車掌にも他の職種に出世してゆく希望が持てたなら、私もそんなに悩まなかったと思います。スキルアップのあても無く、夜学に通う時間も無く、ただ毎月の給料が必要なために働き続けているのが、なんとも虚しかった。
そこで私はボランティアに熱中したのです。プライドも生き甲斐も、そこにしか見出せなかったから。そうして辞めることしか考えないまま9年余りを過ごしました。
私が辞めた昭和35年頃から、車掌の応募者が激減したそうです。
女子の職場が増えて、身体検査のある車掌になんかならなくても、働く場所はたくさんありました。
東急ではそんな話は聞きませんが、中小会社など、それまでは身元確認を心がけていたけれど、応募者が足りないので誰でも採用するようになり、チャージも激増し、身体検査のトラブルも増えたそうです。
ある会社では、ある一つの営業所に、やくざのような運転手が揃ってしまい、片っぱしから車掌の体を奪って、言うことを聞くように仕向け、多額のチャージを要求し続けたそうです。断れば「俺と不倫していたことをばらすぞ」と脅す。当時の貞操観念は厳しかったから、そんなことがばれたら嫁に行けなくなると娘たちは恐れました。ひとりで何人もの車掌を使って給与の何倍も横領し続けた男たちが、逮捕されたのは昭和36年だったとか。
悪徳運転手の餌食にされた車掌の中には、解雇されたあと、転落の道をたどった人も居たそうです。
バスの激務は、女性の体にはよくなかった、それなのに、生理休暇をとれない会社がかなり有ったようです。
東急は週休一日の他に、月に二日の生理休暇がちゃんととれました。しかし前もって今月は何日にと申し出ておかなければならないから、その日に生理が来ることは少なかったのです。
私は会社でただ一人、正しい日に生理休暇を強引にもらっていました。「明日と明後日休ませて下さい」操車係を慌てさせても私は平然と権利を主張しました。医師の診断書を振りかざして。操車係りのおじさん達も、ちゃんと特別扱いしてくれました。
生理痛がひどかったので、子宮後屈の手術を受けて、恥ずかしがらずに理由を述べ、「本当に生理の日には、乗れないんです」と頑として譲らなかった私。我が身を守るためには、手段を選んではいられないと思ったのです。でもそんなことを主張したのは私一人だけでした。
多くの人は、「生理の日には、金銭の間違いが多くなる」とぼやいていました。その上臨検にあたろうものなら、生理ショーツの中まで調べられて、さんざんな目に遭うのでした。
不動前営業所の運転手はほとんどが所帯持ちでしたが、独身の運転手の多い会社でも、車掌との職場結婚は少なめだったと言います。それはもしかしたら運転手たちが「車掌は子供を産めない体になっているのではないか」と誤解していたからかもしれません。
この本には車掌が虐げられた話が多いので非常に暗い感じがしますが、不動前車庫は決して暗い職場ではありませんでした。百人あまりの小さな車庫で、結構家族的でした。みんなでお正月にお汁粉を作ったことも有ります。石油缶何杯もお汁粉を作って、白玉をどっさり入れて、午後から入庫するみんなに配りました。私たちは雑誌を発行していたことも有ります。
私が辞めた後のことを、45年も勤続したハルエさんに訊きますと、他社のように、車掌の仕事が無くなった時の混乱はなかったそうです。
不動前は一番早くワンマンバスの車庫に変わったため、車掌は他の営業所に転勤できました。彼女はまだワンマンにならない路線2本と一緒に目黒営業所に移動したため、今までなじんだ路線に乗務し続けることが出来ました。だんだん多くの路線がワンマン化すると、彼女は定期券売り場などに転勤した後、会社の病院の事務員になり、そこで24年も勤続できたそうです。それは、どこに行っても勤まるハルエさんの優しくて我慢強い人柄にもよるでしょう。
転勤先が男ばかりの駅などで、苦労したと言う他社の話に比べたら、たいそう恵まれていたのですね。
やがて不動前営業所自体も移転して無くなりましたが、当時を懐かしんで、最後のころ居た運転手も車掌も整備士もみんなで「不動前会」と言う会合を退職後も毎年続けてきたそうです。それも泊りがけの旅行会のようです。みんな七十代以上になり、そろそろ集まりにくくなったそうですが、もしも暗い職場だったらそんな交流が何十年も続くわけが有りませんから、とても良い職場だったのだと思います。
「バス車掌の時代」と言う本の内容を紹介するつもりが、自分たちの体験に話を広げてしまいました。
たしかに、この本に描かれているようなことも体験したけれど、ここまで暗い環境ではなかったと言いたいです。
他社のことも、自社の他の営業所の様子も全く知りませんでしたが、不動前車庫は特別良かったのかもしれません。チャージも社内では一番少なかったと聞いていますし。
ただ、私自身には、不動前車庫を懐かしむ気持ちはぜんぜん有りません。