昭和23年12月27日(月) 昨日は大雨。今朝兄さんから風船ガムの卸の外交をやってみろといわれ、一軒行って断られた。(当たり前だ。名刺も持たない女の子が見本持ってセールスに来たって誰も相手にしない)天気が気がかりだが連盟に向かうと、御茶ノ水の乗換えで、目の前にY君が立っていた。新小岩で台を借りて千葉に鏡を売りに行くのだそうだ。台三つ持ってってやるから飴売りに来いよ」という。本部に急いだがE君が千葉へ飴売りに出るところだったので仕方なくノートにした。雨が降りそうだが、並んでノートを売る。雨が降り出しては駅に戻り止むと又出す。そんなことをしているうち、原価7円のノートを15冊泥水に落としてしまった。これは自分で買うしかない。又止んだので、5人で店を並べたらお巡りさんに止められて、もとの場所に戻る。結局売れない。「鏡を早く売らせて」と頼んで29日9時立川に行く約束が出来た。今日は電車賃140円、落としたノート代105円、200円の赤字。新小岩で土砂降りになりバスが来たので走ったら物凄いぬかるみで靴下まで泥水まみれ。冷たい。でももうこんな所に二度と来たく無いから、何が何でも清算してこなければ・・・バスは超満員で乗せ切れず行ってしまった。暫く待ってようやく乗れた。連盟に着いて急いで清算。お金足りず60円借りる。バス停で待ったが、バス一台止まらずに行ってしまう。イライラして次のバスを待つ。降りてから走り通しで預かり所の傍まできたら,I君に呼び止められた。Y君たちは真っ直ぐ帰るので駅の中に居るという。私を待っていてくれたのだ。Y君「立川に行くのは明日の夜にしてくれ」という。立川の地図を描いて貰って代々木で別れた。
12月28日(火) 曇りのち晴れ。朝大急ぎで大きい紙に鏡の看板を書いた。それから母と日本橋へ買い物に行く。三越、白木屋を回り母は先に帰る。手相を見てもらいたくなって銀座通りを通って有楽町まで歩く。高島易断しか出ていなかったので手相はやめた。少し早いけれど立川に向かう。電車賃30円。祐天寺から行くのと同じだ。立川に4時過ぎに着く。東宝園を下見してから、婦人公論を買い、読みながら待つ。Y君来てI君と駅の反対側で売っているのだという。入場券で駅を通り抜け北口に出ると、I君が薄暗いところで鏡を売っていた。パンパン(街娼)に冷やかされたりでさっぱり売れない。諦めて片付ける。東宝園に行く途中Y君、私に鏡を3枚預けて「これ見せないで置いて。全部清算したら電車賃も出ないんだ」とっさに逆じゃないかと思ったが預かる。東宝園で清算すると、思ったとおり計算が合わない。数学に疎いY君が勘違いして3枚隠したから余計儲けが出ないわけだ。結局60円しか儲けが無く、お店の人が気の毒がって電車賃をくれた。私の分もリュックに一杯鏡を預かる。身元も確かめないで商品を貸してくれた。手提げを入れたリュックをY君に持ってもらっていたので、「その中にお財布が」というと「良いよ、さっき貰った百円で買うから」と渋谷まで切符を買ってくれた。明日はY君出られないのでI君と自由が丘に出る約束をした。Y君が婦人公論見せてくれというので渡すと、何とかの恋愛と結婚のモラルとか言うページを開いて、何回ぱらぱらやってもここが開くよ。ここばかり読んでたんだな」とからかう。一冊だけ残っていたのを買ったからで、そこはまだ読んでないのに。しゃくにさわったから本をひったくってしまった。暫くしてY君「向こうに居る人、ああいう服装で、お下げを長くしている人が好きだ」と言う。長いお下げが好きと聞いて、最近パーマを掛けた私がヘンな顔をしたらしく、「君みたいなの好きじゃないって言うんじゃないんだよ」と付け足したから、私は吹き出してしまった。でも髪を切ってしまったのが残念。
新宿で4番線の手洗い所(トイレ)に寄る。出てきたY君意外にもタバコをくわえている。あまりの事にギクリとして声も出なかった。叩き落してあげようかと思ったら「俺一本吸えないんだよ」と消した。『止めなさいよ』と言いたかったが年上だし「私、タバコの煙大嫌い」とだけ言った。まだ明けて20歳(当時数え年だからお正月に年をとる。その年の誕生日までは満なら18歳)今からタバコなどと言う魔物に取り憑かれてしまったらどうだろう。せっかく血色の良い肌もやがては艶の無いきめの粗い肌になってしまうのではないかと気がもめる。6番線の下で荷物を受け取ろうとすると、「上まで持ってってあげるよ。ただし“ロング”とかなんとかってんじゃないんだよ。K子さんだとすぐ『ロングねー』って言うから嫌だ」と言う。「日本人は男女が居るとみんなじろじろ見るから嫌だな」とも言う。私も同感。(ロングは当時の流行り言葉で、鼻の下が長いという意味)電車が遅れるとスピーカーが言った。「一人じゃつまらないだろ、電車来るまで一緒に居てあげるよ。俺たちは二人だもの」と荷物を持っていてくれた。そこで彼の知り合いで共済連盟の新宿支部に行っている学生に会って、紹介してもらった。こんどはその人が荷物を渋谷まで持ってくれた。私たちの連盟の事を訊かれ、中身16枚のノートの原価が7円だと言うと、そんな高いのは、何処の学生連盟にも無いという。「良かったら共済連盟にいらっしゃい。6円で卸してますよ」と言ってくれた。渋谷で別れて東横線の切符売り場の長い列に並ぶ。リュックの鏡がずしりと重く感じられた。さっきY君がくれた5円で切符を買う。夜なのに東横線は満員で、鏡が壊れないかと荷物を守るのに必死だった。どうやら掻き分けて降りられたが、重くて困った。9時帰宅。
12月29日(水) 朝の8時に床屋に行って待ち、10時までかかって顔を剃ってもらう。(当時なんで女性が皆床屋で顔そりをしたのか不思議)大急ぎで自由が丘へ。I君先に来ていた。台が無いから勇気を出して果物屋さんに「りんご箱を貸してください」と頼む。二つではどうにも足りないから、I君が他の店で一つ借り、私がガードの方まで行ってもう一つ借りた。模造紙の看板を下げ、紙の上に鏡を飾る。メガホンの大声で叫んで売る。I君は売り手としてあまり感じよくない。「これから一人で売る度胸をつけたいから、暫く遊んできて」と体よく一人になって色々な事を叫んで売る。交代で休憩して最後に又一緒に売る。どんどん売れるので面白くてしょうがない。街灯が無いので暗くなり四時半ごろ片付けにかかる。種類が多いから間違わないようにノートに記入するのが大変。箱を返しに歩き、原価をI君に預けて儲けを分け合う。電車に乗ってから「タバコってそんなに止められないものなの?」と訊いてみた。「駄目ですねー」と言う。「Y君は本当にタバコ吸うの?」と訊いてみたら、吸えもしないのに親にナイショで吸っているのだそうだ。少しでも大人に見せたいのだろうとのこと。馬鹿な話。「止められなくなる前に止めておかないと後悔するわね」と言ったら,I君「僕が後悔しているんだから止めろと言うのに耳を貸さないんですからね」と言う。祐天寺で別れた。荷物と清算はI君にお願いしたので、立川まで行く電車賃も助かった。
12月31日 朝、ニシさん(美容院)へ行く。19番目の札を貰って午後二時に行く事になる。Y君たちが来る日の為にみかんを買っていたら、同級生に会った。Mさん、まだ産まれないそうだ。(同級生が17歳で出産?記憶にありません)お昼食べる間も惜しく障子貼りをする。1時ニシさんに行き都合よく縦ロールにしてもらえた。障子貼りを終えたが、便所の壁紙までは貼れず、夜は疲れて除夜の鐘を聴くどころではなく寝てしまった。
大変だった昭和23年は終わった。(ここで3冊目は終わっています・・・続く)
敗戦から3年半、まだ世の中は落ち着いていませんでした。上の兄は三人の幼い子を抱え、苦労しながら母に支援していました。下の兄は駆けずり回って将来を模索しながら母にも支援していました。母は62歳になっており、外で働いた経験も無いので、1枚何銭の紙を貼る内職ぐらいしか出来なかったけれど、お嬢様育ちの呑気さで、いつも「何とかなる」と思ってくよくよしない人でした。
兄嫁とはもめるので一つ屋根の下で世帯は別でした。家が小さいので母と私は六畳一間の暮らしが長く続くことになるのでした。
父が亡くなったとき家屋敷を売って、小さい家を上の兄が買って、残りを母の郵便年金に払い込んでおきました。戦後のインフレさえなければ、母と私は毎月の生活費が郵便局から下りたはずです。でもその一か月分で、パンが一個か2個しか買えない状況になって、その年金は消滅したのです。国債も総て紙切れとなりました。
そんな中で、自立したい私のあがきはバスガールになるまで5年間続きました。
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昨日は又花を求めて、4時間も散歩しました。