カテゴリ:戦争を知らない世代の皆様へ( 20 )

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その20

戦中戦後の自分史がつい長くなりました。学歴が無いばっかりに、困難が長引いたのです。
いよいよ今回で終わりにします。

私が言いたかったのは、空襲で焼かれもせず、殺されもしなくても、
戦争は弱者に極端なひもじさと、長い苦労を強いるという事です
大変恵まれていた私でさえ、これだけ長い間、戦後を引きずりました。
ですから、家を焼かれ家族を殺された人々の苦悩は、私の何百倍、何千倍も大きかったはずです。

戦争だけはしてはいけません。
敵を作らないこと以外、国防の道はありません。憲法九条を護るべきだと思います。


(ドアなしのバスで、停留所毎に降りていた車掌は、雨の日合羽を着たのか?というご質問が有りました。
合羽は有りませんでした。濡れていました。濡れた記憶はありますが、傘をさした記憶は無いのです)


【結婚したら、まわりにびっくりされて】

30才過ぎて結婚し、35歳で娘を初出産。
目黒の保護司さんたちは「あの娘が結婚して子育てするなんて考えられなかった」とびっくりして噂し合ったそうです。
バス時代の見習いさんたちも「びっくりした。オネエサンが結婚するなんて考えられない」というのです。
そこまで変人に見えたのかなあ・・・? 何しろ、男に頼ろうなんて気持ちが全く無い娘でしたからね。
「君を頼りに私は生きる・・・」という歌が大っ嫌いでした。ぞっとするほど嫌いだったのです。

長女は、私に輪をかけて自立心旺盛な子で、24歳のとき自分の貯金だけ持ってスペインに渡って早17年。
今ではあちらで3歳の坊やを育てながら、社長秘書をしています。孫は二重国籍で、目下二つの言語を特訓中です。
一昨年親子三人で来日しましたが、次に来る日が楽しみです。今年か来年の夏・・・

43歳で産んだ息子も世帯を持ち(孫娘が二人)私たち夫婦だけになって、それでも68歳まで私は清掃請負の仕事をしました。

七十歳の時、雑誌で通信制中学を発見しました。
私はすぐ入学し、スクーリングを一日も休まず、皆勤賞を頂いて卒業しました。
七十代の中学生生活の楽しかったことといったら、本当に幸せでした。今でも連立方程式が好きです。

来月、母校の卒業式に参列した後、同年代の数人でクラス会をします。

埼玉に引っ越したので高校進学は出来ませんでしたが、移住したこの町で昔語りの語り手になって楽しんでいます。
忙しい忙しいと、今までで一番幸せな時を過ごしている私です。
年金は少なくて暮らし向きはなかなか厳しいのだけれど、まあでも、終わりよければ総て良しと致しましょう。

長々お読みいただいて有難うございました。
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by hisako-baaba | 2008-02-19 21:43 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(12)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その19

【またまた挫折】

二十代の終わり近くに、脱サラをしました。
有り金はたいて総菜屋を始めたのです。てんぷらを習ってきて自分で揚げて。

無理して店を始めた理由は、初めて結婚しようという相手が登場したからです。
相手が貧乏な家の7人兄弟の長男で、沢山の問題を抱えている人だったので、共働きを覚悟し、
バスの仕事では無理だからと、店を始めたのですが、何しろ地域で信用のある私だったので、、
保護司さんや警察の少年課の人や土地の名士が店探しをしてくれたり、とんとん拍子でした。それがいけなかった。
相手は私に劣等感を持ってしまって、開店にこぎつけたときには結婚話は消滅していました。

それでも一人ぼっちで始めた店で、冬の夜中に半分凍った鯵を、1尾40秒で背開きにするのも大変だったし、
夏は、てんぷら鍋の前で温度を測ったら50℃。しかもあまり健康に自信の無い私。
目的を失ってしまっては、気力がもちません。一年で閉めて、またしても一文無し。

すぐに紹介してくれる人があって銀座の地下鉄ストアの鼈甲屋の店員になりました。昭和36年の11月だったと思います。
鼈甲メガネを作っている腕の良い職人さんが出している、ケース三つだけの店でした。店番は私一人。
興味のもてる商品でしたから鼈甲の事を研究して、喋って売ったら、前年同月の3倍売れました。
高価な品の売れ行きがすごかったので、2ヶ月働いて、暮れのボーナスを特別に5000円頂きました。
それでぎりぎり年が越せたわけです。

製造元なので、メガネの枠が売れると、たいそう儲かるのでした。
職人の店だから修理も引き受けました。ネックレスの修理なら私にも出来ました。
鎖が外れただけなら、ペン先(当時有ったつけペンのペン先)を差し込んで開いてはめます。
鎖の輪が足りなくなっていれば、部品を加えてはめ直します。

3分で直せるものでも、目の前ですぐはめてしまってはお金がもらえません。
「明日までに直しておきます」と預かります。部品が足りなくなっている場合はその料金も貰います。
部品は、店にある壊れたネックレスから外して使うのですけれどね。
色と形を合わせて直すので、仕上がりは上々、新品になったと喜ばれたものです。

大鵬が優勝したとき、相撲部屋が店主の家の近くだったので、パレードを見に来るよう招かれたりもしました。
息子さんの日本舞踊のおさらい会にも招かれてご馳走になりました。店を任されるのは楽しいことでした。

地下鉄ストアは天井の低い地下街で、となりは骨董屋。他には洋裁店や、ストッキングの修理屋などが有りました。
当時貴重品だった絹のストッキング(ナイロンはまだ出回っていない時代)はとても弱くて、
ちょっと引っかいても縦にツーーーッとほどけてしまいます。そのほどけた部分を一列当たり10円で編み直す店があったのです。

当時地下鉄は戦前からあった銀座線(渋谷ー浅草)に、丸の内線が加わったばかりで、地下街は様変わりし始めていました。
銀座4丁目交差点の真下にあった地下鉄ストアも店舗を全部移転させる事になったのでした。
地下通路を今見ても、何処がどうだったのかまるで分からなくなりました。

ストアが閉店する少し前、お客から保険会社にスカウトされました。以後会社担当の保険屋のおばちゃんを、数年ずつ
子育てをはさんで2回、通算10年ぐらいやりました。いまだに四十数年前の保険のお客さん2家族と仲良しです。
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by hisako-baaba | 2008-02-18 22:06 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(8)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その18

実は、今までブログに我が家のルーツを元治元年から書き起こして来ながら、バス時代だけは書けなくて抜かしていました。
ずっと後の職業訓練校ビルクリーニング科の話までも書いたのに。

バス時代だけ書けなかったのは、あることがトラウマになって、
このときボランティアグループで起きたことは一切封印して、語らなかったのです。

しかしこの前、海外に住む若い友人にぽろっとそのことを話しました。「二十代後半に、ひどい裏切りにあってね・・・」と
そうしたら、50年間も封印してきた事を、吐きだせるようになったのです。
当時から言いたかった事を、洗いざらい語ってしまえば、自分の中で、心の傷にカタがつく。
だから、あの頃、本当は誰かにぶちまけたかった思いを、ここに書いてみようと思うわけです。


【バスガールの暮らしにあきたらず】

バスには9年あまり勤めました。
(退職時、厚生年金を脱退するよう言われた事が返す返すも残念です。良く解らず一時金を貰って9年分を棒に振りました)

仕事は一生懸命やりました。良く通る大きな声で「オーライ」とやって、運転手にも合図がわかりやすいと喜ばれました。
指導車掌になり、新入社員を見習いにつけました。毎日連れ歩いて、2週間で一人前にしなければなりません。
良い見習いさん達に恵まれ、見習いを離れても、皆木曜公休の仲間になるので、私は良くみんなを引き連れてハイキングに行ったり、
新宿の歌声喫茶に行ったりしました。みんなから「オネエサン」と呼ばれ、いまだに「オネエサン」と呼んでくれる人が居ます。

運転手さんの中に気の合うおじさんが二人居て、同じ月刊雑誌を三人で順番に買って回し読みして、読み終わると全部私にくれました。
その雑誌などからも民主主義にかぶれて、男女同権を主張し一部の運転手とけんかもしました。
休憩室を汚すのは男、休憩時間に掃除させられるのは女、「汚した人が掃除してほしい」と言って、女の癖に生意気だと怒られましたが、
喧嘩相手の運転手とは、仕事中は文句つけられないように、特にきびきびやって見せました。
男尊女卑の甚だしい会社でしたから、セクハラ、パワハラ、猥談は毎日の事でした。

私は曲がった事が嫌いで営業所長に文句をつけて、言い分を通したりもしました。
所長の見間違いを指摘して、不当に叱られた運転手をかばったら、話のわかる所長から気に入られた事も有りました。
その方が、前の話で友達の首を助けてくれた、前所長なのです。後年出世されたと聞きます。

色々充実してはいたのですが、車掌の仕事は長く続けておばさんになっても、他の職種に栄転なんてありえません。
努力し続けても、何も学ぶところが無いのです。
休みが木曜だけなので、学校にも入れません。通信制でも到底無理でした。

学歴コンプレックスがあったので、何かで自分を確立しないと、いたたまれない思いがありました。
そこで24歳のとき大学生グループの仲間になってボランティアに熱中しました。

保護司さん(五十代の医師の奥様)を手伝って、恐喝暴行で特別少年院に行ってきた19歳の少年の姉役を引き受けたのです。
当時の非行少年は今と違います。もっと純情。

海軍軍人だったお父さんの暴力、お母さんは離婚して出て行き、15歳にならないうちから手がつけられなかったと言う少年ですが、
木曜に遊びにおいでというと、朝から母と私の六畳一間の家に来て、炬燵代わりの猫アンカにかけた布団に寝そべって
一日中他愛ない事を喋り続けます。
母も私もそれぞれの家事や縫い物をしながら相槌を打つだけで、何も言いません。家庭の雰囲気だけ与えたかったのです。
暴れん坊が、行き場をなくしていたうちはまだ安心でした。
でもそのうち「新宿の親分に体を売っちゃったから、もう俺にかまうな」と言い出しました。
保護司さんは、彼の言う事を真に受けて、もうあの子に近づいてはいけないと私を止めました。

でもそんなことで引き下がる私ではないので、彼が泊まっていたお母さんの職場へ押しかけました。
お母さんは都心の大通りに面した事務所に住み込みで、雑役婦をしていました。
夜なのにあいにくお母さんは留守、困ったけれど2階の応接間で彼と対峙しました。
私たちのおせっかいがわずらわしくなっていた少年は、やがて「窓からおっぽり出すぞ」と脅しました。
放り出されてもここは2階だし・・・
私は「何をしようとあんたの勝手だけどね、心配するのはこっちの勝手だ。文句言うな!」一歩も引き下がらず、
彼は根負けしたようでした。数日後、新宿の親分の話はウソとわかりました。

そのうち彼にステキな恋人が出来ました。彼女の力は絶大、私は安心してバトンタッチ、以後彼とは会いませんでした。
やがて彼は彼女と結婚して、親譲りのやんちゃな坊やが出来たと保護司さんから聞きました。

その後もいろんな少年とかかわりましたが、ここまでかかわれた子はいませんでした。
大学生達も大勢ボランティアをしていましたが、私のようにとことんのめりこんで活動する人は居ませんでした。

バスの仕事はアルバイトで、非行少年の姉さん役が本業だと私は思っていたのです。
何とかして学校に行って、当時明治通り沿いにあった、「社会事業大学」に行こうとまだ思っていました。

その後、グループのリーダーからひどい裏切りに遭いました。

少年とかかわった頃の日記を研修資料として提出してくれと委員長(慶応を出て保護観察官になっていました)からいわれ、
絶対外部には出さない約束で、書いて渡しました。
彼はそれを外部に配ってまわったのです。
マスコミの取材申し込みにびっくりし、委員長に対して怒りをぶつけました。
すると彼は、「この運動を大きくするためには宣伝が必要だ」といって映画プロデューサーを私に紹介したのです。
私は「実際の資料を使うことは絶対に断る。色々な人の体験談をまとめて、一つのストーリーに書くことは出来ます」と言いました。
そこで私は生涯にただ一度、小説を書きました。委員長に渡すと、プロデューサーは私を田中澄江先生のお宅に連れて行きました。
脚本の依頼を聞くと田中先生は、冒頭部分に目を通して、私に質問し、「拝見します」と原稿を預かってくださいました。

ところがその頃、委員長は、別のルートで日活に私の元の資料を売り込んでいました。
先のプロデューサーが、怒りながら私に連絡してきました。
「委員長に先を越された。日活で映画化が決まったそうだ」私はぽかんとしました。
そこで又「私の資料を一行でも使ったら、承知しない」と委員長に怒鳴り込みました。結果、作家が物語を書き、
映画は、脚本、水木洋子。出演、左幸子、小林旭、浅岡ルリ子で完成しました。

母親と二人暮しの、はとバスのガイド(左幸子)が、非行少年(小林旭)を担当して、追い掛け回すうち、少年と居酒屋で酒を飲み(ありえない)
酔いつぶれて、少年にラブホテルへ担ぎ込まれる。(ますます ありえない)
左幸子の入浴シーンを撮りたいだけで、馬鹿なストーリーにしたものです。
何故か彼女が一人で入浴中に、少年はホテルを出て行く。全くつじつまの合わないお話でした。
だから私とは関係ないと割り切れたのです。興行成績も悪く、ボランティアの宣伝になんかなりえませんでした。

私がグループを辞めた後で、女子大生の仲間達が、教えてくれました。
「委員長はね、『中谷さんは、自分の原作を映画に出来なかったので、カンカンに怒っているが、あんな力の無いプロデューサーでは、いつ映画化されるか分かったもんじゃない。日活に持ち込んだからすぐ出来たんだ』って言いふらしているのよ」と。

又私は二重にダメージを受けたわけです。
私は、コピーをとっていなかった私のたった一つの小説が、田中先生の書斎のゴミになったことを怒っているのではなかった。
エリートコースを生きている委員長の、度重なる裏切りが許せなかったのです。

20年ぐらいたってから、目黒の保護司会から電話で「あの時の映画の題名はなんでしたっけ?」と訊かれました。
私は原作の本の題名は覚えていたけれど、映画の題名は完全に忘れていました。
それに、実際の私の活動は、保護司のおばちゃまとの連携でやってきたのに、映画には一切保護司さんは登場しなかったのです。
委員長は当時、慶応大学を卒業して、保護監察官になっていましたので、保護司さんの果たした役割は、保護監察官の仕事とされました。
彼はじき監察官を辞めて、民間の大企業に転職したそうですが。


ボランティアにだけ生き甲斐を求めていたのに、足元をすくわれ呆然となったとき、今度はすぐ点字図書館に行ってみました。
朗読には自信があったので、すぐさま朗読録音を始めて、以後何十年も視覚障害者の方々とお付き合いが続いています。

朗読と平行して素人劇団にも入りました。
新宿の保育園を夜だけ借りて週に一度稽古をしました。外郎売のせりふが得意になったのはそのときです。
芝居の発表会もしました。「こだま」という母と息子の物語で、私は老け役でしたが、一応主役。以来あだ名は「おかあちゃん」に。
楽しいモノクロ写真が残っています。みんな貧乏で、劇団はやがて解散してしまいました。
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一方、自分の生活は片思いの失恋ばかり・・・まるっきりモテない娘でした。勇ましすぎましたからね。
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by hisako-baaba | 2008-02-18 11:00 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(16)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その17

【バスガールになって】

学歴のいらない仕事がありました。路線バスの車掌です(ワンマンカーになる以前の話です)中学卒業15歳以上。
私は19歳になっていました。でも受けてみました。なかなか通知が来ないので、諦めて、
三軒茶屋の市場で乾物屋の店員になりました。昭和26年春のことです。
私が陳列すると、感じ良く見えるといわれ、一人で店中の陳列変えをしました。
立体的に、見やすく取り出しやすく・・・商売は大好きでした。
もしも、バスの採用通知が来なかったらば、あのあたりの商店のおかみさんになって張り切ったかもしれません。
でもバスのほうが給与が良く安定していたので、通知が来たとき、仮病で店を辞めました。

バスの初任給は、ハウスメイドの時の月給と同じでした。(うろ覚えですが4000円だったかと)
でも会社が大きいから安全かなと思いました。
しかし、この私鉄の待遇は、同じ路線を乗り入れで走る都バスより、はるかに悪かったのです。

酷かったのは運転士の勤務状態でした。今ならたちまち摘発されるような超過勤務だらけの過重労働でした。
先ず、隔週休日出勤が義務でした。休日は各人何曜日と決まっており、車掌は毎週一日休めますが、運転手は隔週です。
二人で一台担当しているバスを毎週点検整備するのが運転手の仕事だったのです。休日は月に2回・・・
整備工場は併設されているのに、毎週の点検整備は運転手の責任でした。
それは、給料だけでは妻子を養えないので余分に働きたいという人たちの為でもあったようです。
労働組合は文句を言いませんでしたから。
でも都バスの運転手さんには毎週休みがありました。仕事は同じなのに待遇が違いすぎると思ったものです。

勤務は、4時起きして電車で出勤、午後早くバスで帰宅できる日もあれば、
早朝に3時間乗って、7時間もの中休があって、その間にバスのガラス拭きと床掃除をして夕方又3時間乗務する、拘束時間が長くて辛い勤務の日も有りました。
午後に出て、夜11頃帰宅し、翌日は早番で、寝る暇がない勤務も有ったのです。

車掌は出庫の30分前までに制服に着替え、梯子でボンネットによじ登ってフロントガラスをセーム皮で拭き、
バケツでラジエーターに水を入れます。冬は方々凍っているから大変でした。
切符とつり銭を受け取って、鞄をベルトに下げて、出庫です。
午後番は、出庫する場合と、途中の停留所で乗務員交代する場合が有りました。
帰りは車庫に戻るとお金と切符を照合します。混雑が酷い時代でしたから、合わないことも度々有ります。
小額の場合は、会計さんがやりくりしてくれますが、大きくお金が不足すると、給料から差し引かれます。

私は一度千円札を掏られて、給料から引かれました。とても痛い金額でした。
大混雑の中で、15円とか35円とかのバス代に千円札を出す酷い客が居るのです。
確かにお札を受け取って、鞄に入れたのに、他の人の切符を切っているうちに千円札は消えていました。
会計さんにそう話したけれど、金額が大きすぎて、助けてくれませんでした。

ウチの会社の大半の運転手は、売り上げを気にかけて、遅れがちに走ります。やりすぎると乗り切れないことになり、
停留所で待っている人を断る事もしばしば。「すみません満員です。後車をご利用ください」お客さんは気の毒です。
降りる人の居ない停留所は、待っている人を無視して通過します。
後から来る都バスは時間通りなのでこちらが混んだ分やや空いています。
沢山売り上げても手柄になるわけではないのに、わざと遅らす運転手は車掌に嫌われました。
都バスと交互乗り入れでない路線でも、全体的に本数が足りず、ラッシュの混みようは、ドアを閉められないほどでした。

私の入社した26年にはまだ座席が13の小さなバスが1台残っていました。車掌台が無くドアも無いので(ステップは開きっぱなし)、お客を押し込んで、車掌がドアになります。
もう1~2台ドアなしの車が有りました。ステップにへばりついてお客を護ります。車掌の体が完全に車の外にはみ出していた事も有ります。

だんだん新しいディーゼル車に変わってゆきましたが、それでもバスはよく故障しました。故障で一台抜けると大混雑になります。
記憶に残る酷い故障は、車軸が折れて、右に傾いた事です。転倒は免れましたが、驚きました。
もう一つは、マフラーが外れて引きずった事。凄い音がしました。
急ブレーキで子供が額を少し切ったことはありましたが、長く勤めたのに重大人身事故に遭わなかったのは幸せでした。

危機一髪だったのは、並木橋を左折して渋谷に向かおうとした際、左を歩いていたおばさんが、
いきなり横っ飛びに右に飛び出して、自分からバスにぶつかってきた時です。バスが新車で音が聞こえなかったのです。
ドアを開けて左を警戒していた私は瞬間悲鳴を上げ、ベテラン運転手さんは急停止。
おばさんは半分車掌台の床下にはまっていましたが、怪我は無く、「私が悪いのだから事故にしないでください」と、逃げていってしまいました。
運転手さんにはこの事態が全く見えていなかったそうです。
ワンマンバスだったら、確実に死亡事故です。私はいまだにワンマンバスが危なく見えて仕方有りません。

一番不愉快だったのは臨検です。抜き打ち的に車庫前で他の車掌と交代させられて下ろされ、
女の係員たちに畳の部屋に連れて行かれて服を脱がされます。
お金を着服していないかという検査です。確かにごまかす人も少数居たようですが、このやり方は人権侵害でした。
第一、運転手とグルならば、臨検で見つかるわけは有りません。運転手に渡してしまえば解りませんから。

あるとき友達が臨検で、ポケットに100円玉一個見つかって首が飛びそうになりました。
彼女は処分が決まるまで自宅待機にされました。(彼女は7人姉妹の長女、一家の稼ぎ手でした)
混雑の中でポケットにコインを一個誤って落とし込む事は十分ありえます。鞄の隣がポケットなのですから。
第一、7年も真面目に勤続している車掌が、100円盗んで何万円の退職金を棒に振る筈は有りません。

当時の所長では話にならなかったので、私は組合役員の運転手さんと二人で、
本社に栄転した、話のわかる前所長を訪ねて、救済を頼みました。
その方は「Iさんがそんなことする訳がない。大丈夫任せなさい」と言ってくれました。
おかげでクビは助かったものの、友達は他の営業所に飛ばされてしまいました。今なら不当労働行為です。

夜遅く帰宅する道も結構危険でした。駅から帰る途中で、二人の若い男に道をふさがれました。
避けようとしても、前を塞いで通さないつもりのようです。
例の、機銃掃射を聞いたあの道でしたから、お屋敷の塀ばかりで逃げ場はありません。
つぎの瞬間私は突進しました。二人にぶつかって行ったのです。私の手提げに何か重いものが引っかかりました。
それは釘だらけの1mあまりの角材でした。彼らはびっくりして持っていた角材を手放したのです。
ぽかんと立ち尽くしている男どもに角材を放り投げて、わざと低い作り声で「気をつけなっ」といってさっさと帰ってきましたが・・・
後から、角材を持っていることを知らなかったから、突破できたんだなと思いました。
でももし、ぶつかって行かなかったとしても、私の声は甲高くて物凄く大きいから、
「火事だーっ」と叫んで脅かす事も出来たし・・・と全然恐がっていない私でした。
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by hisako-baaba | 2008-02-17 09:12 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(13)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その16

【繰り返した挫折】

鏡売りで儲けたお金で、初期の編み物機を買って、習いに通いました。昭和24年春でした。
ごく初期の編み機で、「矢」と言う60センチぐらいの竹の棒を、シャーッシャーッと差し込んで編む、メリヤス編みしか出来ない機械です。
模様編みは、いちいち針から外して、そこだけ編み直すと言う厄介な機械でした。
鏡売りで作ったお金は、機械代と初級クラスの授業料だけでした。上級クラスに進級できないので仕事を回してもらえませんでした。
何年も経たないうちに、そんな初期の編み機はガラクタになってしまいました。高速編み物機の進歩は目覚しかったのです。

編み物の夢破れたとき、洋裁店のお針子になりました。
三十代の先生(独身の女性)が一人で経営している小さなお店で、お針子は18歳の私たち二人でした。
当時のスタイルは4枚接ぎのフレアースカートで、ウエストの細いワンピースを沢山縫いました。
既製服の無い時代で、お客さんは生地を買ってきて洋裁店に仕立を頼むのが普通だったのです。

昭和25年、朝鮮戦争が勃発しました。戦争は共産軍に朝鮮半島をひとなめにされたと思ったら、
国連軍も反撃しソウルは何度も占領されたり奪回したりを繰り返しました。
一説では住民を含めて400万人の犠牲者が出たという大変な戦争でした。

米軍の苦戦が伝えられ、在日米軍からも、どんどん兵隊が送られてゆきました。
洋裁店の前の大通りを、戦車が轟々と通って行きます。トラックに乗った兵隊さんもどっさり朝鮮に向かいました。
先生も私たちも「かわいそうに」と同情していました。米兵に手を振ったことなど無いけれど、
朝鮮戦争に行かされる兵隊さんには、三人で手を振りました。彼らも喜んで手を振ってくれましたが、悲しそうに見えたものです。
「生きて帰りなさいよー」と私たちは祈る気持ちでした。
洋裁店の先生は、ご主人か恋人を戦争で失ったのかもしれないなと思ったものでした。

洋裁の智識は何もなかった私が、このお店で少しだけ覚えたおかげで、
後に型紙を買って自分や子供の服を作ることが出来ました。
女同士のおしゃべりも楽しかったけれど、お針子の給料では暮らしが立ちませんでした。
結局お金が足りない悲しさで、26年春には辞めました。
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戦後初めて撮ってもらった写真。洋裁店で、お針子の二人。左が私。
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by hisako-baaba | 2008-02-16 15:56 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(6)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その15


【ニセ学生になってアルバイト】

ハウスメイドをクビになってから、色々な仕事にチャレンジしても、全部駄目でした。
兄も中華民国代表部のドライバーのリーダー役があまりの激務なので疲れ果てて辞めていました。

兄はその頃ヤミの魚屋を手伝っていました。二人で小船を出して船橋沖で、入港前の漁船から魚を買い付けてヤミ市で売るのです。
漁船は港に入ると、公定価格で魚を売らなければなりません。インフレは毎日進むのに、国の決めた公定価格は一定です。
だから沖でヤミ屋に一部を売るのです。ヤミ屋は秋刀魚などを大量に仕入れてどこかにそっと上陸し、売りさばきます。
品物さえあれば闇値でどんどん売れるのです。
物資は闇に流れ、公定価格の品が少ないから、公定価格の配給はほんのわずかしか消費者に届かなかったわけです。

しかし兄たちのヤミ舟は遭難してしまいます。エンジン故障で船橋から横浜三渓園沖まで流されて座礁、
舟は壊れ積荷は腐ってしまいました。二人は命からがら岸に上がったのです。
私がこの話を初めて聞いたのはつい最近の事でした。

昭和23年の11月、たまに帰宅する兄が、「江戸川の方で、学生にノート売りをさせている人が居る。やってみないか」と私に言いました。
すぐ行って、学生でもないのに、仲間に入れてもらいました。
でもこの「再建学生連盟」なる組織はいいかげんなものでした。飲んだくれの親父さんが、利益を求めて始めたようです。
資本を投じて学生を援助するのだと威張っていましたが、商売の知恵が全く回らないのでした。
交通費をかけて本部に行っても商品が品切れで、仕事にならない日が何度もありました。
ノートのほかにはさらし飴を仕入れただけで、もっと売れる商品をといくら言っても聞き入れません。資金が無かったのでしょう。
酔っ払っては「もっと働け」とお説教ばかりするおじさんは、学生達に全く人気が有りませんでした。

都内には幾つもの学生連盟があって、しっかり活動している組織では、ノートの卸値がもっと安かったのです。
でも学生証を持たない私は、よその連盟に鞍替えするわけには行きませんでした。

連盟本部で、ノートや飴を仕入れたら、バスで新小岩に出ます。タバコ屋に預けてある折りたたみ式の台を持って、
何処かの駅に行き、交番に断って、小さな台の上に商品を広げ、メガホンで叫んで売るのですが、
場所次第で儲かったり、交通費ばかりかかって赤字だったりしました。
私はいつも一人で出るようになっていましたが、ある日ベテランの男子と一緒に行きなさいと言われました。
初めて組んだ二人は蕨に出ましたが、労働争議のデモの騒音で全く売れず、川口も駄目で日が暮れました。
「上野に行きましょう、良い場所がある」と彼。京成上野駅の真向かいに、みかん売りのおじさんと並びました。
「あなた一人のほうが良く売れますから」彼は遊びに行ってしまい、私一人で沢山売りました。
真冬の夜の上野には、パンパンガールだけでなく、和服姿のオカマさんたちが居て、もうびっくりでした。
9時半過ぎ彼が戻ってきて、儲けを折半し、連盟へ戻っての清算は全部引き受けてくれました。
私はいつもより多い儲けを手にして手ぶらで真っ直ぐ家に帰る事が出来たのです。
いつもなら残りを担いで連盟に戻って清算して、終バスに乗り遅れると、寒風吹きすさぶ小松川橋を歩いて渡って、都電で錦糸町に出てから帰るので、家には11時過ぎにつくのでしたが、この夜は楽でした。

そのうちに仲間の東洋大生が「傷物の鏡を売らせてくれるところがあるんだけど」とそっと教えてくれました。
さっそく紹介してもらうと、リュックいっぱい鏡を貸して頂けました。
輸出できない傷物で、ガラスは青いし、表面は凸凹、歪んで写ったりする鏡。しかしそんな粗悪品しかない時代で、
デパートにもそんな商品が高値で出ていました。
少しぐらい傷があってもデパートよりはるかに安いので良く売れました。戦災に遭った人は鏡など持っていませんでしたから。

立川で仕入れたリュックいっぱいの鏡を背負って、台が無いから家の棚板をはずして持って行きます。
自由が丘などの駅前で、宝くじ売りのおばさんなどに荷物を見ていてもらい、交番に断りに行って、
果物屋でりんご箱を3個貸してもらいます。
箱に棚板を渡して、模造紙にクレヨンで書いた看板を下げ、鏡を並べます。
その並べ方で、駅の事務所に反射して、「まぶしくて仕事が出来ないから向きを変えなさい」と叱られたりしました。

私には当面4千円貯める必要が有りました。編み機を買って、習いに通って編み物で自立しようと思ったからです。
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by hisako-baaba | 2008-02-15 13:41 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(5)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その14

【女中奉公もハウスメイドも勤まらなくて】

私が病気した頃には下の兄も、中国のインフレでお金がなくなり、中国人になりすませられなくなって、日本に引き揚げていました。
焼かれたと思った家も家族も無事で、大変驚いていました。
兄がもう一つびっくりしたことは、特務機関時代の高額な給料を、6年間内地に貯金していたのに、
総て、母と私の口に入ってしまっていたことでした。お金が全くなくなったときに帰ってきたのです。

兄は中国に残留していた間、中国軍の手伝いをしていたので、その給料を中華民国代表部に貰いに行って、
そこの住み込み運転手になりました。だから私がなかなか就職できなくても、何とかなりましたが、
私自身は自立をあせっていたのです。

小さな新聞広告を握り締めて、誰にも相談せず横浜の日吉まで行った事があります。
その紙片には「女中求む」とありました。女中とは住み込みのお手伝いさんのことです。
住み込み食事つきで働きたいと思いました。家にいても食事を確保するのが大変でしたから。

その家は高台のお屋敷で、いかにも成金趣味の豪邸でした。
勝手口から台所に上がると、女中頭らしきおばさんが出てきて、
「貴女が?お仕事なさるの?」なんとも不思議そうに私をじろじろ見て、直ちに断られました。
彼女の観察眼は確かでした。「こんなねんねの嬢ちゃん、使いものにならん」
女中さんなんて、私に勤まる仕事では有りませんでした。

その話をしたら、兄が「中国の銀行家が身元の確かなメイドを探しているけど、やってみるか」
というので、行って見ました。
当時は住宅難で、売り家も貸家もなかったので、日本の銀行家が自宅の二階を提供していました。
ご主人が一人先に赴任して来て、台所用品から何から買い揃えました。
会話はご主人の片言と、筆談と手振りと、私の描く絵で間に合いました。蒸し器もヤカンも絵で通じました。
毎朝必ず白いお粥を炊いて、沢庵の炒め煮などを作りました。昼食夕食を作る必要はありませんでした。

数ヶ月は困ることなく過ぎましたが、やがて奥さんと1歳半の坊やカンカンちゃんが到着。
ご夫婦は頻繁に深夜までのパーティーに出かけるようになりました。
カンカンちゃんは、言葉も解らないおねえちゃんに預けられて半狂乱、眠るどころでは有りません。
泣き喚き続けるので、階下の家主さんが困り果てて、ベテランのメイドさんを紹介しました。
そこで私は一か月分の給料を余分に頂いてクビになったのです。

5年後くらいに、私が車掌で乗務していたバスに、この銀行家と大きくなったカンカン君が乗りました。
丁寧に挨拶され、お互いに嬉しい再会になりました。張り切ってバスガールをやっている私を見てもらえたし、とにかくステキな再会でした。
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by hisako-baaba | 2008-02-14 14:31 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(8)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その13

【ウエイトレスだった半年間、そして肺結核の半年間】

私には三人の兄が居ました。病弱な長兄は戦後間もなく亡くなりました。
16歳上の次兄は満州に出征していましたが、幸運にも済州島に移動して終戦を迎えたため、早く復員できました。
しかし妻と三人の子供を抱えて母に援助するだけで手一杯。私がぶら下がるわけには行きません。
下の兄は終戦後、私たちが大空襲で死んだと思いこんで、残留し中国人になりすますつもりでした。
そういう知らせが届きました。「彼は中国にもぐってしまった」と。だからもう帰っては来ないと思っていました。

私は就職活動に懸命になり、大会社に入社しました。
あるデパートが、新宿に新規開店するレストランのウエイトレスです。

十数名のウエイトレス仲間は皆小学校高等科卒業生でした。私は女学校2年中退。
それなのに初任給が私だけ少し高かった。
高等科は2年制だから私より半年多く学校に居たのに、一年半しか女学校に居なかった私の方が高いのは不思議でした。
高等女学校と、小学校高等科の間には差別が歴然としてあったのです。
ということは高等女学校中退の私と、卒業した人との差別も激しかったわけです。

とにかく学歴を必要としないウエイトレスになって、順調に貯金もしました。
電鉄系の会社なので、無料で通勤定期が貰えました。
開店準備と訓練を経て開業。ウエイトレスのリーダーは和服を着た中年女性でした。
何故和服だったのか開店後はどうだったのか忘れましたが、とても優しくて気配りの良い独身女性でした。

お皿を沢山持つ練習もしました。左手に10枚、右手に2枚、大皿を乗せて腰でバランスをとって歩くのです。
何故トレーを使わずそんな運び方をしたのでしょうか?職人芸を見せたいウエイトレス心理だったのかもしれません。
料理を入れた皿は、左に4枚右に2枚が新米の私たちには限度でした。
いまだに私は左手に3皿の料理を持ってしまう癖が有ります。

レストランのメインは喫茶で、パフェやプリンが印象に残っています。
主食は外食券を出さないと買えませんでした。
外食券は、お米の通帳を持って行って、米の配給の範囲内で、発行されました。
外食券を貰うと、米の配給は減るのです。
「海藻麺」は外食券が要りませんでした。半透明の緑の麺で、だしも美味しくない変な食べ物でした。

3階に宴会場があって、コース料理が出ました。ウエイトレスはお客様の後ろに立って気を配りました。
宴会のお客から外食券をとることはしないのに、いつもバタロールが二つずつ出るのでした。これはヤミ物資です。

飢えに縁のない人たちの会合だから、残り物が沢山でました。
ビールのあまりは、カウンターの男の子に目配せして飲ませました。
バタロールはウエイトレス達のポケットを膨らませました。
手付かずのフライなどは、こっそりつまみ食い。宴会があると嬉しかったのです。

定休日ごとに先輩からデートに誘われました。ところが15歳の私には恋心なんてまるでわかっていませんでした。
22歳のお兄ちゃんと、世田谷の九品仏のお池(トットちゃんの本に出てくるあそこです)でボートに乗って、
夕方になるとさっさと家に帰りました。
逗子の海に連れて行ってもらったときは、海の家のおじさんから「お兄さんと一緒で良いよ」と男の更衣室に行けといわれて、
二人でどぎまぎしました。もちろん断って女子の方に行きましたが。
それ程私は幼く見えたのです。やせっぽちの小さな体つきに、ぽっちゃりしたまん丸の顔。どう見ても子供でした。

彼も私があまりにも幼いので、キスする事も出来ないでいました。
良いとこのじょうちゃん風で、言う事だけやたら理屈っぽい。「ヘンな子だね」といつも言われました。

勤めて半年が過ぎたある日、家の近くで、左胸に横から野球のボールが当たりました。
翌日になって痛みが激しくなり、外科は無いので、かかりつけの内科に行ったら、
左の肋膜炎だといわれ、長い休養が必要になりました。
私はボールが当たった為に肋膜炎になったと恨みましたが、最近のお医者さんが言うには
「両肺に結核をやった跡がある。ボールが当たって医者に行った為に、初期の結核を発見されて、早く治ったのでしょう」とのことでした。

病気で会社を辞める必要はなかったのに、世間知らずの私はさっさと辞めてしまいました。
(やめさえしなければ、その後の4年間のとんでもなく厄介な暮らしはなくて済んだ筈なのですが)
デートの彼から手紙が来ても、もう会いませんでした。

半年間毎日のように注射に通いました。筋肉注射を続けたので、いまだに腕の筋肉が凹んでいます。
しっかり溜めていた貯金がからっぽになったとき、病気は治りました。
しかし仕事がありません。就職活動は失敗続き、女学校中退で、病気で半年のブランク。何処の会社も雇ってくれないのでした。
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a0050728_1552912.jpg

昨日は氷雨、今日は青空で、強風に白雲が走っていました。
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by hisako-baaba | 2008-02-13 15:08 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(8)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その12

【パンパンガール】

盛り場には、からだを売る娘達がたむろしていました。何故かパンパンと呼ばれて軽蔑されていました。
でもあの当時、売春をする人を軽蔑できないと思っていました。
何人もの弟妹を抱えたお姉ちゃんは、自分を犠牲にしない限り全員を飢えから救う道はなかったのですから。
焼けトタン小屋や、防空壕に住みながら、明日の食料を稼いでくるには、女の子に良い仕事なんか有りませんでしたよ。
復員したお父さんが病弱で働けないという話も良く聞きました。
心身ともにぼろぼろになって命からがら復員した人が多かったのです。

一方では、軍の物資をごっそりせしめて帰宅した軍人も居ました。
軍の食料や毛布などをトラックで持ち出してヤミで売ったと得意げに語る人も居ました。
ごく一部の人間は儲けたけれど、大多数が飢えていた時代でした。

昭和の初期には、疲弊した農村から娘達が売られた・・・戦争に負けたら、働き手を失った家族のお姉ちゃんが犠牲になった。
いつも辛い目に遭うのは娘達でした。

進駐軍兵士の腕にぶら下がって歩く女性も目立ちました。みんな背が低くて痩せていました。
フレアーのロングスカートをハイヒールでなびかせて、真っ赤な唇の女性たち。
米軍将校のお妾になって「オンリーさん」と言われた女性たちは、実家に豊富な食料を届けました。
米兵と恋をして、結婚して日本で暮らしていた間は豊かだったのに、除隊になってアメリカの夫の実家に着いた時、自分が極貧の家庭に嫁いだ事に気付く人もかなり有ったそうです。
軍隊の給料がなくなり、仕事もなくて、酒におぼれ暴力を振るうようになった夫と、ようやく離婚出来ても、
日本へ帰ることは出来ないまま、厳しい人生を送った話もしばしば聞きました。

私には母が居て、家もあって、どうにかあの食糧難を乗り切れた。恵まれた方なのに、それでも学校にだけは行かれなかったのです。
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by hisako-baaba | 2008-02-12 15:11 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(6)

戦争を知らない世代の皆様へ・・・その11

【人心の荒廃、そして激しいインフレ】

『特攻隊くずれ』という言葉を良く聞きました。酷いと思ったものです。
国の為に死ねと言われて、辛い訓練を受けていたのに、何もかもが無駄になっての敗戦。
仲間は何のために死んだのか分からなくなってしまった。
死ぬつもりになっていた十代の少年達は、もう用は無い帰れといわれても、納得できるわけがない。
一部には荒れ狂って犯罪に走る者も居ましたし、ヒロポン中毒で廃人になった例も聞きました。
『特攻隊崩れ』だなんて、ひどすぎる言い方でした。彼らをそこに追いやった軍首脳こそが、糾弾されるべきなのに。

町では粕取り焼酎なるものがはやりました。本当のカストリなら良いのでしょうが、バクダンというのが有りました。
当たれば死ぬ、毒性の強い「メチルアルコール」です。飲んで失明したり死んだりした例を良く聞きました。
殺人酒が出回っているのを百も承知で、呑んだくれている人の気持ちは全く理解できない私たちでした。
うちには酒好きが居ませんでしたから。

当時の生活格差は今よりはるかに酷いものでした。
ヤミ商売で大儲けをした成金は焼け残った豪邸を買い、焼け跡の防空壕には、焼けトタンで雨をしのいで住んでいる人々が居る。
焼け跡にバラックを作る能力のある家族はまだましですが、どうにもならず立ち尽くす人々も居たでしょう。
明日の米をどう工面するか、先の見えない中で、酒におぼれるおじさんたちが居たわけです。

第三国人の横暴も話題になりました。それまでいじめ抜かれていた中国や朝鮮の一部の人々が、ここぞとばかり知恵を絞って、
ヤミ商売をやりたい放題で、大儲けしたと聞きます。彼らはあまり取り締まられなかったようです。
ヤミ商売をする才覚のない庶民は、どんどん価値の下がってしまうお金で、今買える物をとにかく買っておこうと血眼になり、インフレはどんどん加速しました。

私の母は、昭和13年に夫を亡くしたとき、家を売って、自分が一生暮らせるだけの、一時払い郵便年金に加入しました。
毎月必要な生活費を下ろせるはずでしたが、猛烈すぎたインフレによりその一か月分で、パン一個しか買えなくなっていました。
郵便局から通知が来て、わずかな金が一回下りてその年金は消滅しました。つまりそこで父の遺産はなくなったわけです。
買わされていた戦時国債は、全く支払われる事なく、紙くずと化したようでした。
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by hisako-baaba | 2008-02-11 17:33 | 戦争を知らない世代の皆様へ | Comments(7)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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