3日に私が、特攻隊の事に限って、語りかけた高校生さんに、私より少し年上の男性がもっと的確に語りかけておられますので、許可を頂いてここに転載いたします。改行を直す暇がないのでこのままで。
16才の女子高校生さん 長岡 豊です。
戦死した特攻隊員について、あなたが、[no-more-war 21903]
で書かれた次の言葉について、79歳の老人から、質問いたします。
「この当時の若者の皆さんが命がけで戦って下さったおかげで今
の平和な日本が成り立っているのだなと深く深く心の中に感じまし
た。」
戦死した特攻隊員は、どのような理由・経緯・つながりで、いまの
平和な日本の成り立ちに貢献したのでしょうか。彼らが死ななかっ
たら、いまの平和な日本はなかったのでしょうか。
戦死した特攻隊員の数は、陸軍・海軍をあわせて約6千名とい
われています。しかし、それは戦死者全体から見れば、ほんの少数
です。 1931年の満州事変から1945年に太平洋戦争が終結するまで
の15年戦争では、約3百万人の日本軍兵士や日本の民間人が戦争で
亡くなりました。中国や他の国の死者も加えると、2千万~3千万
が犠牲になったといわれています。 いまの平和な日本の成立に貢
献したのは、特攻隊員だけでしょうか。上述の2千万~3千万の犠
牲者は、貢献しなかったのでしょうか。
特攻隊員は、戦友たちと別れの盃を交わした後、天皇のため、日
本のためという強い信念をもって出撃し、壮絶な戦死を遂げました
。
しかし、多くの戦死者は、そのような信念をもついとまもなく、
戦争に疑問を感じながら死んでゆきました。ある兵士は、次のよう
な歌を残して死にました。
「戦争は いかになるらん 誰がためと 問ういとまなく 我は
死ぬなり」
南方戦線で死んだ兵士の大部分は、餓死または病死でした。ニュ
ーギニア戦線で、餓死した兵士の手帳には、次の歌が詠まれていま
した。
「父母(チチハハ)よ 妻よわが子よ われはいま 死すとも蝶
と なりて帰らん」
ここでは、天皇への忠節ではなく、ひたすら望郷の念が詠まれて
います。
私たち小学校の同窓生は、2年前に、小学校時代を振り返る文集
を作りました。そのなかの1人は、病気のために死期が近いのをさ
とって、最近、自分史を書き始めました。彼は、ときどき、その文
章を、私にメールで送ってくれましたが、その序文に、次のような
言葉がありました。
(要旨)「先の戦争では、多くの身内、知り合い、先輩が戦死し
た。それは、八紘一宇という美名のもとに行われた侵略戦争による
、無駄で哀れな犬死だった。しかし、生き残ったわれわれは、侵略
戦争に加担したことを恥じ、犬死した彼らに詫び、彼らに代わって
戦後の日本の復興と繁栄のために尽くしてきた。これによって、彼
らの犬死は、少しでも犬死ではなくなった。私には、そのために生
きてきたとう自信がある。」
しかし、彼は、昨年、自分史を書きかけたままで、78歳で亡くな
りました。
別の1人は、日本じゅうが、戦争と飢え、インフレに苦しんだ時
代を「珠玉の時代」と呼びました。その理由を、彼は、次のように
述べています。
(要旨)「過酷な生活のなかから忍耐力が生まれ、希望をもって
困難と戦う気力が生まれ、みんなで協力しあうという友情が芽生え
ました。最近の若者には経験の出来ない『珠玉の時代』でした。こ
の素晴らしい経験をもとにして、私たちは、戦後復興・高度成長の
担い手になりました。」
信念をもって、壮絶な死を遂げた特攻隊員の死は、多くの場合、
美談化されていますが、私たちの世代は、それは、犬死だっと思っ
ています。
しかし、それが犬死だったことを自覚し、そのような犬死を生み
出す戦争は、二度としないと決意し、行動することによって、彼ら
の犬死が生かされ、犬死ではなくなり、平和が訪れるのだと思いま
す。 長岡 豊