写真屋の店員では食べてゆけないので、今度は良い仕事を見つけました。
新宿東横会館のウエイトレスです。フルーツのタカノのお店の2階3階を借りている東横の食堂でした。半年間張り切って働きました。通勤に東横線を只で乗れるのが嬉しかったです。
昭和22年3月16日付採用の辞令があります。(15歳7ヶ月でした)日給2円80銭。これはどう考えても時給の間違いでしょう。時給とすれば8時間、25日働いて560円です。5月の給与明細は手取り732円20銭です。それも2度に分けて支払われています。6月は797円23銭。入社したての初ボーナスは48円。8月分は「調整給189円」が加わって手取り976円。給与明細には『物価手当』と『新物価』の項目が有って、会社もインフレに対応しているのが分かります。給与はどんどん上がるけれどそれでも猛烈なインフレには追いつけなくて、みんな四苦八苦していました。お金を手にしたら何でも良いから物に替えてしまわないとお札が紙切れになる。でも物不足で必要品は配給されない。食べ物をどう手に入れるかが大問題でした。
当時主食は配給制で、食堂でも外食券を持ってこないとご飯もパンもうどんも食べられませんでしたから、奇妙なメニュウがありました。『海藻麺』今ならダイエット用に売られて居ますが当時は緑の麺をヘンなものだなあと思っていました。宴会には外食券がどうなっていたか分かりませんが、洋食にバタロールが付きました。ビールも出ました。宴会を担当すると、バタロールの残りを黙ってポケットに入れ、ビールの残りを欲しがる先輩に目配せして飲ませてあげたりしました。
当時ウエイトレスはお盆を使わずお皿を素手に持つ競争をしていました。持ち方を習い、空の皿なら両手に12枚持てましたが、実際に料理を左手に3皿か4皿、右手に2皿まで持ちました。
今でも持てるから不思議です。職場のボーイフレンドと九品仏のお池(とっとちゃんの本に出てくる世田谷の池。今は埋められてしまった)にボートを漕ぎに行ったりもしました。
或る日道路で左胸に横から野球のボールが当たりました。翌日あまりにも痛くなったので医者に行ったら、肋膜炎を起こしていると言われました。会社を辞めなくても良かったのに、世間知らずはすぐ辞めてしまって、半年間通院しました。腕に毎日筋肉注射を受けたあとが、今も酷く凹んで残っています。私はボールが当たって病気になったと思っていたけれど、最近の医師の話では、「肺結核をやったあとがある。ボールがぶつかって早期発見が出来て、半年で治ったのだろう」とのことでした。それならボールに助けられたわけですね。
江戸東京博物館にある焼夷弾。
それを38本束ねたバンド。ウチに落ちてきたときは青光りしていたハガネのバンド。