今日はもう4月・・・・・・昭和23年街頭で物売りした頃の、5冊のうすい日記帳の4冊目が見つからず、肝心な部分なので探していましたがやはり無いので、もう見切り発車します。
(昭和23年秋までの日記は見当たりませんので、今日のところは思い出を書きます)
太平洋戦争で日本が惨敗した次の年。昭和21年、物凄いインフレの為父の遺産が消滅しました。
14歳で女学校を辞めてからの5年間、私はさまざまな職を転々としなければなりませんでした。
食糧の配給は遅れるし米の代わりにふすま(麦の皮)や、大豆カス(大豆油を絞った後のカス)など胃腸では消化できない物が配給されたり、年中ひもじい思いをしていました。たまに夜の9時半に鰯を積んだトラックが来て、(氷が足りないから漁港から直行してくる)隣組全員集まって人数分に分け合いましたが、こんな魚の配給は滅多にないし、もちろん肉なんて見たこともない。
東京には飢えた人が溢れて、進駐軍(主に米軍)兵士の腕にぶら下がって歩く女性も増えました。アメリカ軍の食料を分けて貰って家族を養う為には手段を選んでいられない困窮家庭がかなりあったのです。定職につくのは困難な時代でした。
幸い私は22年2月17日大きいデパート系の食堂にウエイトレスとして入社出来ました。
新規開店と同時に10人ほどの仲間と入社したのですが、他のみんなは小学校高等科卒業生で、私だけは高等女学校2年中退でした。なのに私のほうが彼女らより初任給が高かったのです。高等科は今の中学二年までで卒業になります。私は2年を終了せずに中退しているのです。それでも女学校に行っていた者と、高等科にしか進学できなかった者との格差が歴然とありました。だから女学校を卒業した人と、中退した私との差別も大きかったのです。
当時のウエイトレスはトレーを使わず、お皿を独特の組み立て方で指に挟んで運ぶのが普通でした。カラの大皿で練習して左手に10枚、右手に2枚持って歩く方法を覚えましたが、料理が入っていたら実際にはそんなに持てはしません。しかしその持ち方は今でも使うことがあって、左手に3枚、右手に2枚なら中身があっても持てます。
当時は仕事の能力を競う気概がみんなに有って、職人芸のような業を競っていました。実際はお盆を使うほうがよっぽど合理的なのですが。
食糧難の続いていた頃の食堂(大手デパート系の食堂でもレストランなんて言わなかった)は、表向き外食券持参の人にしか主食を出せませんでした。(お米の通帳と言う物があって、役所で外食券を受け取ると、その分米の配給が減らされるのでした)
実際には闇のパンがたくさん有って、宴会ともなれば公然と洋食の脇にバタロールが並びました。飢えを知らない連中の宴会だったのでしょう、残されたパンは私たちのエプロンのポケットに入ったし、飲み残しのビールは、コックさんに目配せして飲ませました。
宴会場は別として食堂で出していた食事は『海藻麺』現在のダイエット食のようなもので、全然美味しくありません。しかしデザートは色々有って、まあ喫茶が主なメニューでした。
やがて休日毎にデートに誘われるようになりました。と言っても私は全くの子供で、よそのお兄さんと遊びに行く位の気分だったのです。
カウンター担当の22歳の青年で、行く先は黒柳徹子さんの本トットちゃんの中にも出てくる『九品仏のお池』(じきに埋め立てられて跡形もない)でボートに乗ったりするだけで、夕飯前にはちゃんと家に帰るのでした。あんまり子供なので相手も扱いに困ったのでしょう。話は大人びて生意気なのに、身体は子供っぽいままで、(栄養不足で初潮も迎えていなかった)女性らしさは皆無でした。二人で逗子へ海水浴に行ったとき、よしず張りの海の家でおじさんが、『お兄さんと一緒で良いよ』と男の更衣室に行かされそうになったのには困りました。つまり二人は兄妹にしか見えなかったのです。どう見ても恋人には見えないヘンな子供。16歳になってはいましたが、身体は全く未成熟だし、環境的にも幼いままで居られたのだと思います。
半年働いて貯金がたまった頃の或る日、家の近くを歩いていたら左から野球のボールが飛んできて胸に当たりました。その時は大したことはないと思ったけれど、翌日痛みが激しくなってレントゲンを撮り、『肋膜炎』と宣告されたのです。半年間毎日のように腕に筋肉注射を受けました。16歳の伸び盛りだったので、その部分の筋肉が育たなくなり、今も注射の跡だけ骨に皮が張り付くほど凹んだままです。
私はボールが当たったから肋膜炎になったと恨んだのですが、最近の医師の説明では「肺結核をやった痕跡がある。ボールが当たったお蔭で早期発見出来たのではないか」とのこと。半年間何もせずに療養して、貯金がなくなったところで完治しました。
大会社だから、病気になっても退職する必要はなかったのですが、16歳の子供にそんなことは解らず、発病と同時に退職していました。デートしていた彼から手紙が来たけれど、私は生活の心配ばかりで、彼のことなど気に掛けていられませんでした。
復員兵が町に溢れ、失業率の高かった時代、病気で半年のブランクがあった女学校中退の女の子に職はありません。飢えたくない一心で住み込みで働こうと、横浜の日吉まで女中募集の新聞を握って出かけました。しかし丘の上に有った成金趣味のお屋敷の勝手口で、女中頭から「あなたが???お仕事なさるの???」いかにも不思議そうにじろじろ見られ、主人に会う事も無く断られました。無理もありません、身長147cmで、ガリガリにやせているのに顔だけぽっちゃり童顔で『ねんねの嬢ちゃん』にしか見えなかったでしょうから。使いものにならないと一目で見抜かれてしまいました。
しかしその後、中国代表団の運転手をしていた兄から、中国の銀行家の家でハウスメイドをしないかといわれました。
住み込み三食ついて月給4千円、日本家庭の女中奉公よりはるかに高かったので喜んで住み込みました。言葉が通じなくても筆談と絵を描くことで意思疎通が出来て、朝のお粥(シーハン)つくりや、沢庵の油炒めも覚え、所帯道具の買い揃えなどはうまく行ったのですが、奥様と赤ちゃんが到着すると、夫婦は坊やを置いて頻繁に夜のパーティーに出かけるようになりました。一歳半のカンカンちゃんは、親が帰るまで泣き叫び続けてどうにもなりません。当時は住宅難で貸家もなく、日本の銀行家の邸宅の2階を借りていたので、家主から苦情が出て、ベテランのメイドさんと交代させられました。一か月分の給料を余分に貰って解雇されたときは、むしろほっとしました。当時の私にメイドが勤まるわけは無かったのですから。
(その後6~7年経って、バスの車掌をしていた時、この銀行家が大きくなったカンカンちゃんをつれて乗り合わせて、丁寧に挨拶されました。カンカン君は恥ずかしそうに笑っていました。このとき会えて私はとっても嬉しかったのです)・・・次回から17歳当時の日記を連載します
戦中戦後の混乱期には、周囲の誰もカメラを持っていなかったので、写真は全くありません。
これは一昨日散歩したお寺の花です。