カテゴリ:少年兵兄弟の無念 猪熊得郎( 23 )

猪熊得郎さんの終戦時の思い出
8月15日。敗戦の日。14歳になったばかりだった私にとって、先ず思い出すのはひもじさ。
それからの五年十年はは生活との大戦争の思い出ばかり。

同じころ2歳半ぐらい年上の少年兵、猪熊得郎さんは満州で武装解除、ソ連軍に拉致されシベリアに送られたのでした。

今日は、猪熊徳郎さんのお話を転載させていただきます。

 ソ連軍侵攻
 「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は、公主嶺飛行場の第二分隊応援のため、無線機材と共に出発せよ」八月九日昼過ぎの命令でした。
少年兵の私は当時十六歳、旧満州の首都新京(現中国吉林省長春)満幅街に中隊本部を置く第二航空軍第二二対空無線隊に配属されていました。私は、早速、新京から南約五〇キロの公主嶺飛行場に無線機とともにトラックで駆けつけました。、

関東軍の作戦計画 満州国の四分の三を放棄
 七月五日に策定された関東軍の作戦計画は、ソ連が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して持久戦に持ち込む。主力は戦いつつ後退し、満州国の四分の三を放棄し、大連、新京、図門を結ぶ線を防衛ラインとする。関東軍司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。最後の抗戦を通化を中心とする複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を守る。準備は九月末まで。ソ連侵攻はその後であろうというものでした。
根こそぎ動員
 七月十日には在満の適齢の男子約四十万人のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員十五万人ほどを除いた残り約二十五万人が根こそぎ動員されました。
これによって関東軍は七十万に達しました。しかし、根こそぎ動員兵は老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいたと思はれます。竹筒の水筒、革靴がなく地下足袋と言った有様でした。そしてこの作戦計画は、開拓団や、在満居留民を置き去りにし、悲惨な結果を生み出したのでした。
○「国体護持」「棄兵・棄民」
兵士たちや一般居留民の知らない所で大きな変化が起こっていました。「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を十日朝行っていました。一方大本営は「対ソ全面作戦」を発動し「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされました。満州国の放棄、皇土朝鮮防衛の戦略のもと、十一日には「総司令部は通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続すべし」の命令を発して関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。事実上の逃亡です。また同じ十一日、関東軍総司令部は満州国政府をとおして「政府および一般人の新京よりの避難は許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家庭において待機すべし」の命令を発し一般居留民を置き去りにしての軍部とその家族優先の南下輸送を始めました。ラジオで「関東軍は盤石である。居留民は安心せよ」と放送されました。
 新京帰着
私は、二日後「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。すべての分隊は中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で再び新京に戻りました。
八月十二日、新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり重要書類を焼却する黒煙が立ちのぼっていました。公園や広い道路には防御陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。
七月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たち、45才以上の壮年男子が「防衛隊」に動員されていました。日の丸の襷に、開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。
 日の丸鉢巻き・水杯
十二日夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、全満各地の飛行場に展開していた、第2航空軍第22対空無線隊の各分隊は、新たな戦闘配置に付くため 新京満福街の中隊本部で先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞を聞いていました。「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹底すること。戦闘中の戦死、戦傷にもいささかも揺るぎのない体制を作ること」、「暗号書保管の担当者を定め、また焼却処分方法も周知徹底し、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、暗号書類は対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいていました。 出撃隊員全員日の丸鉢巻きです。水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。
杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。
「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点に遊撃戦を展開しよう。)」父のこと,家族のこと、故郷東京での思い出が、走馬燈のように頭をよぎりました。「いよいよだな、どうなるかな」、水杯を飲み干しました。
 東部方面のソ連軍は牡丹江、ジャムスを陥し、敦化に迫っていました。西北部は大興安嶺山脈を突破し白城子、奉天、チチハルを目指していました。また朝鮮北部の雄基、清津等の港から上陸したソ連軍は北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。
 私たちの分隊は、朝満国境近くの梅花口飛行場に派遣されることになり、十四日夜、新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。
棄兵・棄民
 しかしこの頃、日本政府と大本営は、ポツダム宣言の受諾と「国体護持」の条件の明確化などの対応に大童で、無条件降伏に伴い関東軍をどう収束するのか、在満居留民の保護をどうするかなどの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのでした。
事実、旧満州・中国東北部にいた開拓団の三分一の八万人が、戦禍の中で、望郷の想いむなしく命を落とし、取り残された残留婦人・残留孤児は一万五千人以上でした。
 第十三錬成飛行隊 最後の一兵まで戦う
 十四日夜、私たちの分隊は新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていましたが、深夜の命令変更で、梅花口飛行場ではなく再び公主嶺飛行場に行き、第十三錬成飛行隊との協力となりました。
 8月15日
 貨車は十五日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。駅の様子がおかしいのです。天皇のラジオ放送があり戦争が終わったというのです。私たちはとにかく飛行場に向かいました。 十三錬成飛行隊長は「命令など何もない。我が飛行部隊は最後の一兵まで戦う」と言うことでした。分隊は早速ピスト(戦闘指揮所)にはいり送受信所を開設し対空無線隊として戦闘行動に参加しました。戦闘機がソ連戦車群攻撃のため次々と出撃して行きました。
  停戦命令 高級将校の逃亡
8月17日夕刻、関東軍の命令を傍受しました。「『兵員名簿』、『兵器台帳』、『食糧台帳』を除いて書類すべて焼却せよ」というものです。 十八日夕刻、関東軍の停戦命令を傍受しました。停戦命令は部隊に伝達されました。
八月十五日から三日遅れの停戦でした。
ところが高級将校が「ソ連戦車の攻撃に行く」と乗り込みました。沈みかかっていた兵隊たちがみんな元気になり、一斉に帽子を振り出撃を見送りました。戦闘機は上空で旋回すると機首を東に向け、日本に向かって飛び去りました。この時、日本は敗けたのだ、と涙がこみ上げて来ました。送受信機のぶち壊しが始まりました。頑丈です。2階に上げて、階段を転げ落としたり、下のコンクリートめがけて叩きつけました。 武装解除までの混乱が始まりました。八路軍ゲリラの決起、満州国軍の反乱、日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人の日本人への襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。武装した中国人と食糧の争奪。兵舎の中も全くの無秩序で、痛めつけられた上官への仕返し、兵士同士の撃ち合い、前途を見失った古参下士官たちの自決、死体の焼却。
私たちの分隊もどう生きるか、行動を決めなければなりません。分隊の意見は二つに分かれました。十人が「大きな部隊につけば日本に帰れる確率が高い」と主張し、残り五人は「それは捕虜になる。生きて虜囚の辱めを受けず、歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。激論は平行線のまま結論が出ず十七歳の特幹同期の戦友とともに彼らは飛行場を出て行きました。明け方とぼとぼと立ち去る彼らを見送くりましたが、彼らは未だに日本に還っていません。ソ連兵に殺されたのか、中国人に殺されたのか。それとも飢え死にでしょうか。
 収拾のつかなくなった部隊長は「自分の身は自分で処せ」と通達し、脱走が始まりましたた。脱走者たちは銃を突きつけ貨物列車を走らせましたが、ソ連機の銃撃、武装中国人の襲撃で大部分が命からがら部隊に戻ってきました。慌てた部隊長は「一丸となって帰り、祖国再建のために尽くす」と命令しました。
 武装解除
8月末(日にちは正確に覚えでいない。) ソ連軍がはいってくる、武装解除をされるということになりました。飛行場の真ん中に武器、弾薬、飛行機を並べ、隊伍を組んで飛行場を離れました。自衛のためと3人に1挺の銃の携行と将校の帯刀は許されました。日本軍の部隊が出て行くのと入れ違いにソ連軍の部隊が入ってきました。街道上で双方の部隊がすれ違うのです。ソ連兵はマンドリンのような回転式の機関銃を抱え、汚れきった軍服に、泥だらけの長靴を履き、目をぎらぎらさせてやってきました。一触即発の危機というのはこういう時のことでしょうか。どのくらいの時間がたったでしょうか。彼らが離れていったとき、全身から力が抜けるようでした。
 私たちは、山の上の高射砲部隊の空き兵舎に移りましたが、食糧はありません。 私たちの兵舎と糧秣倉庫との間には街道があって、ソ連兵がマンドリン型機関銃を持って警戒に当たっていました。夜になると特攻隊が組織され私は若いので、いつも指名され特攻班長でした。
真っ暗な夜、夜中に「山」と「川」の合い言葉でソ連兵の警戒線を突破します。倉庫から味噌樽や醤油樽、米袋を担いで、ぬかるみに足を取られながら、兵舎に戻ります。見つかれば射殺されるのですが、ただただ生きることに必死の毎日でした。

そしてシベリア抑留と続くのです。
 私の16歳の夏の思い出です。
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by hisako-baaba | 2010-08-15 16:10 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(4)

少年兵兄弟の無念 (16)   猪熊得郎
「少年兵兄弟の無念」16話から20話まで、あまりにも膨大な量で、改行の訂正が出来ないまま、掲載が遅れました。
時間もないので、何も改行せず、このまま掲載する事に致します。

猪熊さんは、17才の誕生日にソ連に抑留されたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 8月末です。ソ連軍が入って来て、武装解除されると云うことになりました。
飛行場の真ん中に武器、弾薬、飛行機を並べ、隊伍を組んで飛行場を離れると言
うことです。無線機はみんな壊しました。壊すとなると頑丈です。階段の上から
転がり落としたり、二階から、下のコンクリートに叩きつけたり、口惜しさの思
いを叩きつけたのでした。

将校は帯刀したままで良し、銃は自衛のため三分の一は携行して良いと言うこと
でした。飛行場を日本軍の部隊が出て行くのと入れ違いにソ連軍の部隊が入って
きました。日本兵は背嚢一杯、荷物を抱え、新品の軍服上下、編上靴です。ソ連
兵はマンドリンのような機関銃を抱え、汚れきった軍服に泥だらけの長靴を履き、
目をぎらぎらさせてやってきました。
東部戦線から侵攻したソ連の部隊は、シベリアで収容所にいた囚人が多かったの
です。ソ連兵の中でもとりわけ程度が低く、凶暴で、たいてい入れ墨をし略奪し
た時計をいくつも腕に巻いていました。

すれ違うときは緊張しました。お互いにらみ合いながら中には身構えている者も
いました。あれで撃ち合ったらいちころでした。お互いがすれ違い離れたとき、
ホッとしました。のどはからから、脇の下は脂汗でびしょ濡れでした。

日本軍は山の上の高射砲部隊の空き兵舎に移り、そこでソ連軍の管理下に入りま
した。ソ連軍の管理下と云っても、行動範囲を指定されそこで自活生活に入った
と云うことでした。

ソ連軍の管理下に入っても食糧はありませんでした。どこかで調達しなければな
りません。兵舎と糧秣倉庫との間には街道があって、ソ連兵がマンドリン型機関
銃を持って警戒に当たっていました。

「特攻隊」を編成して糧秣倉庫から食糧を盗んでくることになり、各隊各グルー
プから特攻要員を募ることになりました。
 早速私たち対空無線隊には、本部から「若くて生きの良い少年飛行兵と特幹の
兵長がいるだろう。その二人を特攻班長で差し出せ」と指令が来たのです。

「何が特攻隊だ」、「死んだら二階級特進か」、「偉そうに命令出して威張って
る将校どもがやればいいじゃないか」、「小さい集団だからなめられているのか」
、ケンケンがくがく議論になりました。結局分隊長軍曹に説得されました。「俺
たちがやらなかったら食糧がないのだ、みんなのたれ死にだ。二人やってくれな
いか」というのです。結局、「やってやろうじゃないか」「少年飛行兵と特幹の
意気を見せてやろう」と言うことになりました。

10人ずつの「特攻隊」三班で、私たち二人はそれぞれ一つ宛の班を任せられ特
攻班長でした。夜中に、「山」と「川」の合い言葉でソ連兵の警戒線を突破して、
倉庫から味噌樽や、醤油樽、米袋を盗って来ました。

ソ連兵に見つかれば射殺させられるのです。街道脇まで匍匐前進です。ソ連の歩
哨が遠くに離れ、反対方向を向いている隙に街道を横切るのです。帰りは大変で
した。樽や袋を担いでいるのです。よくやったと思います。

闇夜に、ぬかるみに足を取られながら、味噌樽や、醤油樽、米袋を担いで、とに
かく必死でした。転んでひっくり返っても声を立てられません。泥まみれになっ
て黙々と任務遂行でした。二日続けました。あれで見つかって射殺されたらどう
いうことになったのでしょうか。「特攻死」なのでしょうか。

 あの敗戦の混乱時によく生きてこられたと思います。今日どう生きてゆくか、
明日はどうなるかの毎日です。それだけが頭一杯の毎日です。他のことは何も考
えていません。此処でどうするかの判断は、自分でしかできません。その瞬間瞬
間に判断し行動し生きてきました。十六歳の夏のことです。

 それでもこれから先どうなるかお先真っ暗です。我々の場合は戦争が終わって
喜んだなどと云うことは全くありません。

9月11日、私たちを乗せた貨車は公主嶺を離れました。ソ連兵に「トウキョー
ダモイ」「ビストラ、ビストラ」(東京へ帰るんだ、早く、早く)とせき立てら
れ貨車に乗り込みました。

私たち10人の小グループの悲哀です。5人、3人、2人の三つに分かれ、それ
ぞれ他の部隊の半端の隅に置かしてもらうことになったのでした。

私は、少年飛行兵兵長と2等兵3人、そして特幹兵長の私の5人の組で、航空修
理廠の埼玉県出身の軍曹の分隊と合流したのでした。偶然ですが、幸いなことに
その分隊の大半は航空整備兵で特幹二期の上等兵が大半でした。

私たち5人は、他の部隊に組み込まれ、若造となめられてはならないと、どさく
さに紛れ、星一つ宛ふやしたのでした。新兵2等兵は1等兵です。そして2人の
兵長は伍長です。兵長と伍長は単に星一つの差ではありません。兵と下士官です。
その立場は全く違います。「闇」伍長になったのです。

 しかし内地に帰ってから調べたら、終戦による特別措置で、昭和20年8月以
前に兵長であった特幹は、昭和20年8月20日付けで伍長または軍曹に任官し
ていました。
 また、船舶の海上挺進隊(丸レ艇による特攻)配属者は、転属の時点ですでに
軍曹に任官し、航空通信の場合も、特攻隊志願者は、志願の時点で伍長に任官し
ていました。

本隊から孤立した分隊で、そんなことを知るよしもなく、「闇」ということで、
多少良心の呵責もあったのですが、その頃はそんなことおくびにも出さず、「伍
長」を演じる図太さを備えていました。

貨車は北に向かって出発しました。「北に向かってなにがダモイだ」と言うと、
「いや、新京で東に向かうのだ、吉林、敦化を経て朝鮮の清津から船だ」と意見
が分かれます。

新京では、やはり北上です。悲鳴が上がりました。「まだまだだ、諦めるな」、
「捕虜ということだ、一旦ソ連領に入れてから日本に帰すのだ」、「ハルピンか
ら牡丹江を目指す、綏芬河を通って国境を越え沿海州の港から船に乗るのだ」。
「わらをもつかみたい」のです。

ハルピンでは引き込み線に入って半日以上も停車したままです。口数が少なくな
ってきました。右か左か、吉か凶か、それだけを思い詰めています。「ビストレ、
ダワイ」、「ダワイ、ダワイ」、「トーキョーダモイ」「スコーラダモイ」「ビ
ストレ、ダワイ」(早く、乗れ、乗れ、東京へ帰るぞ、早く帰れるのだ、早くし
ろ)

いよいよ出発のようです。みんな貨車に乗り込み扉が閉められました。全員固唾
をのんで声も出ません。ポイントを揺れてどっちへ行くのでしょう。

真っ直ぐ北上です。「ダメだー」、泣き声のようです。「いやおかしいぞ」、
「右牡丹江ではないぞ」「左満州里でソ連でもない」「いったいどこへ行くのだ」
「黒竜江で行き止まりだ」「どこか途中でおろされて穴を掘れ、目隠し、ズドン
か」、どうなるのだろう。いろんなことを考えました。

ソ連の警乗兵は貨車の天井を歩き、鳥を撃つのか威嚇をするのか、時々抱えたマ
ンドリン型機関銃を乱射します。
半袖の夏姿では寒くなってきました。うるさく飛び回っていたハエは真っ黒なか
たまりになって壁に張り付いたままになりました。
小窓の鉄格子の間から見える樹々は紅葉しています。日本兵を乗せた貨車は、確
実に北へ向かっています。もう誰も喋りません。押し黙ったまま膝を抱えていま
す。

9月14日、黒竜江(アムール)河畔の黒河の街に着きました。
土手には先着の日本兵が腰を下ろし、休息しています。
ここでアムールを渉りシベリアへ入る船待ちのようです。
兵隊たちの後ろには縄が張られソ連兵が警戒しています。中国人がたくさん立ち
並んで何か叫んでいます。時折ソ連兵の目をかすめ中に飛び込んで日本兵の荷物
をかっぱらいます。

私たちの集団も待機場所を指定され腰を下ろしました。
目の前をアムールが悠々と流れています。川幅は1000メートルを超えるでし
ょうか。川の向こうに青々としたソ連領の森が横たわっています。時々キラリキ
ラリとひかるものがあります。監視哨でしょうか、銃口の光でしょうか。

夕暮れです。このままここで夜を明かすのでしょう。ソ連兵が上流で手榴弾を河
に投げ魚を捕っている音が「ドーン、ドーン」と響きます。河原でたき火の粉が
勢いよく舞っています。ソ連兵が歌い踊り出しました。今思えば「バルカンの星
の下に」や「カリンか」だったようです。

黒々としたソ連領の森を眺めながら、走馬燈のようにいろいろ思い浮かべました。
「ふるさと東京のこと」、「隅田川をポンポン蒸気船で上り浅草雷門の茶店で焼
きそばを食べたこと」、「兄弟たちのこと」、少年兵志願を訴えたとき「それで
は征け、生命だけは大切にな」そういってがっくり肩を落とした悲しそうな父の
顔 。

 「どうしてこんなことになったのだろう」、「この戦争っていったい何だった
のだろうか」、「これからどうなるのだろうか」、「生きて帰れるのだろうか」、
「どんなことがあっても生きて帰ろう」、「生きてかえって親孝行するのだ」そ
んな想いにふけりました。
月が煌々と川面を照らしていました。
その翌々日、私は、船でアムールを渉り、ソ連に入りました。

1945年9月16日、私の十七歳の誕生日でした。
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by hisako-baaba | 2008-11-13 10:11 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(11)

少年兵兄弟の無念 (17)   猪熊得郎

アムールを渉りソ連の土を踏みました。
1945年9月16日、私の十七歳の誕生日、生涯忘れることのできない日となりました。
「これからどんな日々が待ち構えているのだろう」
そんな不安をかき消すよう、一歩一歩踏みしめてブラゴベシチエンスクの街を歩
きました。道の両側にはソ連の女子供が集まって手を出し、口々に「鉛筆」 を
くれ、「万年筆」をくれ、「靴下」をくれと呼びかけてきます。
子供たちは、みんなだぶだぶの大人の着古しの服を着ています。女たちは若い娘
も、年老いた老婆も、誰も彼も風呂敷のようなネッカチーフを頭にかぶり、しわ
だらけのブラウス、裾のすり切れたスカートにブーツ姿です。着飾った者は一人
もいません。警戒のソ連兵と子供のほか男の姿など全然見かけません。たまに見
かける壮年男子は、片腕、片脚の戦傷兵だけでした。

日本兵の捕虜たちは、腕時計はそれまでにほとんどソ連兵に略奪されて持ってい
ませんでしたが、 山ほど衣服を詰め込んだ背嚢を担ぎ、おろしてあまり経って
いない服と靴で、人垣の間を通り抜けます。

第一の印象はソ連の貧しさでした。何でこんなにみすぼらしく貧乏なのだろう、
それが驚きでした。ドイツとの戦いにすべてをつぎ込み彼らが勝利したことなど、
日本兵の知識にはありませんでした。子供たちは裸足でした。

ブラゴベシチエンスクを出発した貨車はやがてシベリア鉄道を北上しました。
二日ほどして草原のまっただ中で停車し翌朝、荷物をそのままにして下ろされま
した。馬鈴薯堀だというのです。

少し歩いたところに農場がありました。見渡す限り馬鈴薯畑です。ロシャ娘と二
人で組にされました。畝を二つが責任分担です。まず片側の畝を私がスコップで
ひっくり返し馬鈴薯を掘り出します。ロシャ娘が芋を拾い集め所々にもうけた集
積場所に運びます。その畝を向こう端まで終えたら昼ご飯、折り返して帰ってき
たら作業終わりだというのです。

その広大さに恐れ入りました。黒土でよく肥えています。大きな芋が転がり出て
きます。黙々と土を掘り返し芋を掘り出していると、手押し車で芋を運ぶ合間に、
時々ロシア娘がやってきて汗を拭ってくれました。

身振り手振り、日本語とロシア語で話し合うようになりました。芋植えは雪が
融けた五月頃、芋掘りはぎりぎり大きくして寒くなる直前のこの時期です。芋掘
りの時期には、街の事務所は一斉に休んで農場の応援です。この娘さんも街から
やってきたとのことでした。

「これからどうなるのだろう」と不安で緊張していた気持ちも、この娘さんのお
かげで、ほぐれ和みました。「サーシャ」とか云ったあの娘さんは、今どうして
いるでしょうか。生きているなら会ってみたいものです。

片畦、掘り返しました。広場があって大きな釜があります。昼は「カーシャ」で
す。馬鈴薯を蒸かしてつぶし、牛乳をたっぷり、鮭を丸ごと放り込み、かきまぜ
て油で炒めたものです。あの味は今でも忘れません。

その後もそうでしたが、農場での昼休みはたっぷりあります。約二時間。
農場のじいさんたち、ばあさんたち、おばさんたち、そして娘さんたちがコーラ
スを始めました。見渡す限りの青々とした草原の中、四部合唱が響き渡りました。

日本政府と大本営、そして関東軍に見捨てられ、ソ連の冷徹な仕打ちに生命を切
り刻まれた捕虜生活の数年間のなかで、ロシア娘たちとの暖かく優しいひととき
は「珠玉」のような思い出です。

時々、サーシャが牛乳を持ってきてくれました。休憩です。身振り手振りの話を
続けます。日本の風景のこと。暮らしのこと。残りの畦も掘り返し出発地点に戻
り作業完了でした。

翌日も芋掘りの作業、「お父さんいるか」、「お母さんいるか」、「会いたいだ
ろう」、別れに「ベスビダニヤ」さようならと手を握ってくれました。サーシャ
は目に涙を浮かべていました。

再び走り出した貨車は、シベリア鉄道沿線シワキ駅に着きました。アムール州シ
ワキ、シベリア鉄道ハバロフスクとイルクーツクの中間点あたり、中国東北部
(旧満州)がシベリアに突き出した頂点から少し右の肩当たり、国境のアムール
から約四〇キロ、緯度でいうとサハリンの北端にあたります。

シベリア鉄道沿線の駅といってもプラットホームがあるわけではありません。貨
物の引き込み線が何本もあって、給水塔がそびえています。後で知ったのですが、
給水塔はシベリア鉄道で大切な役割があります。何十キロも駅と駅とが離れてい
ます。石炭輸送など、機関車の煙突からの火の粉が石炭に降りかかります。石炭
が燃えたまま何十キロも列車は走るのです。駅について、給水塔の下に貨車を入
れ消火となるのです。

9月28日でした。雪が降っていました。貨車を降り雪の道を10分ほど歩きま
した。駅の正面に製材工場があり、道はおがくずが舗装道路のように敷き詰めら
れていました。

収容所は鉄線で囲まれ3メートルほど内側に板囲いがしてあります。鉄条網の四
隅は望楼です。ソ連兵がマンドリン型機関銃を抱えて監視していました。正面の
門をくぐると収容所の建物が並んでいました。ドイツ兵とルーマニア兵の捕虜が
収容されていた跡だとのことでした。

部屋の中は、一段二ベットの二段ベットが並んで、真ん中に大きなペチカがあ
りました。ここで寝起きしていよいよ重労働の始まりでしょう。
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by hisako-baaba | 2008-11-13 10:02 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念 (18)   猪熊得郎

「情報無線隊」行き同期生の消息

20682-(11)で私は次のように書いています。
「長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、
また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はま
た強運を引き当てたのです。

『情報無線』に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境
線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていま
せん。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部は
とっくに逃げ去っていました。」

「戦史叢書 満州方面陸軍航空作戦 防衛庁防衛研修所戦史室」で、情報無線隊
行き特幹同期生の消息を知ることができました。

「航空情報部隊の玉砕」という章の概略は次のようなものです。

第十一航空情報連隊の戦闘 (本部-温春)
ソ連の侵攻によって、まず危険にさらされたのが、国境近く配置されていた航空
情報関係諸隊でした。

ソ連の侵攻が近いと判断した徳田義雄(少佐)連隊長は八月三日第一線監視哨に
対して次のような指示を出していました。

「あらかじめ緊急事態に直面したならば、暗号書、乱数表を焼却する。その後の
通信は生文(なまぶん)でもよい。しかしできるだけ定められた略号を使用する
(例 玉砕はキヨキヨ)。ソ連が出撃し爾後の行動に関して命令を受ける暇(い
とま)のない場合は、対空監視を継続するため、なるべく玉砕を避け、ポストは
小隊本部に、小隊本部はポストを収容しつつ中隊本部に、次いで連隊本部に向か
い行動する」。

八日夜半、連隊本部にソ連侵入の第一報がありました。九日零時すぎ、各方面か
ら出撃した数十機のソ軍機は、東安、牡丹江その他を爆撃しました
連隊長が第二航空軍司令部に報告して、爾後の行動の指示を請うたところ「とり
あえず現配置で任務を続行し、後命を待て」としめされたのでした。

五~七名で構成されていた各監視哨は状況の報告を続けていましたが、九日夕刻
から玉砕の電報が相次ぎました。連隊長は独断で十日、監視哨の撤収を命じまし
た。
十一日、ようやく第十一航空情報連隊には、敦化付近に集結し次期作戦の準備を
するように命じられたのでした。連隊主力は温春から敦化に、一部は杏樹付近か
らハルピンを経由して新京に集結中終戦を迎えたのでした。

第十七航空情報隊の戦闘 (本部 チチハル)
北部および西部の広大な地域に展開していた同隊は、ソ連の満州侵入企図を事前
に察知できませんでした。
ソ連侵入時期に関する判断や地上攻撃に際し、部隊のとるべき行動の準拠につい
て、第二航空軍からは何らの指示や命令はありませんでした。

八月九日早朝、孫呉方面および海拉爾方面第一線ポストから、ソ連侵入の緊急電
報が入いりました。続いて五叉溝方面の各ポストからもありました。しかし、こ
れらのポストとの通信連絡は、大部分が緊急電報発信後に間もなく途絶えました。

孫呉小隊は第一線ポストの兵員を収容しつつ、北安-克山の線に後退しつつ終戦
を迎えました。
嫩江小隊は、終戦まで現地にとどまって任務を遂行した後、チチハルに集結しま
した。

海拉爾小隊は、九日各ポストの連絡が絶え、小隊長金子少尉がポストの兵員収容
のため、第一線に赴いたが、そのまま消息を絶ちました。

玉砕したと思われていた黒豹山ポストから翌十日不意に電報が入りました。敵侵
入後、その後方にとり残されたこの分隊は、潜伏を続けて敵情をその都度報告し
ていましたが、二日ののち再び通信が途絶しました。

五叉溝 小隊は、小隊長鮫島少尉が部下部隊を現地歩兵に随伴して撤退させた後、
自らは現地にとどまり敵航空情報を報告しました。その後、「部隊の武運長久を
祈る」との電報を最後に消息を絶ちました。
以上のように第十七航空情報隊の損害は相当に重大でした。

終戦直後、部隊長は、将兵の独断行動および自殺を固く禁じましたが、このよう
な特殊な作戦条件下にあったため、自決する者が相次いで発生しました。それは、
少年特別志願兵出身者に特に多かったようであります。

………… 以上が 「航空情報部隊の玉砕」 の大要です。

ここにある「少年特別志願兵出身者」とは、長春で私と別れた「特別幹部候補生」
であり、「情報無線」に配置された当時、十六歳から二十歳の同期生の多くがそ
の若い命を満州の地で散らしたのでした。

しかも、彼らが絶望的な状況下で戦っているとき、日本政府と、大本営は、ポツ
ダム宣言受諾を巡って「国体護持」を唯一絶対の条件とすることで、国民も戦場
に置き去りにされた兵士たちも全く念頭になく、議論を沸騰させていたのです。

同じ時、関東軍総司令部も、唯々身の保全に、「朝鮮保衛・皇土防衛」の名目で
新京から満鮮国境通化へ逃げ去ることに汲々としていたのでした。

「国難ここにみる」と自ら志願して戦場に赴き、ソ連の侵攻に戦場に置き去られ、
銃弾に倒れ、戦車に踏みにじられ、また、生きながらえつつも「生きて虜囚の辱
めを受けず、死して罪科の汚名を残すこと勿れ」、「従容として悠久の大義に生
きることを悦びとすべし」と、「戦陣訓」の教えに忠実に命を絶った少年兵の無
念はいかばかりだったでしょうか。

彼らを教育し、彼らを煽り立て、彼らを戦場に送り出し、彼らをこのような状況
に追い込み、自らは「国体護持」のみにすがりつき、反省もなく、生きながらえ
た権力者たちに激しい怒りを禁じ得ません。

シベリア抑留への想い

今年の春、「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」の、舞鶴引き揚げ記念
の丘に桜を植樹する集いがありました。
時間の余裕があり、引き揚げ記念館を観ていたところ、ボランテイアのひとが一
生懸命説明をしていました。私も説明を手伝っていましたら声をかけられました。

ある大新聞の婦人記者でした。
「私の祖父はシベリア帰りでした。けれどもシベリアのことは一言も話さないま
ま亡くなりました。何処の地で、どんな生活をしたのか、何にも分かりません。
どうしてでしょうか。祖父の気持ちを知りたいのです。」とのことでした。

私は答えました。
「悔しくて、悲しくて、なさけなくて、やりきれなくて話さなかったのです。」
「日本政府と大本営と日本国政府に放り出され、労働力を差し出され、スターリ
ンのソ連に拉致され、寒さと空腹と重労働に耐え、這いつくばって生きてきまし
た。、」
「何よりも辛く悲しかったのは、人間としての尊厳を踏みにじられ、人間の尊
厳をかなぐり捨て、ガキや畜生のように落ちぶれなければ生きてゆけなかったの
です。」
「そんな惨めな自分のことを話すことができますか」
私は、自分の幾つかの体験を交えて話しました。
「戦友の死体の衣服を剥ぎ取ってパンと換えた、隣の戦友が下痢をしたら、いた
わるのではなく、彼の飯が食えると嬉しくなった、そんな話を家族に話せますか。

「寒かった、辛かった、腹が減った、誰も話します。でも、畜生のように落ちぶ
れたことは話しません。私だってそんな話をするようになったのはつい最近です。
そこまで話さなければ『シベリア抑留』の本当の姿、日本政府とスターリンソ連
の人道を外れた極悪非道の本質を、本当に分かってもらえないと気がついてから
なのです。」

「何も話さないで亡くなったお祖父さんの口惜しさ、悲しさ、惨めさ、やりきれ
なさ、無念さを家族の方みんな集まって偲んで下さい。戦争の惨めさ、平和の尊
さを話し合って下さい。それがお祖父さんへの最大の供養だと思います。」
私の言葉に、その婦人記者は涙を流して頷いてくれました。

私もシベリア抑留の話をしたり書いたりするときは、始めるまで、どうしても
時間がかかるのです。「話したくない、でも話さなければならない」、その葛藤、
自分との闘いを超えて、これから続けることにします。
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by hisako-baaba | 2008-11-13 09:58 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念(19)   猪熊得郎

航空情報連隊の消息続き
 国境配備の前提は「玉砕」でした。
 前回の、第十一航空情報連隊の戦闘と、第十七航空情報隊の戦闘の中で、十六
歳から二十歳の特幹第一期同期生の多くが戦死したことを書きましたが、その配
備そのものが、「玉砕」を前提としたものでした。「玉砕」するために配置され
ていたのでした。

 1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のよ
うな趣旨のものでした。

 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、
このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕
させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なく
なっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利
にする。」

航空作戦の方針変更
 関東軍作戦計画の方針変更に伴い、第二航空軍も次のように作戦方針を変更し
ました。

1.航空軍は、外蒙方面から南下及び東進するソ連軍主力を破砕し、関東軍の作
戦を有利ならしめるとともに、北支方面との連絡を確保する。これがため当初、
チチハル、白城子、赤峰各飛行場群を使用し主として、敵機械化部隊の後方補給
を遮断して、その前進を遅滞させ、次いで戦闘部隊の撃滅をはかる。

2.作戦の推移に伴い、逐次漣京線西方飛行場群(彰武、阜新、新立屯、錦州)
漣京線以東飛行場群(奉集堡、東豊、梅河口、鳳城)に後退し、前任務を遂行す
る。戦闘に当たっては、保有機数の特性と訓練の度に応じ、特攻的用法に徹する。

3.一部をもって石門子秘密飛行場を使用し、ウランウデ付近のシベリア鉄道橋
を破壊し、敵の輸送を妨害する。

4.航空地区部隊は、後退せしめることなく現地にとどめ、敵の飛行場推進を妨
害し、遊撃戦により敵の航空戦力を破砕する。

第二航空軍の配備と訓練内容の変更
 訓練内容は、新作戦計画に従って、主としてソ連機甲部隊に対する訓練に変更
されました。
 航空地区部隊に対しては、敵機と刺しちがえる気魄をもってする対空射撃能力
の向上、機甲、車両に爆薬をもってする肉薄攻撃の研究、普及ならびに遊撃戦法
に関する創意工夫およびその訓練が要求されました。

 二航軍情報部に対しては、従来の航空情報等に加えて敵地上兵団の状況、特に
機械化兵団の動静に関する探知能力の開発、訓練が要求されました。
 このように昭和二〇年に至り、各部隊の訓練内容は、一変したのでした。

そして、航軍情報部・航空情報連隊は、「その地域内で玉砕させる」前提で任務
に就いていたのでした。

 なお、北、及び西の防空監視網は、第十七航空情報隊が担当し、情報二個中隊、
警戒一個中隊、およそ、一,〇〇〇名の人員でした。
 また、東部正面の航空警戒に任じていた第十一航空情報部隊は、第二中隊を北
鮮東部海岸に派遣していました。

 航空地区部隊も、敵機と刺しちがえる対空射撃と、機甲、車両に爆薬をもって
する肉薄攻撃、遊撃戦が、究極の任務とされていたのでした。



 シワキ収容所
 シワキ収容所には大隊本部と三個中隊約千名の日本軍兵士が収容されました。
そのうちの一個中隊、私たちの中隊は第十一航空補給廠公主嶺出張所の中からの
混成部隊でした。中隊長T中尉は温厚で物静かな技術中尉でした。それに学徒兵
上がりの少尉二人が将校です。下士官もほとんど技術屋のようで、いわゆる獰猛
な古参下士官はいませんでした。それに下士官待遇の技術系軍属がいました。

 兵隊たちも、ほとんどが特幹二期生の整備兵と軍属の少年工たちです。どちら
も二十歳前の少年です。特幹二期生は、私たち特幹一期生と同じ、44年(昭和
19)1月に試験を受け、4月に入隊した一期生より半年遅れて10月に入隊を
した上等兵でした。軍属の少年工には朝鮮出身者も何人かいました。一般の兵隊
はわずかです。

 こういった構成でしたので私たちの中隊では、階級章による下級兵いじめはほ
とんどなく、他の中隊に比べて兵隊たちは幸せでした。ですから他の中隊の下士
官たちに目の敵にされ、貴様たち弛んでいると、気合いを入れられているようで
した。

 シワキの街
 シワキは製材の街でした。
 シベリア鉄道、シワキ駅の真ん前に製材工場があります。
3階建てほどの高さの工場開口部から、貨物線引き込み場に向かってトロッコレ
ールがひかれ、トロッコに載せて、製材された材木が貨物ホームに送り込まれま
す。

一方、製材所からは15キロほど先の森林伐採場に向かって、伐採した材木の
運送用森林鉄道が引かれています。
製材工場の前にはパンの配給所がありました。当時は主食の黒パンは無料で支給
されていました。

駅の脇には広場があり、共産党とか、コムソモールとか、人民委員会ですか、
そんな集会所の建物がありました。

ロシア人と歌
ソ連の指導者の一人、カリーニンが亡くなった時、黒いリボンをつけた赤旗の弔
旗を掲げ、街中の人々が広場に集まって「インターナショナル」を歌っているの
を見たことがあります。
「インターナショナル」は4部合唱でした。

ロシャ人と歌を切り離すことができません。子供の時から自分のパートが決ま
っているようでした。老いも若きも、男も女も、集まるとすぐに合唱が始まり、
いつも4部合唱でした。
長く厳しい寒さを耐え、ツアーの圧政を忍ぶのに歌で、慰め、励まし、それが
合唱となり、より豊かに表現するために4部合唱となり、ロシア民謡が生まれた
のでしょうか。

生活から生まれ歌い継がれたというのでしょうか。歌の心を大事にします。嬉
しいときには嬉しい歌。悲しいときには悲しい歌。悦びには悦びの歌。沿海州の
収容所のころです。「海ゆかば」のレコードをロシア人が聞いていました。なか
なか良いメロデーだなというのです。「それは戦友が死んだとき歌う歌だよ、ポ
ミライ(死人)の歌だよ」と話しました。そのロシア人はそれ以来、そのレコー
ドをかけなくなりました。

住まい
街の道路は全部製材工場から出た「おが屑」が敷き詰められていました。おが
屑の舗装のおかげでどんな寒いときでも、道路が凍って足を取られるというとき
はありませんでした。

家々はみな、丸太を積み重ねて作られています。丸太と丸太の間は、平らに削り、
綿のようなものを詰めて隙間のないようにしてあります。建物の裾、地面に接す
る部分は70~80センチの高さ、20センチほどの幅に板を囲い、そこにはお
が屑がぎっしり詰めてあります。床下から風が吹き込むということはありません。

入り口は板囲いで、玄関に直接風が吹き込むことはありません。取っ手には必ず
布が巻き付けてあります。冬、素手で、金具を握ったりすると、手が、金具に凍
り付き、無理にはがせば手の皮がむけてしまいます。

窓は、幅1メートル、縦1メートル半位で2重窓ですが、必ず花が飾ってありま
す。部屋は板敷きで2間か3間、ペチカを囲んでいます。ペチカは煉瓦作りで、
焚き口の居間側には鉄板を敷いて煮炊きができます。ペチカのなかは、煉瓦の囲
いで、暖めた空気が、中を上下してすぐには煙突から逃げないように工夫して、
壁全体が暖まります。


点呼
さて、収容所の生活は朝6時の点呼から始まります。
最初のころは、収容所には日本帝国軍隊の階級章が生きていました。
東を向いて、皇居遙拝。皇居遙拝とは、天皇陛下万歳と宮城を拝むことです。
「将校を父と思え、下士官を兄と思え。一致団結して天皇のため苦難に耐えよう。
力を合わせ祖国再建のため生き抜こう」、寒風吹きすさぶ中、そんな訓辞が行わ
れたのでした。

昼食1時間を除いて8時から5時まで労働という建前でした。
朝8時、それぞれの作業場に向かうため、それぞれの作業隊ごとに門の前に整列
です。これが大変です。
コンボーイ(警戒兵)が付きますが、数がなかなか合わないのです。かけ算が殆
どできないのです。寒い時など、たまったものではありません。零下20度を超
える朝でも、数が合うまで、20分も、30分も数え直すのです。3列、4列、
6列、7列ではかけ算をしなければなりません。それではダメなのです。それで
私たちは、5列に並ぶことにしました。2列で10人ですからこれなら何とか分
かるようになりました。

 先日、平和祈念事業団のシベリア抑留生活の展示を見てきました。やはり作業
に出かける兵士たちは、収容所の入り口前に5列で並んでいました。
 
 そんな兵隊たちのソ連がドイツに勝ったのですから不思議でなりませんでした。
それでも日本へ帰るころには、スターリンの冷酷な圧政の下でも、侵略をされた
祖国を守る、生まれ育った故郷を守るという民衆の底力と言うものを、ロシアの
民衆と接する中で分かるようになったのでした。

 収容所の作業は三つの中隊が、主な作業としてそれぞれ、森林での伐採作業、
製材所での作業、製材された材木の貨車積載を分担しました。
 そのほか、国営農場、共同農場などでの農作業、道路工事、鉄道工事なども組
み込まれていました。
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by hisako-baaba | 2008-11-13 09:55 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念(20)   猪熊得郎

 製材の貨車積載
 私たちの中隊の主な作業は、製材された材木の貨車積載です。
6~8人で一つの作業班です。製材所からの斜面をトロッコに載って材木が下り
てきます。厚板、薄板、雑材、鉄道枕木等様々な工場で製材された材木です。次
々と下ってきたトロッコが、斜面から平地に移りスピードが落ちたところで、班
ごとにトロッコに飛びつきます。

 貨物列車の引き込み線には、線路がいくつにも別れ、木製の長いプラットホー
ムが何本もあります。トロッコを押してプラットホーム脇の材木置き場に、製材
の種類ごとに、いつ貨車が入ってきても積み込めるように並べて積み上げます。

 長板は担いだときも、横に二人で投げるときも、板のしなりを上手く利用しな
いと、ひっくり返ったり、板の跳ね返りで大怪我をします。重いものを担いだり、
板扱いしたことのないすべての捕虜たちが、トロッコを押し、板を担ぎ、「木場」
の職人のように板を扱って、作業をするのです。

 鉄道の枕木や、十分乾燥のしていない松の板を担ぐときなど、腰をしっかり入
れないと、担ぎ上げることも、歩くこともできません。材木の下敷きになって大
怪我をしたり、死んだ兵隊もいました。

 貨車が入って積み込みの時などはさらに大変です。貨物列車が引き込み線に入
っててくると、一斉に積み込みです。無蓋貨車に敷き板を敷き、四隅に丸太を立
てて貨車の幅一杯に並べて積み上げていくのです。

 地面の上の材木置き場から、人の肩ほどある貨車の床に持ち上げたり、板材の
上を滑らせて貨車の中に運び込むのですが、積み込みが進むほど段差が高くなり
ます。積み込み作業は午前中に始まるのが通例ですが、終わるまでは、何時にな
っても昼食は食べられません。
作業は雨が降っても、雪が降っても休みはありません。

 前回8時整列と書きましたが、訂正します。7時半作業整列・点呼。出発。
8時作業開始、12時昼食・休憩。13時作業再開、17時作業終了、帰舎。
労働は週6日制で、休日は日曜の他、メーデーや革命記念日などソ連で定められ
た祭日が休みでした。

 シワキ収容所では6人に1人が死ぬ
 シベリアでは10人に1人が死んだのですが、シワキ収容所では6人に1人が
死にました。死ぬと遺体は医務室の前に置かれているのですが、朝までの間にみ
んな裸になっています。着ている物を掻っ払うのです。パンツさえ盗りました。
もちろん盗るのは我々日本兵で、盗った衣服をソ連の民間人の所に持ち込み、パ
ンと取換えるのです。

 製材工場がありますから木材は山ほどあります。。あらかじめ棺桶を作ってお
きました。しかし、遺体が棺桶より大きい場合は入りません。タポール(斧)の
みねで脚を叩くのです。凍っていますから脚はポキッと折れます。それで遺体を
棺桶に収めることができるのです。

 遺体は土葬するのですが凍土です。土が1メートル以上も凍っています。なか
なか掘れません。火を焚き、凍土を少しずつ融かし、鉄の棒で突き掻き、1日か
かって40センチか50センチ、棺のかくれる程度でやっとです。浅いまま土を
かぶせるのですから、春になると山犬か何かに掘り返されているのです。シベリ
アの山野に埋められた日本兵の遺体は、その後どうなっているのでしょうか。

 空腹
 捕虜たちの死因は栄養失調、発疹チフス、凍傷、作業中の事故死などです。極
東・シベリア地方での捕虜の食糧は一応パン350グラム、粉、穀物(小麦、燕
麦、大豆、大麦、こうりゃん、粟、稗、きびなど)400グラム、魚150グラ
ム、生野菜または塩漬け野菜800グラム、砂糖18グラム、塩20グラムとい
う基準、建前があったと言うことですが、実際はそんなにありません。とにかく
食べ物が少ない。重労働に空腹です。

 最初の冬は大変でした。8分の1斤ほどの大きさの黒パンは1日分。それに赤
いこうりゃんや大豆のカーシャ(おじやのような物)、あるいはトマトが一切れ
の薄い塩スープが飯盒の蓋に八分目ほど。馬鈴薯でも付いていれば最高です。そ
の頃ソ連も飢饉で食糧不足だったようです。野菜など殆どありませんでした。

 黒パンを分配するときは大変です。当番が切るのをみんな殺気立ち、目を皿の
ようにして見つめています。ついには天秤秤を作って足したり減らしたりして分
けていました。

 腹が空いて仕方がありません。松の虫食い穴に針金を突っ込みマツムシを釣り
上げて食べました。ビタミン不足の鳥目などにはよく効きました。それに靴のか
かとを削りました。牛、豚の皮です。チューインガムのように噛んで唾液を出し、
多少でも空腹感を抑えました。黒パンをお湯で溶かし、量を増やして満腹感にひ
たった者もいましたが、彼らはみんな胃を壊してしまいました。下痢をすると、
松ヤニをかじったり、木炭を粉にして「クスリ」にしました。

 寒さ
零下30度を超えると作業休止ですが、零下29度なら作業に出ます。一度作業
を開始したならば途中で休止になることはありません。風が吹けば風速1メート
ルごとに体感温度は1度宛下がります。

零下20度から30度の酷寒での屋外作業です。まつげが凍って真っ白になり
ます。吐く息が凍ってすぐ顔にまとわりつきます。素手で裸の金物などを掴んだ
りすると、すぐ凍り付いて皮がむけてしまいます。

 時々、お互いに顔を見て、白くなっていないか確かめます。白くなったら凍傷
の前兆です。すぐマッサージです。手や足は、さすったり足踏みをして血行をよ
くしてから暖をとらないと凍傷にかかります。

 私も凍傷になりました。あまりの寒さに、部屋に入るとペチカの上に登って靴
を履いたまま身体を暖めました。てきめんです。左足の親指が腐り始めました。
幸い早く気が付きました。放っていれば肉が腐り、どんどん内部に進み骨まで達
します。

 戦友に体を押さえてもらい、針金で作ったピンセットで患部をつまみ、ハサミ
で腐った部分の内側、まだ大丈夫なところに沿って腐った肉を切り取りました。
本人は痛みと気張りで頑張ったのですが、見ていた戦友が気絶しました。一ヶ月
ほど作業を休みました。その後しばらくは、靴が履けませんので、左足には大手
袋を巻き付けて作業に出ました。私の左足親指は先が短くなっています。シベリ
ア土産です。

 シラミ
 風呂はありません。汚れた衣服に垢だらけの体です。シラミが発生します。上
衣の襟など裏返すと霜降りの服のようです。シラミがたかっています。

 一度入浴列車が来ましたが、それ以外入浴はしたことがありません。入浴列車
というのは、最初の車両で衣類を脱いで裸になります。次の車両で衣類を差し出
します。衣服の蒸気消毒です。次が蒸し風呂の車両です。床に煉瓦で仕切って焼
けた石が並べてあります。水をかけます。猛烈に蒸気が立ちこめます。

 段になった高いところに座り、汗が吹き出します。汗をたらたら流しながら、
榊の葉っぱで体を叩き、指でこすって垢を落とすのです。列車を降りるときは、
蒸気消毒をした別の衣服を着て出てくるという仕組みになっています。シラミの
大量発生が発疹チフスや伝染病の原因でした。

 いつ帰れるのか。 
防寒具は一応もらえますが、極寒の屋外作業には慣れていません。食糧も少ない。
いつも空腹。そして、いつ日本に帰れるかもわからない。先の見えない希望のな
い毎日です。誰でも参ってしまいます。最後の踏ん張りがきかないのです。

 とりわけ下級兵士たちがばたばたと倒れていきました。死ぬ間際にはたいてい
脳症になり、譫言(うわごと)を言います。夜中にパット起き上がって「汽車が
出ますね。帰るんですね、日本に帰れるんだ。味噌汁が飲める。お母さん」、そ
ういって死んだ戦友のことが、いまでも忘れられません。

 私は、少年兵を志願しをしたとき、許しをくれた父のがっくりとした姿を思い
浮かべ、なんとしても生きて還り、親孝行をしようと苦難に耐えたのでした。

人間として最低の所に落ちて
私たちは、ただ自分だけが生きればいいとしか思っていませんでした。隣の戦友
が下痢をします。いたわるのではありません。嬉しくなるのです。「ああ、これ
で隣の奴の飯が食える」、そう思うのです。

 こんなこともありました。ある兵士が病気にかかり、医務室に連れて行かれ、
病床に伏したまま危篤になりました。それを聞いてその班では、まだ死んでいな
いのに骨箱を作りました。小指を入れて持ち帰ろうというのです。所持品はみん
なで形見分けをしました。

 ところが、本人が危篤を脱して生きて帰ってきました。自分の骨箱があって、
持ち物は何もありません。けれども、彼の所持品を、誰も返しませんでした。本
人も生きて帰れただけでも良かったと考えて、黙って我慢するより仕方ありませ
んでした。

 こんな話はあまりしたくはありません。しかし本当の話なのです。まだまだ似
たような話も沢山あります。人間として一番最低の所に落ちたのです。過酷な状
況がそうさせたのですが、日本人同士が助け合えなかったのです。お互いが、お
互いを、生き延びるために踏みつけるようにすることが多かったのです。

 シベリアで抑留された人たちは、「寒かった」「ひもじかった」「重労働が辛
かった」までは話しますが、それ以上の体験は話さないのです。特に家族や遺族
には話せません。

 「隣の奴が下痢したら、ああ良かったと思ってその人の分まで食べました。死
体の衣服を剥がし盗ってパンと換えました。危篤の奴の形見分けをして、生き残
っても、知らん顔をして返しませんでした。お宅のお父さんも同じでした 」な
ど言えません。鉄砲の弾丸に当たって死んだのならともかく……。

 だからなかなか本当のことを話さないし、口が重く、何も話さない人もいるの
です。戦争中には弾丸に当たらず生き延びてきたのに、戦争が終わって捕虜にさ
れて……。いや捕虜ではありません。拉致です。

 スターリンのソ連は「ポツダム宣言」を踏みにじって日本軍捕虜をシベリアに
連れて行き、重労働を強制しました。六〇数万の日本軍将兵がソ連に抑留されて
六万数千人が死亡したとされていますが、未だに正確な数字はわかりません。ま
さに戦後最大の拉致問題なのです。

 そういうなかで、戦争が終わったというのに、惨めに、家族にも知られずに死
んでいった。しかも、もう助け合いなどなくて、お互いに自分だけが生きること
に必死の中で死んでいったのです。遺骨の多くも、まだシベリアの地にさらされ
たままなのです。 

 しかしそういう中でも、鈍重に人間性を貫いた人がいたり、一方で、兵隊前の
社会では立派な肩書きを持っていた人がくるっと変わってしまったり、そういう
両極を私は見てきました。20歳前の少年兵でしたから、強烈な印象となって記
憶に残っています。日本に帰ったときには一種の人間不信に陥りました。「この
野郎、上手いこと言ったって、いざというときになったら、おかしくなるんじゃ
ないのか」そういうことが度々でした。

 ですから、もともと所属していた部隊が、戦後になって戦友会を作ると言うこ
とができても、シベリアで同じ収容所にいた人たちが、戦後になって集まるとい
うのはなかなか難しかったのです。ただ、シベリアに抑留されている間は、幾つ
かの収容所で合流したり、別れたりしていますから、帰国直前の最後の収容所で
一緒になって、途中では醜い面をお互いに知らない場合には、グループを作るこ
とも可能だったと思います。
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by hisako-baaba | 2008-11-13 09:52 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(2)

終戦の日に

8月15日・・・63年前と同じような、じりじり暑い日になりました。

私はその日、14歳になったばかりでしたが、猪熊 得郎氏は17歳で、たった3歳しか年上ではないのに、悲惨な戦場を体験し、シベリア抑留まで体験する事になったのでした。

その体験記を、1~5話、6~10話、と5話ずつまとめて、転載させていただいております。
今日は ↓ 11話から15話まで掲載しました。

カテゴリー『少年兵兄弟の無念』でまとめて有りますので、5話ごとに順を追ってお読み頂けたら嬉しいです。

それから私の八月十五日と言うこんなサイトに、多くの人が体験を載せておられます。
今日は、過去の戦争から学び、平和を護る方法を考える日にしたいものです。
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by hisako-baaba | 2008-08-15 08:00 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(6)

少年兵兄弟の無念(11) 猪熊得郎

 【関東軍と王道楽土】
 特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に一年六ヶ月から九ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になったようです。シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和二〇年二月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。二月末から、私は、水戸・長岡教育隊で待機することになりました。沖縄と台湾への転属組が、それぞれ、隊伍を組んで出発しました。前線に喜び勇んで別れの手を振る戦友たちを、じりじりとする焦りと、うらやましい思いの入り交じった気持ちで、「がんばれよ!」と送り出しました。台湾か沖縄か。アメリカの反攻は沖縄に向かいました。台湾組みの殆どは、戦後無事に帰国しました。あの時手を振って別れた沖縄組みの半数は、生きて還りませんでした。二十歳前の青春を沖縄戦で散らしたのでした。三月一〇日、真っ暗闇の夜、壕の中で、西の空が赤々と照らされるのを眺めました。東京大空襲で、日本橋浜町の家が焼けたなど知るよしもありませんでした。戦後、姉からその夜のことを聞きました。父は警防団の班長をやっていました。近所の人はみんな逃げ出したのに、父は、隣の家の消火に夢中でした。そのうち
我が家が燃えだし、慌てて隅田川沿いに浜町公園に逃げ込みました。しかし、公園には高射砲隊が陣取っていました。明治座に入ろうとしましたが満員で人が一杯、入れません。仕方なく、新大橋のたもとで夜を明かしました。ところが明治座は猛火で炎上しました。中に入った沢山の人は焼け死に、父と姉は命拾いをしたそうです。
 本土防衛のために編成された第六航空軍に残りの大部分が転属となり、抜刀した中隊長を先頭に、意気揚々と隊伍を組んで出発をしました。京城に司令部があり中国方面を守備範囲とする第五航空軍組は、それぞれの任地に別れて出発しました。 四月、やっと関東軍に転属になりました。兵長でした。中国東北部、当時は日本の傀儡国家満州国の首都「新京」、現在の長春に第二航空軍の司令部がありました。途中東京を通るときは、あの東京大空襲の後ですから、車窓からの眺めは辺り一面の焼け野原、品川の海まで見えたのでびっくりしました。家は焼けたに違いない、父や姉はどうしただろうか。心配でたまりませんでしたが、どうすることも出来ませんでした。特幹入隊の前日、庭に、一生懸命防空壕を堀ったのを思い出しました。父が、「明日入隊だ。そんなことしなくていいよ」と云いながら、そばにきて汗をぬぐってくれました。門司から連絡船が出ないので、博多から釜山には貨物船に乗ったのですが、船はどんどん沈没させられていた頃で、救命胴衣を付けさせられて、「無事着けるかわからないぞ」なんて言われながら釜山上陸しました。釜山から長春までは汽車で行きました。長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。「情報無線」に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。
私の配属されたのは第二二対空無線隊で、中隊本部が長春にあり、市の外れ、満福街にありました。隊からは満州各地の飛行場に対空無線分隊を派遣していました。隊の雰囲気は何か異様です。「特幹」とか、「少年飛行兵」とは違う「若い」のが、二十歳前で、兵長になってやってきた。古兵たちが、「落ち度」がないか、あいつらぶん殴ったってまだ下士官ではない。「上官暴行罪にはならない」と虎視眈々、私たちを狙っているのです。内地や台湾に転属した組みは違っていました。下級技術系幹部の不足、新しい機器で訓練を受けてきた若手と言うことで、早速、兵長のまま下士官待遇され、初年兵の教育を任された者もあったようでした。
隊では、何かあってはと言うことで、当初、特幹7人、最古参の准尉が指導担当で、別個の特別教育の毎日でした。先に述べたように、私は初外出のとき、「『突撃一番(避妊具)』など持って慰安所に行かなければ立派な帝国軍人になれないのですか」とやって叩きのめされ、初外出が禁止になりました。これを知った担当准尉は烈火のごとく怒り、下士官全員を集めて、「俺に何の話もなく、特幹にちょっかいをかけたら、貴様たち、ただでは済まないぞ」と凄ごんだそうです。初めて外出できたのは四月二十九日の天長節(昭和天皇の誕生日)でした。驚きました。「新京」は満州国の首都です。日本で言ったら東京です。街の真ん中に慰安所があって、兵隊がズボンのベルトに手をかけて列をつくって順番を待っているのです。いわゆる身体を使う仕事、汚れる仕事はみんな中国人で、日本人は威張っていました。電車に乗ると運転手や車掌はみんな中国人ですから、兵隊たちは「切符は後ろの奴が持っている」、後ろでは「前の奴が持っている」と嘘を言って無賃乗車をしていました。道ばたで中国人がスイカを売っているときも、兵隊の一人がその中国人と話し込むのです。その間に別の兵隊がかっぱらって行ったり、どの兵隊も白昼公然とやっていて、愕然としました、 
日本の「記念日」です。長春の中心にある大同広場(現『人民広場』)に関東軍司令官の山田乙三と満州国皇帝溥儀の花輪が飾ってありました。山田乙三の方が上座にあるのです。満州国皇帝溥儀の花輪は下座です。中国人部落は危険だからと立ち入り禁止でしたが、演習で、重武装して部隊で入ったとき、子どもたちに石をぶつけられました。子どもたちはみな、私たちを恐れず、憎悪の目で睨み付けていました。恐ろしかったです。「満州国」建国の理念「五族協和・王道楽土」とは一体何だろう。「八紘一宇・
大東和共栄圏の確立」と言うけれどもどうなっているのだろうか。私の胸に疑問がわいてきました。心の中では八紘一宇とか大東亜共栄圏というのは信じていたし、だから、当然、五族協和、王道楽土が実現していると思っていました。八紘とは広い地の果て、
天下という意味です。一宇とは一つの家ということです。神武天皇が即位のときに発した言葉をもとにしています。八紘一宇、大東亜共栄圏の確立というのは、日出ずる国の天子、つまり天皇の意向のもとにアジアをそして世界を統一しようという対外膨張を正当化するために使われたスローガンです。五族協和、王道楽土というのは「満州国」建国の理念です。満州民族、大和民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の五民族が協力し、アジアの理想的な政治体制を「王道」として、満州国皇帝を中心に理想国家を建設するというものです。
天皇はこのことを知っているのだろうか。天皇に申し訳ない。誰がこんなことをやってんだ」と、また疑問に思うのです。兵隊の中には慰安所なんて当然だと並んでいる人もいるし、これはどうかと並ばない人もいる。私の中には、やはり戦争の目的はこういうことではないという気持ちがありました。今考えると全くのインチキですが、それをほんとに信じていたのですから、日本の天皇が盟主の中心なのに、その日本人が泥棒し、ふんぞり返ってはいけない、そう思っていたわけです。俺は皇軍の、天皇の兵士の一人だから慰安所なんてとんでもない。ところが、そういう女も買えないような兵隊に敵兵が殺せるか、そういってぶん殴られるのです。純粋に八紘一宇・大東亜共栄圏の確立を信じ、天皇のため、その「聖戦」に参加し、一兵士として身を捧げることを誇りとしていた少年兵の私は、「何か間違っている、天皇の御心をねじ曲げている奴らがいる」そんな怒りと悲しみが高まっていったのでした。
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by hisako-baaba | 2008-08-15 07:46 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念 (12)    猪熊得郎

【陽動無線・内務班のしごき・ソ連侵攻を前にして】
私は五月に入って敦化(とんか)飛行場に派遣されました。敦化は吉林省の西北部にあり、朝鮮国境にも近く、弾薬の集積地でもありました。近年、日本軍が遺棄した毒ガス兵器で事故が起こっています。立派な飛行場がありましたが、南方に移動して飛行機は一機もありませんでした、関東軍はどんどん南方に移動していました。
1941年6月22日に独ソ戦が始まり、7月2日、天皇の臨席する大本営政府連絡会議が、御前会議として開かれました。この会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定され「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方の問題を解決す」という方針が示されました。
南方進出については、帝国はその自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各搬の施策を促進す。 之が為対米英戦準備を整え先づ「対仏印泰(タイ)施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す。帝国は本号目的達成の為め対米英戦を辞せず。とし、

北方については、
独「ソ」戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す。此の間固より周密用意を以て外交交渉を行う。独「ソ」戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。とさだめていました。北方についての「密かに対ソ武力的準備」の具体策は、陸軍の大動員でした。この時までの関東軍は、平時編成の12個師団、35万人の兵力を擁していました。この関東軍の兵力を戦時編制にし、16個師団で対ソ戦準備を整えようとしたのでした。この動員は、対ソ戦の企図をかくすため、秘密のうちにすすめられ「関特演」(関東軍特別大演習)とよばれ、人員50万人、馬15万頭が動員され、在満州・朝鮮兵力16個師団85万人の態勢が整備されました。その後日本は対ソ武力行使の企図は中止され、対米英戦の方向に進むことになりましたが、関東軍の戦備が最も充実した1942年夏前後の在満州・朝鮮兵力は、一般師団14、戦車師団2、戦車旅団1、騎兵旅団1、国境守備隊13、独立守備隊9、独立砲兵連隊19、独立砲兵大隊14。兵員約65万、戦車675両、装甲車155両、飛行機750機で強力な戦力でした。
(当時の極東ソ連軍は、師団29、戦車旅団20などを基幹とする兵員約145万、戦車2589両であった。)
しかし、1945年ガダルカナル島に始まった南太平洋方面からの連合軍の反攻に対して、その9月以降、関東軍から航空部隊のほか、一部の地上部隊の抽出が始められました。それ以来1945年春まで、関東軍は兵力供給基地と化し、在来精鋭部隊の殆ど全部が抽出転用されたのでした。ですから私が敦化飛行場に着任した頃には満州全土に飛行機は300機も無かったでしょう。少し前、新京東飛行場で、少年飛行兵15期生の操縦士が赤とんぼと言われた複葉練習機やグライダーで訓練をしているのを見ました。「なんで、そんなもんで訓練しているのだ」「そんなもので勝てるのか」と聞くと、「飛行機がないのだ」「敵機が来襲すると情報が入れば、これで上空に待機するのだ。待ち構えて、1対1の体当たりだ」という返事が返ってきました。同じ兵長ですが、私たち特幹より軍歴は長く、そして私とあまり年の違わない彼の眼差しは真剣でした。「お互い、頑張りましょう」そう言って敬礼を交わして別れましたが、ソ連の侵攻がはじまった後、彼は、どうなったでしょうか。「果たして日本は勝てるのだろうか。」「これから日本はどうなるのだろう」それが、国難に志願した少年兵の実感でした。シベリアに抑留されたときに国境にいたという兵士の話を聞いたのですが、重砲を皆南方に持って行ってしまったので、樽にコールタールを塗り、遠目には野砲に見せかけていたということでした。敦化飛行場での対空無線分隊の任務は「陽動無線」です。「陽動無線」というのは、実際には飛行機がいないのに、本部や他の基地と頻繁に無線通信をして、いかにも飛行機がいるかのように見せかける通信任務です。15人の分隊員が交替で、24時間送受信です。受信は数台の無線機で、数種の周波数の電波をとらえます。気象条件の影響で、電波は、高低、強弱、震えるフエ-デイングという現象に、ソ連の妨害電波が入り混じります。電波のリズムに無意識の感を働かせつつ5字遅れ、7字遅れに鉛筆を走らせます。上官や古兵の不合理な命令やいびりもなく、分隊員が一つになって、家族か兄弟のように心を合わせて任務に取り組んだ、充実した瞬間をこの時期味わうことが出来たのでした。7月初め、任務終了を告げられ、撤収して、本隊に帰りました。
新京の本隊は、なにか慌ただしく落ち着きがありませんでした。銃の遊底はみな取り外されました。遊底とは、銃に弾丸を込めるところのカバーです。埃や雨水などが入らないようにカバーしているのです。無くても射撃には差し支えありません。余分な鉄の回収だとのことです。新兵がたくさん増えています。数ヵ月後にソ連と交戦をするかもしれない。そんなとき、対空無線隊に新兵をたくさん入れて一体どうしようというのでしょうか。
航空部隊ということで、銃は3人に1丁、中隊武器庫から員数外で保管していた銃で兵隊の数に合わせました。しかし、軍靴はなく地下足袋、水筒は竹筒といった有様です。関東軍は一体どうなっているのでしょうか。これで本気で戦うのだろうか。そんな疑念が胸いっぱいに広がってきました。
こんな状況の背景です。1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありました。1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」
4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を発令しました。関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むという戦術でありました。関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、というものでした。そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりました。師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機でありました。しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからという状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10万人はいたということで、野砲も400門不足pしていました。新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハン事件で、の戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。
一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。
中隊では、新兵の教育訓練が始まりました。指導教官は見習士官。補助員として、特幹が当てられました。古兵をあてたら初年兵が壊れてしまうという配慮からでしょうか。おかげで私たち特幹は、毎日初年兵と一緒に教練で、模範演技を見せなければなりませんでした。初年兵はとりわけ大変です。6年兵、7年兵がいます。ここまで古くなると「解脱」(げだつ)の境地でしょうか。若い兵隊たちをあまりいびりません。寝台の神様で将校も下士官も煙たく敬遠して腫れ物に触るような扱いです。実際に内務班を取り仕切る5年兵のお目付け役です。内務班をかき回しているのは、3年兵、4年兵です。戦闘もなく、家族にも会えず、たいした任務もなく、ただ兵舎で暮らしているだけの古兵たちの楽しみは、祝祭日の外出で「慰安婦」を買うこと、そして内務班で新兵たちをいびることなのでした。私が語るよりも適切な文章がありますので、それを紹介します。
「不戦」89年3月号「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より
(前略)初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や褌を洗濯する暇もない。入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。(中略)ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。(中略)
初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している。規格に合った強い兵隊を作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)
徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)………

私たち特幹7名は、あらかじめ「寝台の神様」7年兵には話をつけておき、朝食後も、晩食後も、初年兵の訓練、演習に参加する以外は、班を抜け出し、一緒に集まることにしました。古年兵たちから身を守る「自衛」のためです。「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」本気でそんな風に思っていました。
毎週日曜になると、外出どころか「脱走兵」探しです。我慢がならなく脱走するのです。内地からでなく、現地召集の兵隊は土地勘があります。中国語もある程度できます。中国人部落に逃げ込み、匿ってもらったら百パーセント発見不可能です。応召の四十近い初年兵が自殺をしました。内地からの兵隊です。理不尽で地獄のような内務班生活に耐えられなかったのでしょう。便所で、銃剣を立て懸け、屈みこんで喉を突き息絶えました。上官の責任が問われます。自殺したことは内密にして、事故死として遺骨は送り返されたようです。これも「名誉の戦死」なのでしょうか。遺族には何と報告したのでしょうか。次々に見聞きする異常事態に「これで勝てるのかな」という不安が募る一方、日本は正しいと信じていて、「天皇陛下の大御心(おおみこころ)を途中で捻じ曲げる奴がいるからこういう事態になるのだ」「天皇に申し訳ない」「いつか立派な軍人になってこういう奴らを正すのだ」と思うのでした。子どもの頃からの日の丸・君が代・天皇づけの教育とは恐ろしいものです。なにしろ「天皇」は「大元帥陛下」で、「神聖にして冒すべからず」の「かしこくも現人神(あらひとがみ)」であらせられるのです。でも天皇のために死ぬとは思っていませんでした。「天皇陛下万歳」なんていうのはインチキです。(恰好をつけるポーズだと思っていました。死ぬとしたら、「祖国」のため、「愛する家族」のためだと思っていました。
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by hisako-baaba | 2008-08-15 07:42 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念 (13)   猪熊 得郎

【新京の暑い夏、8月】
1945年8月、新京(長春)の夏は暑く、日差しは強烈でした。心配をしていた東京の我が家からの便りが届きました。
看護婦会を経営していた日本橋浜町の家は3月の空襲で消失、避難した薬局経営の市ヶ谷富久町の家は、またまた、6月の空襲で消失、父と姉は無事、リヤカー1台の荷物で、杉並の父の友人宅に落ち着いたとか。父は「得郎は満州で大丈夫だ」と言っているとのこと。赤い夕日の夕闇に、しばし、故郷の家族との日々を偲びました。
新京東飛行場や新京西飛行場では、時々八路軍のゲリラが出てくるとの情報がありました。照明弾が打ち上げられ、慌てて探索にゆくが、何時も逃げられてしまう。両飛行場の対空無線分隊からの報告です。中隊本部でも警戒が強められました。衛兵勤務では、「誰か」、「誰か」、「誰か」、と、3回「誰何」(すいか)して応答がなければ「発砲」「射殺」すること、と命令されました。
日本政府・ソ連軍の動向・・・政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしていました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否するでもなく回答を引き延ばしていました。その「和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政策を持っていました。7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末としていました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していました。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討していました。
ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生かし、日本軍をこう観察していました。
 日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈この上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。かつ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。 しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持っている。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団そのものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っている。」(ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社)
5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。ソ連軍最高総司令部は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20日~25日と予定されていました。8月6日広島に原爆が投下されました。8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機が勢揃いしていました。
ソ連の侵攻
8月9日早朝、ソ連機の空襲がありました。「いよいよ始まったか」、「手ぐすね引いた関東軍だ」、「待ち構えてロ助なんて、いちころだ」、威勢の良い言葉が飛び交っていました。昼過ぎ、人事担当の曹長に呼び出されました。「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は明朝、公主嶺飛行場の第2分隊応援のため、無線機材とともに出発せよ」との命令です。10日早朝、無線機材を積んだトラックに同乗して公主嶺飛行場に駆けつけました。
公主嶺は新京から南へ約60キロの美しい町です。与謝野鉄幹と晶子夫妻は昭和3年に満蒙旅行をしましたが、晶子が6月3日に公主嶺で詠んだ歌です。
夏雲が楡の大木のなす列にいとよく倣ふ公主嶺かな
しずかなり水ここにして分るると云う高原の駅のひるすぎ
まろき楡円き柳の枝となる羊飼はるる牧場に立てば
青白く楡銭乾けりおち葉より用なげなれどなまめしけれ
当時、在満の航空兵力は約300機、うち戦闘可能なもの200機でした。飛行戦隊は次の10戦隊です。 独立第15飛行団・  飛行第104戦隊、独立飛行体第25中隊、独立101教育飛行団・第5練習飛行隊、第23、24、26、42、教育飛行隊第4、第13、第22錬成飛行隊。
公主嶺飛行場では、第22対空無線隊第2分隊が第13錬成飛行隊と協力をしていました。第13錬成飛行隊は、ザバイカル方面のソ連戦車攻撃に飛び立っていました。対空無線分隊は、小さな単位ですが、飛行戦隊に協力する独立した部隊です。第2分隊の構成は15名、分隊長は東京府立化工出身乙乾の軍曹、まとめ役は古参の兵長、そして少年飛行兵第15期兵長、特幹1期兵長3名、その他上等兵、1等兵、2等兵計9名です。
分隊長と5名の兵長が送受信担当で、他の兵士が、設営、保守、営繕、炊事、運輸担当です。「さあ、やるぞ」と張り切っていたのですが、翌11日「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で、分隊は送信所、受信所とも撤収して、急遽新京に戻りました。日の丸鉢巻き 水杯、新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり、重要書類を焼却する黒煙が立ち上っていました。公園や広い道路には陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。性能の良い高射砲はみんな南方に持って行きました。残った高射砲はせいぜい3,4千メートルの高度にしか届きません。ソ連の飛行機を撃ち落とせません。日本の対戦車砲では、ソ連戦車の装甲板は撃ち抜けません。弾丸が跳ね飛ばされてしまいます。それで高射砲の水平射撃でソ連戦車を撃破しようというのです。満州国の首都新京で市街戦の準備です。7月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たちが、「義勇軍」に動員されていました。開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。国境線を突破したソ連軍は、戦車を先頭に、猛烈な勢いで進撃をしているようです。
戻りついた中隊本部は騒然としていました。下士官も、古年兵もソ連機の空襲にそわそわおどおどしています。内地でさんざん空襲に遭い、機銃掃射で戦友を失った我々特幹が目立って落ち着いていました。夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、各地の飛行場から戻った対空無線分隊員の兵長以上が集められました。先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞がありました。「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」、「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹
底すること」、「暗号書保管の担当者を定め、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいています。しばしの沈黙の後、「おう」、「やるぞ」、「お互、さらばだな」、低い声のささやきがかわされました。日の丸鉢巻きで、水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。水杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点にゲリラ活動をしよう。)」16歳の私は、妙に冷静でした。「いよいよ最後かな」、「お父さんどうしているかな」、家族のこと、故郷のこと、これまでの思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。私たち第2分隊は、朝満国境近く、通化後方の梅花口飛行場で、戦闘配備に着くことになりました。ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大公安嶺山脈を突破し、また雄基、清津 等の港から上陸し北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。
14日夜、私たちは新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。
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by hisako-baaba | 2008-08-15 07:32 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(2)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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