。原爆前に、ソ連参戦前に、降伏出来たらどれほどの命が救われたでしょう。でも指導者は先が見えなかった。相手の力を理解しなかった。初めから世界を知らずにやって来たことだから終わらせるのも難しかった。所詮無理と判っていた人も多かったのに。
第一当時の指導者が私たちに命じたことの多くが馬鹿馬鹿しいとしか言いようのないものでした。
海岸で女子供に竹槍訓練をさせたなんて、余りにもばかげていました。歴史に学ぶことを全くしなかったのですね。当時、昭和19年から数えれば370年も昔に、長篠の合戦がありました。武田の騎馬軍団が、織田の三千丁の火縄銃によって壊滅したでしょう。優秀な騎馬軍団でさえ火縄銃にかなわないのに、竹槍で上陸用舟艇に乗って来る完全武装のアメリカ兵の前に突撃しろと本気で指導していた馬鹿が居たのです。信じ難いことですが本当です。竹槍(竹の先を斜めに切っただけのもの)の先が相手に届くはずが無いでしょう。
空襲の備えだって実にばかげたものでした。住宅地に降ってくるのはほとんどがM69油脂焼夷弾です。B29爆撃機の編隊はそれを1000発2000発一度に落とすことが出来るのです。その一発が38個の弾に別れて火がついて飛び散るのです。珠すだれのように美しい花火になってザザーッと降って来ます。その火の玉一個が直径8センチ長さ50センチの筒で、中身はゼリー状にしたガソリンのようなものです。日本家屋用にアメリカが研究開発したものだから、瓦屋根を破って畳の上で止まるように計算して作られています。
当時そんなことは分からなかったけれど油が燃えることぐらいは判っていたはずです。燃え盛る火が畳の上に居座るのです。それに対して各家庭に備えよと命令され、私たちか買わされたものは・・・なんと江戸火消しの道具でした。
鳶口。(破壊消防の道具。引っ掛けて家を壊す?もの)火叩き。(棒の先に縄の束が付いていて、濡らして火を叩き消すもの)防火用水。50リットルも入ったでしょうか?
これらは江戸時代の火事で使った道具。油火災の役には立ちません。燃え盛るガソリンに小さなブリキのバケツで水を掛けて消える筈はないのです。土嚢が有ればまだましでした。土を撒けば焼夷弾の1本くらいは消えるかも?でも焼夷弾は38本束ねたものが散らばって落ちるのだから、一本だけで落ちては来ません。消火はほとんど無理でした。火炎地獄から逃げられた人は単に幸運だったとしか言いようがないのです。
これは前にも書きましたが、もう一つ子供の私にも馬鹿馬鹿しいと当時からはっきり分かっていた命令が有りました。「各家に防空壕を掘れ」と言う命令です。住宅密集地で庭が無いなら畳を上げて床下を掘れと言うのです。命令だから12~3才だった私が一人で、一応掘るだけは掘りました。
当時軍需工場で徹夜勤務をさせる為に配られていたらしい覚せい剤「ヒロポン」を2錠貰って、その勢いで穴を掘ったのです。半分庭で半分は縁の下に。但し私たちは一度もそこに入りませんでした。爆弾が落ちるのなら爆風で飛ばされない為に穴にもぐる必要があります。でも住宅街に撒かれるのは焼夷弾だけです。家が燃えたら穴の中で蒸し焼きになってしまいます。焼夷弾からはもう逃げるしかないのだから、見張っていないと危険です。町会のうるさいおじさんが甲高い声で『空襲警報発令!退避!タイヒーッ』とメガホンでいくら叫んでも私は防空壕に退避なんかしません。町会役員に見つかったら酷く怒られるけど、そんな非合理的な危ない命令はきいていられません。それにウチの庭は奥まっていて外から見えない。私は毎晩の空襲の間、台に乗って南から来る敵機の進む方向を睨んでいました。B29爆撃機の編隊は整然と飛んできます。1万メートル上空に日本の高射砲は届きませんから。実に美しい形の銀の翼が、美しい火の玉すだれをばら撒いて行くのです。無差別殺人です。それはなんとも美しすぎる恐ろしい光景でした。
町内に火が迫って3キロ先に逃げたこともあります。火災で風向きが変わって我が家は焼けませんでした。この夜、同級生のお父さんが防空壕の中で不発弾の直撃を食らって死にました。不発弾でさえ人を殺す、防空壕は危険な場所でした。
ウチの庭には青光りした美しいハガネのバンドが落ちていました。38本の焼夷弾を束ねていて、空ではじけたバネ状のバンドでした。こんなものまでピカピカの新品なんだ!?とびっくりしたものです。日本は物資が無くて、瀬戸物で手榴弾を作っていた頃ですから。
日本で開発された兵器といえば風船爆弾。推進力は無し。風まかせ。上空の気流に乗せてアメリカ本土に小さな焼夷弾を落とそうと、和紙とこんにゃく糊で風船を作りました。浅草国際劇場が風船爆弾の工場で女学生が沢山働いていました。ほんの何個かはアメリカ本土に届いたようですが、大した被害は与えられませんでした。
日本軍は真珠湾でアメリカ艦隊を壊滅させれば、日本本土は安全だと思ったでしょうが、アメリカの国力は直ちに航空母艦や航空機の大増産を、自動車工場を動員したりしてたちまち成し遂げています。
そんなとき日本が一番力を入れて作っていたのは巨大戦艦『大和』であり『武蔵』だったのです。長篠の戦にたとえれば、『大和』は武田の騎馬軍団であり、アメリカの戦闘機は織田の火縄銃でした。知恵の無い話です。山本五十六大将などは航空機を優先しろと必死で叫んでいたそうですが・・・
まるで資源のない日本と、ふんだんに物資の得られたアメリカの違いを理解した人の声など、通る時代ではなくなっていました。
庶民はそんなこととはつゆ知らず、「欲しがりません 勝つまでは」と私も我慢していました。聖戦を信じて疑わず、実情を一切知らされていなくても、本土空襲が始まれば自分の目にB29の大編隊の数は見えるし、焼夷弾の火の玉すだれの数も見える。迎え撃つ日本の戦闘機を見た事が無い。敵はよっぽど物が豊富らしいとは感じ始めました。
大本営発表がいかに嘘八百を並べ立てても、庶民だって首を傾げ始めていたのです。
お蔭で戦後私は“偉い人”の言うことを、鵜呑みにしない癖が付きました。