カテゴリ:愚かな戦争( 111 )

被曝4日後のヒロシマの写真
原爆が落とされて4日後の、ヒロシマの写真が、こちらに載っています。リンクできないのでコピペします。http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/05/hiroshima_n_7944510.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001



もう一つコピペで、sideさんのところに、昭和47年に文部省が子供達に書いた「あたらしい憲法の話」という本や、植物学の牧野富太郎先生の文章などいろいろのっています。http://sidediscus.exblog.jpこちらから行ってみてください。





世界で初めて都市の上空で原爆実験がなされてから70年経って、広島市平和祈念式典のテレビを見ていました。


小学校6年生の少年と少女が、手に持った原稿を一切見ないで、長いスピーチを終えました。
素晴らしい!と、感嘆して、2人の子供さんの顔を見ていました。

次に演壇に立った安倍総理、おそらく他人に書かせたであろう原稿から目を離さず、思いのこもらない声で朗読。子供さんたちに比べて、なんとみすぼらしく見えた事か。




いつも思うのですが、なんで日本の政治家は原稿を読むの??? 自分の言葉をほとばしらせないの?

アメリカ大統領の名演説といわれるものには、ライターがいるそうだけれど、でも、ライターと一緒に練りに練って、自分の意見としてまとめて、原稿なんか見ないで語りかけるから、名演説になるわけでしょう。

日本だって、親の地盤を持たない議員には、演説の「技術」をしっかり学んでいる人もいるでしょう。でも、親の地盤を受け継ぐおぼっちゃまたちは、基本の発声訓練さえ受けていないのね。
滑舌ぐらいはしっかりしてほしいものですね。

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昨日の夕方、6時過ぎにリビングからふと見ると、池袋と新宿の高層ビル群にだけまだ陽が当たっていました。いつか見たように、赤く映えてはいませんでしたが。

上は池袋。一番高いのが「サンシャイン60 」です。巣鴨プリズンの跡地。変われば変わるものですね。

下は新宿の高層ビル群ですが、どれが何やらわかりません。知りたいのですけどね。
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今日は、ヒートテックの長ズボン下を着込んでいます。足腰は冬支度です。
29度のエアコンなんて冷房とは言えないのに、昨日、長く座っていたら、お腹も足も冷えてしまって、腹痛を起こしたのです。
上半身は暑いから、せめて29度のエアコンはつけていないと、頭がくらくらするからつけますが、冷え性のお腹には良くないみたいで、上半身と下半身の感じ方の違い過ぎに悩まされています。
上は袖なし、下はズボン下にスウェットパンツ。これで丁度良いのでした。やれやれ。







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by hisako-baaba | 2015-08-06 22:18 | 愚かな戦争 | Comments(4)

戦中戦後の子供の暮らし・・・① (追記有り。誤解を招きそうな部分を書き足しました)
満州事変の起きた年に生まれた私は、14歳の誕生日の8日後に敗戦を迎えました。子供時代はずーっと戦時中だったわけです。2008年2月に書いた文章を一部編集して、再び掲載いたします。



戦中戦後の子供の暮らし

∽…∽…∽ 目 次 ∽…∽…∽

①・プロローグ
・女学校
・お友達

②・隣り組と配給
・馬鹿げた命令
・黒煙に追われて
・機銃掃射の恐怖
・飢餓との戦い
・野草とかぼちゃとイナゴ
・人心の荒廃、そして激しいインフレ
・パンパンガール

③・ウエイトレスだった半年間、そして肺結核の半年間
・女中奉公もハウスメイドも勤まらなくて
・ニセ学生になってアルバイト
・繰り返した挫折

④・バスガールになって
・バスガールの暮らしにあきたらず
・またまた挫折
・結婚したら、まわりにびっくりされて

【プロローグ】

東京目黒の高台に、大正末期、電鉄会社が開発した一区画 250 坪から 300 坪のゆったりした分譲地が有りました。 父は、日当たりの良い南の区画に大正 14 年に家を建てて、麻布から移ってきました。

ちょうど NHK (とは言いませんでしたが)のラジオ放送が開始された年で、初めから聞いていた父は、7 月に引っ越すとすぐ、新居でラジオを聞く『許可書』を取りました。 今も残るその紙切れの裏には、受信機のそばに必ず許可書を置いておくようにと書いてあります。 高いアンテナが必要で受信機は鉱石ラジオでした。

翌年、昭和に変わると、どんどん景気は悪化して、昭和の大恐慌、農村は疲弊して、娘達が女郎や工女に売られる時代となりました。 株は大暴落を繰り返し、その世界にいた父には最悪の時代でしたが、家族は何も知らず豊かに暮らしていました。

昭和 6 年、国内の不満を解消するためか満州事変が勃発。 「昭和の 14 年戦争」が始まってしまったのです。

その年、我が家ではびっくりする事件が ・・・、兄が生まれてから 11 年も経つのに、ひょっこり私が生まれたのです。 心労続きであったろう 55 歳の父は、大喜びで私を溺愛してくれました。

近所に友達もなく、バラや花木の多い敷地内でばかり遊んでいた私。 幼稚園も有りませんでしたが、6 歳までにカタカナ、ひらがな、の読み書きは出来ました。 漢字も「屋上庭園」と書けたのは、デパートの屋上の小さな遊園地が好きだったからです。

私は昭和 13 年に小学校に入学しました。 入学前の『メンタルテスト』は酷い体験でした。 いいえ、私が箱入り娘過ぎて、よその人と話した経験が無い為、答えがわかっていても一切返事をしなかったからなのですが、『低脳(知恵おくれ)ですな!』とさも迷惑そうに中年の男の先生は言いました。 吐き捨てるような嫌な言い方を、何故か記憶しています。

その年の 10 月末、父は、朝起きてきませんでした。 突然死、ふとんの中で冷たくなっていたのです。 それからの混乱の日々は、私の記憶から完全に消えています。 父の急死と、それに伴う経済の逼迫で事態は急変。 同じ目黒の、小さい家に移り、どんどん酷くなる戦争に翻弄されることになりました。

2 年生の夏転校した小学校に、私は 5 年生までなじめずにいました。 6 年の担任の先生と相性が良くて、やっと元気になれたのですが。 小学校では毎朝、朝礼があって、雨でない限り校庭に整列したものです。 昔の子供はきちっと整列できるように、厳しくしつけられていました。

号令台から命令が次々浴びせられます。 『気をつけ! 前へならえ!』みんな腕を前に伸ばして、前の人との間隔を決めます。 タテにもヨコにもきちっと並びます。 そう、今、北朝鮮の子供たちが並んでいるように、一瞬にして真っ直ぐに整列できたのです。 ちょっとでも列を乱したら、先生に怒鳴られます。

いろんな号令がかかりました。 『皇居遙拝(天皇のいらっしゃる宮城の方角に最敬礼すること)』、『気をつけ! 天皇陛下に対し奉り、最敬礼! ・・・ なおれっ!』 最敬礼は背筋を伸ばしたまま腰を曲げて 90 度以上に頭を下げます 。『敬礼』は 60 度です。 おじぎする時、背中を丸めてはいけません。

当時、どの学校にも必ずあったのが『御真影奉安殿(ごしんえいほうあんでん)』と二宮金次郎の銅像です。 ご真影とは、現人神(あらひとがみ)であらせられる、天皇皇后両陛下の写真。 奉安殿は神社の形をしていました。 御真影奉安殿の前を通るときは、立ち止まって、向きを変え、最敬礼してから通ります。

子供たちは、『今、支那(中国)で戦争をしているのは、大東亜共栄圏を打ち立てるためである。 支那の愚かな政府を倒して、人民を大東亜共栄圏の一員にする為だ』と教育されていました。 みんな中国人のことを、チャンコロとか、チャン公とか呼んで、馬鹿にしきっていました。 日本人だけが東洋の盟主で偉いんだと思い込まされました。 朝鮮人への差別も酷い時代でした。

そのうちにドイツ、イタリアと三国防共協定(軍事同盟を結んで、共産主義国に対峙すること)が結ばれ、共産国以上に、アメリカ、イギリス、オランダなどと対立してゆきました。

当時の私たちにとって、ドイツのヒットラーはかっこいい英雄でした。 ヒットラーユーゲントとか言うドイツの少年団がやってきたときは大歓迎でした。 統制の取れた少年達の俊敏な動きは素晴らしいと皆感心したものです。 今の北朝鮮の子供たちみたいだったのですけれどね。

それは、皇紀 2600 年を祝った昭和 15 年の事でした。 神武天皇から数えると、日本国の歴史は q2600 年だというのでした。 万世一系ゆるぎなき皇統 ・・・ 歴史上、天皇の位を争う戦いがいくつもあったなんてことは教えません。 とにかく天皇は神様だと教え込まれていました。

昭和天皇にはご迷惑なことでした。 本当の天皇は一貫して戦争反対だったのに、神として先頭に祭り上げられて、苦悩しておられたのですから。 そうして昭和 16 年、日本は、アメリカ、イギリス、オランダなどとも、無謀な戦争を始めてしまいました。 中国だけでも手一杯だったのに。

☆ ☆ ☆

この話は、戦争を知らない世代の方々に向けて語っているので、先に少し説明がいると思います。

昭和初期のアジアの地図は、大半が植民地の色に塗られていました。 
フランス領インドシナ = ベトナム、ラオス、カンボジア。 
オランダ領インドシナ = インドネシア、ブルネイなど。 
イギリス領 = インド、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、ビルマ、マレー、ボルネオ北部、オーストラリア、ニュージーランド。 
アメリカ = フィリピンなどの島々。

中国東北部には、ロシアが勢力を伸ばし、中国沿岸部などでは欧米列強が利権を競い合っていました。

その傍にある小さな島国日本は、どうやって欧米の餌食にならず、独立を守りうるか ・・・厳しい時代でした。 欧米も、日本には迂闊に手出しできませんでした。 徳川時代から「識字率世界一」読み書きそろばんの出来る人口が非常に多いことは、欧米人には驚異でした。 日清、日露の戦争に勝ったのを見て、侮れないと恐れました。

日本人もまた、日清戦争に勝ったことで、勘違いをしてしまいました。 戦費を当時の金で 2 億円かけて(2 年分の経常収入に当たる)清国から取った賠償金が 3 億 6 千万円と聞きました。 それによって北九州に八幡製鉄所を建設することが出来たそうです。 戦争に勝てば儲かると庶民は思いこんでしまいました。

日清戦争は中国全土と戦ったわけではありません。 朝鮮と海上と沿岸で戦っただけで、清朝末期の中国が負けたのは、まとまりがなかったからでしょう。

10 年後の日露戦争は、革命前の末期の王朝が相手でしたが、それでもロシアの本土にはまだ余力が有り、日本にはもう戦う力はなかった状態での講和ですから、賠償金は全く取れず、樺太の半分と、南満州の鉄道の一部を獲得し、朝鮮へのロシアの影響を食い止めたに過ぎなかったため、庶民は小村外相に怒りをぶつけました。 戦争に勝てば儲かって領土が増えると思い込んでいましたから。

欧米に負けまいとするあまり、欧米を真似て、日本も植民地を持とうと考え、満州国を作りましたが、初めの理想とはかけ離れて、日本の関東軍が満州国を呑み込んでしまった為に、多くの悲劇を生みました。

大東亜共栄圏の理想そのものは間違っていませんでした。但し、軍部が実際にやったことは、ひどく間違っていたのですが。
「アジアの人民が力をあわせて、欧米列強を追い払い、独立を勝ち取ろう」という事で、実際、日本が無謀な戦争に負けたすぐ後で、東南アジア諸国は次々と独立を果たしました。 インドネシアの独立戦争のときには、残留日本兵がかなり参加していました。 独立できたのは日本のおかげだと思っている人はいたのです。

太平洋戦争を起こしたのは、日本だけのせいではありませんが、外交の知恵が不足して、戦わずに解決できなかったことが、国民の不幸を招きました。「武力で、平和は作れない」という、良い例を作ってしまっています。その事実を今こそ学ぶべき時だと思います。

 欧米列強は、日本を早く潰しておかないと、自分たちを脅かすだろうと、団結して包囲網を敷き、日本に金属も、石油も、ゴムも、入らないように締め付けました。 資源のない日本は、ゴムなどの資源を求めて、まずベトナムからフランスを追い払いました。それがどこまで波及してしまうか、先を読めていなかったのかも。

ますますアメリカ、イギリス、オランダ、中国の締め付けは厳しくなり、我慢できなくなって、日本は無謀にも真珠湾攻撃をし、3 年半の辛い戦いの末、大空襲や原爆でぶちのめされてしまったのです。 
アメリカが、ベトナムや、アフガンや、イラクで、始めてしまった戦争を、終わらせることが難しくて苦悩したのと同じように、日本も、終わらせることが難しすぎて、ぐずぐずしている間に大被害をこうむったわけです。

最近、国防の為に、大事な同盟国アメリカに協力して、もっと軍事力を持たねば ・・・ などといわれますが、時代は変わっているのです。 有るとすればテロ戦争。 核の傘など役に立たず、ミサイル迎撃ミサイルだって役には立たないでしょう。 日本の無防備な長い長い海岸線を、軍隊がどうやって護れますか? 今すでに、スパイの出入り自由な国になっているそうです。
原発にミサイルを落とされたら、原爆を落とされた以上の被害を受けるでしょう。

国を護るには敵を作らないことしか有りません。 テロと戦うには、世界中の貧困や飢えを無くす以外にないでしょう。 先ず大事なのはコミュニケーション能力だと思います。 家庭内暴力だって、コミュニケーション能力の貧困によるものでしょう。 外交オンチの国は滅びます。


まあこんな事を考えながら、子供の見た戦争の話に戻ります。

【女 学 校】

小学二年生の夏から暮らした、小さい平屋は、細いバス通りから、路地に曲がって三軒目の左側、奥に引っ込んだ家でした。 バス通りはアスファルトでしたが、路地は土で、幅 3 メートルもあったでしょうか、真ん中に四角い飛び石が並べて有りました。

子供たちはその路地で、様々な遊びを考え出して遊んでいました。 物資はどんどんなくなって、おもちゃなどは買えません。 学校にゴムマリが配給されるのは、一クラスに 3 個ぐらい、くじ引きでした。 運良く手に入るとマリつきに熱中しました。

「いちれつらんぱんはれつして、にちろせんそうはじまった ・・・」 わけのわからない歌詞のマリつき歌にあわせて、スカートをたくし上げては膝の下にマリをくぐらせるのを得意にしていました。 (昭和 17 年頃はまだ「もんぺ」を強制されてはいませんでした。)

おもちゃは自分で作るもの、お手玉は小豆など入れられませんから、そこらに生えているじゅずだまを入れますが、あれは軽すぎて具合良く有りません。 お隣にエゴの木があって、その実で作りましたがこれもあまり具合良く有りませんでした。 それでも 4 枚接ぎのお手玉を丹念に縫ったり、俵のお手玉にして、高く投げ上げたりしました。

昭和 18 年 6 年生になりましたが、この年から修学旅行が中止されました。 学年が一つ上だったら旅行に行けたのに、となんとも口惜しい思いでしたが、何事もお国のため ・・・、文句は言えませんでした。 「欲しがりません勝つまでは」の時代でしたから。 確かに空襲が始まっていて旅行どころでは有りませんでした。

学童疎開は昭和 19 年に始まったでしょうか? 私は高等女学校(今の中高一貫校のような 5 年制の学校)一年生になっていましたので、疎開は命じられませんでした。 しかし、縁故疎開は勧められ、田舎のある人は、次々に引っ越して行きました。 家には田舎がないので、目黒にいるより仕方有りませんでした。

昭和 19 年、念願の女学校に合格。 三本線のセーラー服がかっこいい憧れの学校でしたが、その年からよれよれのステープルファイバー(スフ)のへちま衿ブラウスになり、上着は衿なし。 ヒダのスカートは無くて、みんな和服をほどいて自分で縫ったもんぺを穿いていました。 (子供だって、自分の服は縫いました。)

ですから、へちま衿には怨みがあって、大嫌いになったものです。 (女学生はセーラー服が憧れでした。)

女学生も工場に動員されることになりましたが、一年生は学校に残って一応勉強。 課外活動にお琴と鼓笛隊があって、お琴は 2 年からでも入れるが、鼓笛隊は 1 年からしか入れませんでした。 どちらもやりたいので先ず鼓笛隊に入って横笛を吹きました。 ピッピッと歯切れ良く吹くのが得意でした。

でも 2 年にならないうちに学校は空襲で焼け落ちてしまいましたから、お琴を習う夢はかないませんでした。 たとえ焼けなくても、2 年生以上は工場に動員されましたから、お琴など習う機会はなかったのですが。

昭和 20 年 3 月 10 日夜は、東京大空襲。 下町の空は真っ赤でした。 あれは密集した下町を円く炎で囲んで、女子供を一人も逃さないという絨毯爆撃でした。 きわめて非人道的な、ゲルニカを真似たような空爆でした。

その晩、山の手は無事でしたが、やがて、働きに行くはずだった軍需工場も灰になり、2 年生の私たちは灰の中から貴重な真鍮や鉄の部品を拾い出す作業を、敗戦まで続けました。  5 月には、山の手にも焼夷弾の雨は降りました。 その話はいずれまとめます。

【お 友 達】

年寄りの思い出話は、あっちこっちにすっ飛びますがお許しください。

ご近所の方が出征されるたびに、旗を振って見送りました。 出征した軍人軍属の家庭は、初めのうちは少し大事にされました。

家族に戦地に行っている人がいる子供には、講堂で何か演芸を見せてくれたことが有りました。 私も兄が軍属だと聞いていたから、出席しましたが、現地で採用された人は把握されておらず、一人呼ばれて誰が軍隊に行っているのかと訊かれました。

「お兄さんが中支のバンプウ特務機関にいます」と答えたら、小さな飾り人形を呉れました。 員数外だった私が貰っちゃって、あのお人形は足りなくならなかったかしら、と後で心配したものです。 昭和 15 年ごろだったでしょうか ・・・

そのうち何処の家庭も誰かしら戦争に行かされるようになって、特別扱いはなくなりました。 兄は結局、民間人扱いのまま、軍属にもしてもらえず、6 年戦って軍人恩給もないのです。

昭和 16 年ごろから毎年夏休みに、お隣の田舎に行かせていただいていました。 同級生の敏子ちゃんの親戚は農家で、茨城の、今はない「真壁駅」から歩いて行かれるところでした。 敏子ちゃんの仲良しというだけで、そのお宅でとっても良くしていただき、数日泊めて頂いて、野山を駆け巡った楽しさは忘れられません。

はだしで走っていて、土踏まずの辺りで蛇を踏みつけてしまったことが有ります。 ぬるりと抜けて、小さな蛇は逃げてゆきました。

運動靴の配給は少なく、裸足で済むところははだしでいました。 ズック靴が破れると、自分でタコ糸と布団針でつくろったり、ゴム糊で布を貼り付けたりしました。 かかとを踏んで穿くなどというもったいないことは絶対にしません。 大事な、それしかない靴なのですから。

その真壁の田舎に、私たちは昭和 19 年の夏休みにも行っているのです。 空襲の始まっている中で、13 歳になるかならないかの女の子二人を、旅に出した親たちの度胸の良さには驚きます。 田舎のほうが安全だからでしょう。 それに農家では、お芋が入っていても、米粒のあるご飯がいただけました。 これは最高に有難いことでした。

その帰り、列車の切符が買えませんでした。 下りは何処まででも買えますが、東京に人間を入れたくないため、上りの切符は近距離しか売らないといいます。 仕方なく土浦から常磐線で切符が買えた駅まで行って降り、又切符を買いましたが今度は取手まででした。 そのたびに次の列車を一時間以上待たねばなりません。 何回も繰り返したら日が暮れてしまいます。

二人は困り果てて、「キセルしちゃおうか?」と相談しました。 二人とも渋谷乗り換えの山手線の定期券を持っていました。 さんざん迷って「2 時間以上遅くなって日が暮れたら親たちが心配するから(電話なんてない時代です)」という理屈で、こわごわキセルしました。

検札が来ないかとヒヤヒヤ、満員だから車掌さんはまわってこられませんけれど・・・ 二人はそのまま定期券で降りてしまいました。 敏子ちゃん一家は間もなく真壁に疎開しました。 女学校も転校して。

朋子ちゃんもお隣さんで、一級上の女の子でした。 戦争が終わる頃になってから、彼女の一家は満州に行ってしまいました。 お父さんの仕事でというのですが、日本にいては生活できないほど困っていたのでしょうか。 肺病のお姉さんを近所の薬局の二階に預けて、行ってしまいました。

お姉さんはひとり寂しく亡くなって、朋子ちゃん一家が帰国したという話は聞かれませんでした。 なんとも悲しい思い出です。






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by hisako-baaba | 2015-08-06 22:14 | 愚かな戦争 | Comments(2)

戦中戦後の子供の暮らし・・・②
戦中戦後の子供の暮らし・・・②

【隣り組と配給】

隣組制度はいつ始まったのでしょうか。 我が家のあたりは、一つのブロックが二組になっていて、7~8 軒ずつの集まりでした。 組長は輪番制で、配給や回覧板の世話をしました。

町内会は隣組の集まりで、役員は退役軍人などでした。 回覧板は戦意高揚の檄を飛ばし、後に紙切れと化す戦時国債を買うことを勧めたりしました。 かなり無理やり買わされたようです。

八軒分の仕切りをつけた木箱に、家ごとの人数を書いたものを組長が保管していて、「お魚の配給! チリンチリン」という合図を聞くと皆組長宅前に集まります。 魚屋さんは人数分ずつ、小分けして入れ、みんな文句も言わずに買います。 何日に一回配給があったでしょうか ・・・、それはいつの間にか全く無くなりました。 たんぱく質から先ず不足して行ったように思います。

特に印象深いのは鰯の配給でした。 あれは戦時中だったのか、戦後だったのか? 戦後のような気もするのですが ・・・、鰯だけは一度にどっさり届いたので、仕切り箱は使わず、めいめい鍋に入れてもらいました。 たまに、決まって夜の 9 時半ごろ、「鰯の配給!」と、起こされるのです。 (当時は早寝でした) みんな喜んで飛び出します。

小型トラックから、一人に 5~6 匹づつ配給されました。 凄いご馳走です。 今よりはるかに漁獲量の多かった鰯。 大漁だと倉庫はないし、何しろ氷が足りませんから、すぐに売らなければ腐ってしまうのです。 そこで、漁港から真っ直ぐ消費地へ運んで、目黒にはいつも夜の 9 時半に着くのでした。

一人 6 匹は嬉しいけれど、冷蔵庫がないので、母と私は先ず一匹ずつ生でむさぼります。 夜だってお腹はすいていますから。 それから七輪に火をおこして焼きます。 明日のご馳走です。 翌朝はご飯がなくても鰯のご馳走というわけでした。

骨は焼きなおして食べました。頭は焼いて乾燥させて粉にして食べました。 鰯には感謝していて、いまだに大好きです。 漁獲量が減って、高級魚になってしまいましたが、昔は一番安くて豊富な魚だったのです。

【馬鹿げた命令】

我が家のあたりは駅まで 7 分の住宅街でした。 総て木造。 コンクリートの家は有りません。 駅に近いほうは大きいお屋敷が多く、家の近くは敷地が 30 坪から 50 坪あるかないかの家並みでした。 (今と違って当時の敷地としては狭いほうなのです。)

各家の門前には、防火用水とブリキのアサガオバケツ、火叩き(棒の先にはたきのように、縄を付けたもので、ぬらして火を叩き消すとされた道具)、鳶口(とびぐち、破壊消防で、家を崩す??)が必ず置かれていました。 いかに物資がないとは言え、こんな江戸時代の火消し道具を、各家に常備せよと命じた人は、何を考えていたやら ・・・

焼夷弾はナイアガラ花火のようにざあざあ降ってきます。 一発の焼夷弾は、落とされると空で火がつき、ハガネのバンドがはずれて38発に分かれてはじけ飛びます。 そんな焼夷弾をまとめて落としてゆくのですから、火を消そうなんて思ったら逃げ遅れます。 でも、家々には役に立たない江戸火消しの道具が、並んでいたのです。

もっととんでもなく馬鹿げた命令は、「空襲警報が鳴ったら防空壕に入れ」という事でした。 一家に一つ防空壕を掘る事を命じられ、庭が無ければ畳を上げて床下に掘れといわれました。 お嬢様育ちの母には無理なので、12~3 歳の私が掘ったのです。

当時軍需工場で「元気が出る薬」だ、といって配られた、覚せい剤の「ヒロポン」を 2 錠もらって飲んだ勢いで、一日で掘りました。 庭が狭いから、半分は家の縁の下に掘ったのです、命令だから。

でも私は、自分が掘った防空壕に決して入りませんでした。 木造住宅ばかりの山の手には焼夷弾ばかりで、爆弾は落とされなかったからです。 爆風の起きる爆弾なら、穴にもぐっている方が安全ですが、焼夷弾は日本の住宅を研究し尽くして作られたそうで、瓦屋根を破って畳の上に留まって燃え上がるのです。 当時そこまでは知りませんでしたが、落ちれば火災になることは知っていました。

防空壕に入っていたら、落ちてくる焼夷弾は見えず、いきなり頭の上で家が燃え出したら、逃げ道がありません。 蒸し焼きになるのはなんとも恐ろしくて、町会の役員が「空襲警報発令 !! 防空壕に退避 ! タイヒー !」とヒステリックに叫んで歩いても、こっそり庭で南の空を睨んでいました。

我が家から 800 メートルほど南に、同級生の家がありました。 商店街の酒屋さんで、男手が有ったのでしっかり屋根のある防空壕を作りました。 でも、防空壕の中で、彼女のお父さんは、不発の焼夷弾の直撃を受けて死にました。 もし不発弾でなかったら、一家全員防空壕の中で焼け死ぬところでした。 お父さんも店も無くした彼女の一家は、田舎に引き揚げて行き、やがて便りも途絶えました。

防空壕に入るのは危険すぎることなのに、「お上」はそれを命令し続けたのです。

【黒煙に追われて】

昭和 20 年春は、毎晩のように空襲警報が鳴り響きました。 寝間着になんか着替えてはいられません。 昼も夜も同じもんぺ姿。 毎晩まどろむ頃に空襲です。 昼間疲れ切っているし、栄養状態は最悪だし、眠くてたまりません。 空襲警報の大音響に気付かずに、ぐっすり眠っていた事さえ有りました。

でも5月25日の夜は、B29 の爆音は間近でした。 頭の上を編隊が通り過ぎたと思ったら、南の方から煙が上がりました。 油屋が燃えたとかで、炎は見えずに黒煙が辺りを包みました。 むせっかえるほど煙くて居たたまれず、母と二人で西の世田谷方向へ逃げました。 南風だったからです。

そのとき、隣組組織は一切機能していませんでした。 一緒に逃げようと言う暇もなく散り散りに逃げたのです。 坂を下りるともう煙は追ってきませんでしたし、辺りには畑もあって、安全な場所でした。 ほかに逃げてゆく人が居たのかどうか、暗がりでも有り記憶に有りません。

その辺に居ればよかったのですが、逃げ始めると足が止まらなくなるのですね。 何故か 3 キロ先の練兵場(軍隊が訓練する広い原っぱ)まで行ってしまいました。 そこには兵舎がありましたから、より危険なはずなのに、煙から逃げる心理は、ただただ広い原っぱに行きたかったようです。

塹壕(竪穴)の中にへたり込んで、辺りを見回すと、360 度どちらを見ても赤々と炎に映える空でした。 いずれも遠くでしたけれど。 絨毯爆撃ではなく、点々とあちこちが燃えたようで、3 月 10 日のような物凄い人的被害は起きなかったと思います。 死者が何人と発表される時代では有りません。 近隣の被害でさえ、死者数は知り合い以外わかりませんでした。

翌朝、『ああ、とうとう焼け出されてしまったわね』といいながら戻ってみたら、隣組の家並みはちゃんと残っていました。 数区画先まで焼けてきて、いきなり風向きが逆になったとのことでした。 でもそのとき、それほど喜ばなかったのは、どうせ明日には焼かれるだろうと思って居たからで、ただ、今夜はとにかく布団に寝られると、ほっとしました。

庭の防空壕(ただの穴)を見たら。 ピカピカ青光りするハガネのバンドが落ちていました。 バネのようで、端に引っかかる止め金がついていました。 後にそれが、焼夷弾を19発ずつ束ねていたバンドである事がわかりました。 これが当たっても死んだかも知れません。

日本では、金属がなくて、鍋釜から指輪まで供出させられていたのに、アメリカは、焼夷弾を束ねるだけのバンドに、ピカピカ新品の鋼(はがね)を使っていたのかとあらためて驚いたものです。 それからも毎晩警報は鳴りましたが、近所に焼夷弾が落ちることは有りませんでした。

私たちは煙に追われただけで、火に追われたこともなく、死者の姿を見ることもなく、家も焼かれず敗戦を迎えることが出来ました。 東京の人間としては実に幸運だったと思います。 家族は誰も戦死しなかった。 そんな大幸運に恵まれながら、しかし戦後のインフレで、以後、学校には行かれなくなったのです。 それは私には大変なことで、学歴なしの大きなハンデを背負って、生活と戦うことになったのでした。

練兵場脇の兵舎は、最後まで焼かれず、敗戦後暫く『引揚者住宅』になっていました。

【機銃掃射の恐怖】

私たち女学校 2 年生は、家から 4 キロ先の工場の焼け跡で、毎日灰の中から貴重な部品を探していました。 山の手の焼夷弾火災の熱は金属を溶かすほどではなかったようで、真鍮の部品は変わりなく光っていました。 灰が舞い上がるのに、マスクもないし、物陰一つない炎天下の辛い作業でした。 (工場は完全に焼け落ちて瓦礫の山だけでした。)

通勤も、電車は空襲警報が鳴れば止まりますから、あてにならず、歩くことが多かったように思います。 日曜日は休みでした。 からからに乾燥した感じのある日曜日(だったと思うのですが)、昼下がりに私は駅の方から家に向かって歩いていました。 空襲警報は出ていませんでした。 出ていれば勝手に歩いていられなかったはずですから。

そのとき西のほうから、ちいさい飛行機が一機迫ってきました。 私は西にむいて歩いていたのですが、いきなりバリバリバリッと機銃掃射の音がしました。 一本南の道路を狙ったようです。

私は人けのないお屋敷町の、長い塀の外を歩いていたので、もしこの道を機銃掃射されたら、逃げ場は有りませんでした。 ぞぞっと全身総毛立ったのを覚えています。 その敵機は、ほんの冗談だったのでしょう。 何しろただの住宅街で、女子供と年寄りしか居ないはずでしたから。 機銃掃射は一瞬で、そのまま東へ飛び去りました。 悠々と。 迎撃するものは有りませんから。

後年、イラク戦争で、チグリス川に逃げ込んだイラク兵に、執拗に浴びせられた機銃掃射が恐ろしくて、背中がぞくぞくしたことを覚えています。 思わずやめてーッと叫んでいました。

【飢餓との戦い】

焼夷弾や機銃掃射の恐怖より前に、飢餓の恐怖が有りました。 戦争中も配給は遅れたし大変でしたが、戦後の方がもっとひもじかったように思います。 「お米の通帳」を初め色々な配給品の券がありました。 衣料切符も割り当てられたけれど、その券で衣類を買うお金もないから、券をお醤油に換えてもらったりしました。

タバコをすわない男の人も、いちいち配給を買ってきて、食料と交換していましたが、女性にはタバコの配給はありませんでした。 お米の通帳は、初めのうち、おとな一人一日二合三勺(2 カップ強)買えました。

すごく多いでしょう? 今と違って、米で蛋白質まで総ての栄養を摂取しなければならなかった時代なのです。 もともとおかずはほんのわずかで、時には梅干だけで、米のご飯を山盛り食べていた日本人なので、一日に一升飯(米で 1.8 リットル)を食う人さえいたのです。

米の配給がどんどん少なくなると、たちまち栄養失調になりました。 戦争中から米屋で精米することが出来なくなって、玄米の配給でした。 玄米のままでは、圧力釜もないからマトモに食べられません。

乏しい燃料で、お粥になるまで煮るわけにもいかない。 だからみんな一升瓶に玄米を入れて、竹の棒で突っつきました。 子供もおとなも手のあいている間中、辛抱強くビンの中の米をつきました。 その玄米の配給さえほとんどなくなって、遅配欠配、米の通帳に何日も前の分が記入されていない事態になりました。

米の代わりに買わされた、大豆の絞りかす(油を絞ってぺちゃんこに干からびた硬い大豆)はまだましで、憎らしかったのはフスマです。 小麦粉を作った後の皮の部分。 今ではその食物繊維が珍重されていますが、当時は粉にひく事も出来ず、お粥に混ぜても消化できないでそのまま胃腸を通過してしまうから栄養にはなりません。 そんなものを買わせておいて、米の代わりだから、そのぶん米は減らすというのです。

アメリカ軍が進駐してきて、GI 達の血色の良さが目に付きました。 日本兵はろくなもの食べていなかったけれど、アメリカ兵は栄養満点の食事をしていたんだなあと思いました。 日本人をこれ以上飢えさせては不穏な動きも出てくるだろうし、とにかく食糧援助だということで、アメリカから色々送られてきました。

配給になったとうもろこし粉は、当時流行ったリング型の鋳物の鍋で大きなドーナッツ状のパンに焼き上げて美味しく頂きました。 何故かザラメ(砂糖)が大量に配給され、そのぶん米は減らされました。 砂糖が米の代用になるはずはないのに。

虫が混じっていたりしましたが、とにかくカルメ焼きを上手に焼く競争をしました。 重曹を入れてかき回すタイミングで、ふっくらしたりぺちゃんこになったりしたものです。 でもお砂糖ではお腹は膨らみません。 お腹が空いていない時間は有りませんでした。

買出し列車は有名でした。 でも衣類を持ってゆかないと農家で米は売ってくれません。 着道楽をしたことのない母に、米と交換できる和服など全くなかったし、私の服はぼろぼろで、二、三枚の良いところを集めて、ブラウスを作っていました。 家に大正時代のシンガーミシンがあったから助かりましたが。 自分の着るものも足りないから、米の買出しにはいかれません。

新座辺りの農家に行って、サツマイモを一貫目 (3.75kg) 買って帰るのがやっとでした。 体重 40 キロ足らずだった私が、農家から駅まで 4 キロの道を芋を背負って歩くのはしんどい事で、電車 3 本乗り継いでの一日仕事でした。

【野草とかぼちゃとイナゴ】

配給は当てにならず、常にお腹がすいていたので、皆食べられるもの探しに懸命でした。

土の道だから雑草も生えてはいましたが、ハコベやタンポポはご馳走で、アカザやギシギシはあまり美味しくない。 それでも生えるそばから食べつくしてしまいました。 ツクシやノビルのような美味しい草は街にはありません。 いつも、食べられる草は生えていないかと、下を見て歩きました。

畑にするほどの庭はなかったけれど、サツマイモとじゃが芋を 2 本ずつ位植えました。 縁先にかぼちゃを 4 本ぐらい蒔いたのですが、つるを這わせる地面がないので、竹竿で屋根に誘導しました。

逞しい栗かぼちゃは、どんどん屋根に上って花をつけました。 私は毎朝早く、はしごをかけて屋根に上り、咲いたばかりの雌花にオシベの花粉をつけて、花びらを閉じて結びました。 屋根の上に大きなかぼちゃが 6 - 7 個出来たでしょうか、一番大きいのは一貫三百匁(5 キロ弱)有りました。 (ウチには大きな台秤が有ったのです。)

毎日屋根の上を歩き回ったので、後に酷い雨漏りを引き起こしてしまいました。 瓦屋根の棟の上を手放しで歩くのを得意にしていたオテンバな私だったのです。

かぼちゃの茎は蕗のように煮て食べました。 葉っぱは焼いてもんで、まずいけれどふりかけに。 サツマイモの茎はご馳走でした。 きんぴらにする油はなかったし、マトモな醤油も無かったけれど、でも結構な食べ物で、今でも好きで、見つけると買います。 皆さんご存知ですか? 『わさびの茎の佃煮』には、サツマイモの茎がわさびより多く入っていると、ちゃんと表示されている事を。

子供同士で電車に乗って、イナゴ捕りに行ったのは、敗戦後だと思います。 たんぱく質に飢えていたので、横浜の綱島辺り(今では高級住宅地)の田んぼに行って、イナゴを捕って来ては、佃煮にして食べました。 形が気味悪いなどと言っていられず、長い足が硬くて上あごを刺しても、そのままバリバリむさぼるのでした。

佃煮を煮たくても、ろくな醤油はありませんでした。 代用醤油というのは、色だけが似ていて、味は似ても似つかないヘンなものでした。 塩の配給も遅れてばかり、本気で海まで水汲みに行きたいと思いましたが、遠すぎて無理でした。

【人心の荒廃、そして激しいインフレ】

『特攻隊くずれ』という言葉を良く聞きました。 酷いと思ったものです。 国の為に死ねと言われて、辛い訓練を受けていたのに、何もかもが無駄になっての敗戦。q

仲間は何のために死んだのか分からなくなってしまった。 死ぬつもりになっていた十代の少年達は、もう用は無い、帰れといわれても、納得できるわけがない。 一部には荒れ狂って犯罪に走る者も居ましたし、ヒロポン中毒で廃人になった例も聞きました。 『特攻隊崩れ』だなんて、ひどすぎる言い方でした。 彼らをそこに追いやった軍首脳こそが、糾弾されるべきなのに。

町では粕取り焼酎なるものがはやりました。 本当のカストリなら良いのでしょうが、バクダンというのが有りました。 当たれば死ぬ、毒性の強い「メチルアルコール」です。 飲んで失明したり死んだりした例を良く聞きました。 殺人酒が出回っているのを百も承知で、呑んだくれている人の気持ちは全く理解できない私たちでした。 うちには酒好きが居ませんでしたから。

当時の生活格差は今よりはるかに酷いものでした。 ヤミ商売で大儲けをした成金は焼け残った豪邸を買い、焼け跡の防空壕には、焼けトタンで雨をしのいで住んでいる人々が居る。 焼け跡にバラックを作る能力のある家族はまだましですが、どうにもならず立ち尽くす人々も居たでしょう。 明日の米をどう工面するか、先の見えない中で、酒におぼれるおじさんたちが居たわけです。

第三国人の横暴も話題になりました。 それまでいじめ抜かれていた中国や朝鮮の一部の人々が、ここぞとばかり知恵を絞って、ヤミ商売をやりたい放題で、大儲けしたと聞きます。 彼らはあまり取り締まられなかったようです。 ヤミ商売をする才覚のない庶民は、どんどん価値の下がってしまうお金で、今買える物をとにかく買っておこうと血眼になり、インフレはどんどん加速しました。

私の母は、昭和 13 年に夫を亡くしたとき、家を売って、自分が一生暮らせるだけの、一時払い郵便年金に加入しました。 毎月必要な生活費を下ろせるはずでしたが、猛烈すぎたインフレによりその一か月分で、パン一個しか買えなくなっていました。

郵便局から通知が来て、わずかな金が一回下りてその年金は消滅しました。 つまりそこで父の遺産はなくなったわけです。 買わされていた戦時国債は、全く支払われる事なく、紙くずと化したようでした。

【パンパンガール】

盛り場には、からだを売る娘達がたむろしていました。 何故かパンパンと呼ばれて軽蔑されていました。 でもあの当時、売春をする人を軽蔑できないと思っていました。 何人もの弟妹を抱えたお姉ちゃんは、自分を犠牲にしない限り全員を飢えから救う道はなかったのですから。

焼けトタン小屋や、防空壕に住みながら、明日の食料を稼いでくるには、女の子に良い仕事なんか有りませんでしたよ。 復員したお父さんが病弱で働けないという話も良く聞きました。 心身ともにぼろぼろになって命からがら復員した人が多かったのです。

一方では、軍の物資をごっそりせしめて帰宅した軍人も居ました。 軍の食料や毛布などをトラックで持ち出してヤミで売ったと得意げに語る人も居ました。 ごく一部の人間は儲けたけれど、大多数が飢えていた時代でした。

昭和の初期には、疲弊した農村から娘達が売られた・・・。 戦争に負けたら、働き手を失った家族のお姉ちゃんが犠牲になった。 いつも辛い目に遭うのは娘達でした。

進駐軍兵士の腕にぶら下がって歩く女性も目立ちました。 みんな背が低くて痩せていました。 フレアーのロングスカートをハイヒールでなびかせて、真っ赤な唇の女性たち。 米軍将校のお妾になって「オンリーさん」と言われた女性たちは、実家に豊富な食料を届けました。

米兵と恋をして、結婚して日本で暮らしていた間は豊かだったのに、除隊になってアメリカの夫の実家に着いた時、自分が極貧の家庭に嫁いだ事に気付く人もかなり有ったそうです。 軍隊の給料がなくなり、仕事もなくて、酒におぼれ暴力を振るうようになった夫と、ようやく離婚出来ても、日本へ帰ることは出来ないまま、厳しい人生を送った話もしばしば聞きました。

私には母が居て、家もあって、どうにかあの食糧難を乗り切れた。 恵まれた方なのに、それでも学校にだけは行かれなかったのです。






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by hisako-baaba | 2015-08-05 12:39 | 愚かな戦争 | Comments(2)

戦中戦後の子供の暮らし・・・③
戦中戦後の子供の暮らし ③

【ウエイトレスだった半年間、そして肺結核の半年間】

私には三人の兄が居ました。 病弱な長兄は戦後間もなく亡くなりました。 16 歳上の次兄は満州に出征していましたが、幸運にも済州島に移動して終戦を迎えたため、早く復員できました。 しかし、妻と三人の子供を抱えて母に援助するだけで手一杯。 私がぶら下がるわけには行きません。

下の兄は終戦後、私たちが大空襲で死んだと思いこんで、残留し中国人になりすますつもりでした。 そういう知らせが届きました。 「彼は中国にもぐってしまった」と。 だからもう帰っては来ないと思っていました。

私は就職活動に懸命になり、大会社に入社しました。 あるデパートが、新宿に新規開店するレストランのウエイトレスです。 十数名のウエイトレス仲間は皆小学校高等科卒業生でした。 私は女学校 2 年中退。 それなのに初任給が私だけ少し高かった。

高等科は 2 年制だから私より半年多く学校に居たのに、一年半しか女学校に居なかった私の方が高いのは不思議でした。 高等女学校と、小学校高等科の間には差別が歴然としてあったのです。 ということは高等女学校中退の私と、卒業した人との差別も激しかったわけです。

とにかく学歴を必要としないウエイトレスになって、順調に貯金もしました。 電鉄系の会社なので、無料で通勤定期が貰えました。 開店準備と訓練を経て開業。 ウエイトレスのリーダーは和服を着た中年女性でした。 何故和服だったのか、開店後はどうだったのか忘れましたが、とても優しくて気配りの良い独身女性でした。

お皿を沢山持つ練習もしました。 左手に 10 枚、右手に 2 枚、大皿を乗せて腰でバランスをとって歩くのです。 何故トレーを使わずそんな運び方をしたのでしょうか? 職人芸を見せたいウエイトレス心理だったのかもしれません。 料理を入れた皿は、左に 4 枚右に 2 枚が新米の私たちには限度でした。 いまだに私は左手に 3 皿の料理を持ってしまう癖が有ります。

レストランのメインは喫茶で、パフェやプリンが印象に残っています。 主食は外食券を出さないと買えませんでした。 外食券は、お米の通帳を持って行って、米の配給の範囲内で、発行されました。 外食券を貰うと、米の配給は減るのです。 「海藻麺」は外食券が要りませんでした。 半透明の緑の麺で、だしも美味しくない変な食べ物でした。

3 階に宴会場があって、コース料理が出ました。 ウエイトレスはお客様の後ろに立って気を配りました。 宴会のお客から外食券をとることはしないのに、いつもバタロールが二つずつ出るのでした。 これはヤミ物資です。

飢えに縁のない人たちの会合だから、残り物が沢山でました。 ビールのあまりは、カウンターの男の子に目配せして飲ませました。 バタロールはウエイトレス達のポケットを膨らませました。 手付かずのフライなどは、こっそりつまみ食い。 宴会があると嬉しかったのです。

定休日ごとに先輩からデートに誘われました。 ところが 15 歳の私には恋心なんてまるでわかっていませんでした。 22 歳のお兄ちゃんと、世田谷の九品仏のお池(トットちゃんの本に出てくるあそこです)でボートに乗って、夕方になるとさっさと家に帰りました。

逗子の海に連れて行ってもらったときは、海の家のおじさんから「お兄さんと一緒で良いよ」と男の更衣室に行けといわれて、二人でどぎまぎしました。 もちろん断って女子の方に行きましたが。 それ程、私は幼く見えたのです。 やせっぽちの小さな体つきに、ぽっちゃりしたまん丸の顔。 どう見ても子供でした。

彼も私があまりにも幼いので、キスする事も出来ないでいました。 良いとこのじょうちゃん風で、言う事だけやたら理屈っぽい。 「ヘンな子だね」といつも言われました。

勤めて半年が過ぎたある日、家の近くで、左胸に横から野球のボールが当たりました。 翌日になって痛みが激しくなり、外科は無いので、かかりつけの内科に行ったら、左の肋膜炎だといわれ、長い休養が必要になりました。

私はボールが当たった為に肋膜炎になったと恨みましたが、最近のお医者さんが言うには、「両肺に結核をやった跡がある。 ボールが当たって医者に行った為に、初期の結核を発見されて、早く治ったのでしょう。」とのことでした。

病気で会社を辞める必要はなかったのに、世間知らずの私はさっさと辞めてしまいました。 (やめさえしなければ、その後の 4 年間の、とんでもなく厄介な暮らしはなくて済んだ筈なのですが) デートの彼から手紙が来ても、もう会いませんでした。

半年間毎日のように注射に通いました。 筋肉注射を続けたので、いまだに腕の筋肉が凹んでいます。 しっかり溜めていた貯金がからっぽになったとき、病気は治りました。 しかし仕事がありません。 就職活動は失敗続き、女学校中退で、病気で半年のブランク。 何処の会社も雇ってくれないのでした。

【女中奉公もハウスメイドも勤まらなくて】

私が病気した頃には下の兄も、中国のインフレでお金がなくなり、中国人になりすませられなくなって、日本に引き揚げていました。 焼かれたと思った家も家族も無事で、大変驚いていました。

兄がもう一つびっくりしたことは、特務機関時代の高額な給料を、6 年間内地に貯金していたのに、総て、母と私の口に入ってしまっていたことでした。 お金が全くなくなったときに帰ってきたのです。

兄は中国に残留していた間、中国軍の手伝いをしていたので、その給料を中華民国代表部に貰いに行って、そこの住み込み運転手になりました。 だから私がなかなか就職できなくても、何とかなりましたが、私自身は自立をあせっていたのです。

小さな新聞広告を握り締めて、誰にも相談せず横浜の日吉まで行った事があります。 その紙片には「女中求む」とありました。 女中とは住み込みのお手伝いさんのことです。 住み込み食事つきで働きたいと思いました。 家にいても食事を確保するのが大変でしたから。

その家は高台のお屋敷で、いかにも成金趣味の豪邸でした。 勝手口から台所に上がると、女中頭らしきおばさんが出てきて、「貴女が? お仕事なさるの?」なんとも不思議そうに私をじろじろ見て、直ちに断られました。 彼女の観察眼は確かでした。 「こんなねんねの嬢ちゃん、使いものにならん。」 女中さんなんて、私に勤まる仕事では有りませんでした。

その話をしたら、兄が「中国の銀行家が身元の確かなメイドを探しているけど、やってみるか」というので、行って見ました。 当時は住宅難で、売り家も貸家もなかったので、日本の銀行家が自宅の二階を提供していました。

ご主人が一人先に赴任して来て、台所用品から何から買い揃えました。 会話はご主人の片言と、筆談と手振りと、私の描く絵で間に合いました。 蒸し器もヤカンも絵で通じました。 毎朝必ず白いお粥を炊いて、沢庵の炒め煮などを作りました。 昼食、夕食を作る必要はありませんでした。

数ヶ月は困ることなく過ぎましたが、やがて奥さんと 1 歳半の坊やカンカンちゃんが到着。 ご夫婦は頻繁に深夜までのパーティーに出かけるようになりました。 カンカンちゃんは、言葉も解らないおねえちゃんに預けられて半狂乱、眠るどころでは有りません。 泣き喚き続けるので、階下の家主さんが困り果てて、ベテランのメイドさんを紹介しました。 そこで私は一か月分の給料を余分に頂いてクビになったのです。

5 年後くらいに、私が車掌で乗務していたバスに、この銀行家と大きくなったカンカン君が乗りました。 丁寧に挨拶され、お互いに嬉しい再会になりました。 張り切ってバスガールをやっている私を見てもらえたし、とにかくステキな再会でした。

【ニセ学生になってアルバイト】

ハウスメイドをクビになってから、色々な仕事にチャレンジしても、全部駄目でした。 兄も中華民国代表部のドライバーのリーダー役があまりの激務なので疲れ果てて辞めていました。 兄はその頃ヤミの魚屋を手伝っていました。 二人で小船を出して船橋沖で、入港前の漁船から魚を買い付けてヤミ市で売るのです。

漁船は港に入ると、公定価格で魚を売らなければなりません。 インフレは毎日進むのに、国の決めた公定価格は一定です。

だから沖でヤミ屋に一部を売るのです。 ヤミ屋は秋刀魚などを大量に仕入れてどこかにそっと上陸し、売りさばきます。 品物さえあれば闇値でどんどん売れるのです。 物資は闇に流れ、公定価格の品が少ないから、公定価格の配給はほんのわずかしか消費者に届かなかったわけです。

しかし、兄たちのヤミ舟は遭難してしまいます。 エンジン故障で船橋から横浜三渓園沖まで流されて座礁、舟は壊れ積荷は腐ってしまいました。 二人は命からがら岸に上がったのです。 私がこの話を初めて聞いたのはつい最近の事でした。

昭和 23 年の 11 月、たまに帰宅する兄が、「江戸川の方で、学生にノート売りをさせている人が居る。 やってみないか?」と私に言いました。 すぐ行って、学生でもないのに、仲間に入れてもらいました。

でも、この「再建学生連盟」なる組織はいいかげんなものでした。 飲んだくれの親父さんが、利益を求めて始めたようです。 資本を投じて学生を援助するのだと威張っていましたが、商売の知恵が全く回らないのでした。 交通費をかけて本部に行っても商品が品切れで、仕事にならない日が何度もありました。

ノートのほかにはさらし飴を仕入れただけで、もっと売れる商品をといくら言っても聞き入れません。 資金が無かったのでしょう。 酔っ払っては「もっと働け」とお説教ばかりするおじさんは、学生達に全く人気が有りませんでした。 都内には幾つもの学生連盟があって、しっかり活動している組織では、ノートの卸値がもっと安かったのです。 でも学生証を持たない私は、よその連盟に鞍替えするわけには行きませんでした。

連盟本部で、ノートや飴を仕入れたら、バスで新小岩に出ます。 タバコ屋に預けてある折りたたみ式の台を持って、何処かの駅に行き、交番に断って、小さな台の上に商品を広げ、メガホンで叫んで売るのですが、場所次第で儲かったり、交通費ばかりかかって赤字だったりしました。

私はいつも一人で出るようになっていましたが、ある日ベテランの男子と一緒に行きなさいと言われました。 初めて組んだ二人は蕨に出ましたが、労働争議のデモの騒音で全く売れず、川口も駄目で日が暮れました。 「上野に行きましょう。 良い場所がある。」と彼。 京成上野駅の真向かいに、みかん売りのおじさんと並びました。 「あなた一人のほうが良く売れますから。」 彼は遊びに行ってしまい、私一人で沢山売りました。

真冬の夜の上野には、パンパンガールだけでなく、和服姿のオカマさんたちが居て、もうびっくりでした。 9 時半過ぎ彼が戻ってきて、儲けを折半し、連盟へ戻っての清算は全部引き受けてくれました。

私はいつもより多い儲けを手にして手ぶらで真っ直ぐ家に帰る事が出来たのです。 いつもなら残りを担いで連盟に戻って清算して、終バスに乗り遅れると、寒風吹きすさぶ小松川橋を歩いて渡って、都電で錦糸町に出てから帰るので、家には 11 時過ぎにつくのでしたが、この夜は楽でした。

そのうちに仲間の東洋大生が「傷物の鏡を売らせてくれるところがあるんだけど」とそっと教えてくれました。 さっそく紹介してもらうと、リュックいっぱい鏡を貸して頂けました。 輸出できない傷物で、ガラスは青いし、表面は凸凹、歪んで写ったりする鏡。 しかしそんな粗悪品しかない時代で、デパートにもそんな商品が高値で出ていました。

少しぐらい傷があってもデパートよりはるかに安いので良く売れました。 戦災に遭った人は鏡など持っていませんでしたから。

立川で仕入れたリュックいっぱいの鏡を背負って、台が無いから家の棚板をはずして持って行きます。 自由が丘などの駅前で、宝くじ売りのおばさんなどに荷物を見ていてもらい、交番に断りに行って、果物屋でりんご箱を 3 個貸してもらいます。 箱に棚板を渡して、模造紙にクレヨンで書いた看板を下げ、鏡を並べます。 その並べ方で、駅の事務所に反射して、「まぶしくて仕事が出来ないから向きを変えなさい」と叱られたりしました。

私には当面 4 千円貯める必要が有りました。 編み機を買って、習いに通って編み物で自立しようと思ったからです。

【繰り返した挫折】

鏡売りで儲けたお金で、初期の編み物機を買って、習いに通いました。 昭和 24 年春でした。 ごく初期の編み機で、「矢」と言う 60 センチぐらいの竹の棒を、シャーッシャーッと差し込んで編む、メリヤス編みしか出来ない機械です。 模様編みは、いちいち針から外して、そこだけ編み直すと言う厄介な機械でした。

鏡売りで作ったお金は、機械代と初級クラスの授業料だけでした。 上級クラスに進級できないので仕事を回してもらえませんでした。 何年も経たないうちに、そんな初期の編み機はガラクタになってしまいました。 高速編み物機の進歩は目覚しかったのです。

編み物の夢破れたとき、洋裁店のお針子になりました。 三十代の先生(独身の女性)が一人で経営している小さなお店で、お針子は 18 歳の私たち二人でした。 当時のスタイルは 4 枚接ぎのフレアースカートで、ウエストの細いワンピースを沢山縫いました。 既製服の無い時代で、お客さんは生地を買ってきて洋裁店に仕立を頼むのが普通だったのです。

昭和 25 年、朝鮮戦争が勃発しました。 戦争は共産軍に朝鮮半島をひとなめにされたと思ったら、国連軍も反撃しソウルは何度も占領されたり奪回したりを繰り返しました。 一説では住民を含めて 400 万人の犠牲者が出たという大変な戦争でした。 米軍の苦戦が伝えられ、在日米軍からも、どんどん兵隊が送られてゆきました。

洋裁店の前の大通りを、戦車が轟々と通って行きます。 トラックに乗った兵隊さんもどっさり朝鮮に向かいました。 先生も私たちも「かわいそうに」と同情していました。 米兵に手を振ったことなど無いけれど、朝鮮戦争に行かされる兵隊さんには、三人で手を振りました。 彼らも喜んで手を振ってくれましたが、悲しそうに見えたものです。

「生きて帰りなさいよー」と私たちは祈る気持ちでした。 洋裁店の先生は、ご主人か恋人を戦争で失ったのかもしれないなと思ったものでした。

洋裁の知識は何もなかった私が、このお店で少しだけ覚えたおかげで、後に型紙を買って自分や子供の服を作ることが出来ました。 女同士のおしゃべりも楽しかったけれど、お針子の給料では暮らしが立ちませんでした。 結局、お金が足りない悲しさで、26 年春には辞めました。
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by hisako-baaba | 2015-08-05 12:38 | 愚かな戦争 | Comments(0)

戦中戦後の子供の暮らし・・・④
戦中戦後の子供の暮らし ④・・・(大人になってからも挫折は色々ありましたが・・・)

【バスガールになって】

学歴のいらない仕事がありました。 路線バスの車掌です。 (ワンマンカーになる以前の話です。) 中学卒業 15 歳以上。 私は 19 歳になっていました。 でも受けてみました。 なかなか通知が来ないので、諦めて、三軒茶屋の市場で乾物屋の店員になりました。 昭和26年春のことです。

私が陳列すると、感じ良く見えるといわれ、一人で店中の陳列変えをしました。 立体的に、見やすく取り出しやすく ・・・、商売は大好きでした。 もしも、バスの採用通知が来なかったらば、あのあたりの商店のおかみさんになって張り切ったかもしれません。 でもバスのほうが給与が良く安定していたので、通知が来たとき、仮病で店を辞めました。

バスの初任給は、ハウスメイドの時の月給と同じでした。 (うろ覚えですが 4,000 円だったかと) でも会社が大きいから安全かなと思いました。 しかし、この私鉄の待遇は、同じ路線を乗り入れで走る都バスより、はるかに悪かったのです。

酷かったのは運転士の勤務状態でした。 今ならたちまち摘発されるような超過勤務だらけの過重労働でした。 先ず、隔週休日出勤が義務でした。 休日は各人何曜日と決まっており、車掌は毎週一日休めますが、運転手は隔週です。 二人で一台担当しているバスを毎週点検整備するのが運転手の仕事だったのです。

休日は月に 2 回 ・・・。 整備工場は併設されているのに、毎週の点検整備は運転手の責任でした。 それは、給料だけでは妻子を養えないので余分に働きたいという人たちの為でもあったようです。 労働組合は文句を言いませんでしたから。 でも、都バスの運転手さんには毎週休みがありました。 仕事は同じなのに待遇が違いすぎると思ったものです。

勤務は、4 時起きして電車で出勤、午後早くバスで帰宅できる日もあれば、早朝に3時間乗って、7 時間もの中休があって、その間にバスのガラス拭きと床掃除をして、夕方、又、3 時間乗務する、拘束時間が長くて辛い勤務の日も有りました。 午後に出て、夜 11時頃帰宅し、翌日は早番で、寝る暇がない勤務も有ったのです。

車掌は出庫の 30 分前までに制服に着替え、梯子でボンネットによじ登ってフロントガラスをセーム皮で拭き、バケツでラジエーターに水を入れます。冬は方々凍っているから大変でした。 切符とつり銭を受け取って、鞄をベルトに下げて、出庫です。

午後番は、出庫する場合と、途中の停留所で乗務員交代する場合が有りました。 帰りは車庫に戻るとお金と切符を照合します。 混雑が酷い時代でしたから、合わないことも度々有ります。 小額の場合は、会計さんがやりくりしてくれますが、大きくお金が不足すると、給料から差し引かれます。

私は一度千円札を掏られて、給料から引かれました。 とても痛い金額でした。 大混雑の中で、15 円とか 35 円とかのバス代に千円札を出す酷い客が居るのです。 確かにお札を受け取って、鞄に入れたのに、他の人の切符を切っているうちに千円札は消えていました。 会計さんにそう話したけれど、金額が大きすぎて、助けてくれませんでした。

ウチの会社の大半の運転手は、売り上げを気にかけて、遅れがちに走ります。 やりすぎると乗り切れないことになり、停留所で待っている人を断る事もしばしば。 「すみません満員です。 後車をご利用ください。」怒られますよね。 降りる人の居ない停留所は、待っている人を無視して通過します。

後から来る都バスは時間通りなので、こちらが混んだ分やや空いています。 沢山売り上げても手柄になるわけではないのに、わざと遅らす運転手は車掌に嫌われました。 都バスと交互乗り入れでない路線でも、全体的に本数が足りず、ラッシュの混みようは、ドアを閉められないほどでした。

私の入社した 26 年にはまだ座席が 13 の小さなバスが 1 台残っていました。 車掌台が無くドアも無いので(ステップは開きっぱなし)、お客を押し込んで、車掌がドアになります。 もう 1 - 2 台ドアなしの車が有りました。 ステップにへばりついてお客を護ります。 車掌の体が完全に車の外にはみ出していた事も有ります。

だんだん新しいディーゼル車に変わってゆきましたが、それでもバスはよく故障しました。 故障で一台抜けると大混雑になります。 記憶に残る酷い故障は、車軸が折れて、右に傾いた事です。 転倒は免れましたが、驚きました。 もう一つは、マフラーが外れて引きずった事。 凄い音がしました。 急ブレーキで子供が額を少し切ったことはありましたが、長く勤めたのに重大人身事故に遭わなかったのは幸せでした。

危機一髪だったのは、並木橋を左折して渋谷に向かおうとした際、左を歩いていたおばさんが、いきなり横っ飛びに右に飛び出して、自分からバスにぶつかってきた時です。 バスが新車で音が聞こえなかったのです。 ドアを開けて左を警戒していた私は瞬間悲鳴を上げ、ベテラン運転手さんは急停止。 おばさんは半分車掌台の床下にはまっていましたが、怪我は無く、「私が悪いのだから事故にしないでください」と、逃げていってしまいました。 運転手さんにはこの事態が全く見えていなかったそうです。

ワンマンバスだったら、確実に死亡事故です。 私はいまだにワンマンバスが危なく見えて仕方有りません。

一番不愉快だったのは臨検です。 抜き打ち的に車庫前で他の車掌と交代させられて下ろされ、女の係員たちに畳の部屋に連れて行かれて服を脱がされます。 お金を着服していないかという検査です。 確かにごまかす人も少数居たようですが、このやり方は人権侵害でした。 第一、運転手とグルならば、臨検で見つかるわけは有りません。 運転手に渡してしまえば解りませんから。

あるとき友達が臨検で、ポケットに 100 円玉一個見つかって首が飛びそうになりました。 彼女は処分が決まるまで自宅待機にされました。 (彼女は 7 人姉妹の長女、一家の稼ぎ手でした。) 混雑の中でポケットにコインを一個誤って落とし込む事は十分ありえます。 鞄の隣がポケットなのですから。 第一、7 年も真面目に勤続している車掌が、100 円盗んで何万円の退職金を棒に振る筈は有りません。

当時の所長では話にならなかったので、私は組合役員の運転手さんと二人で、本社に栄転した、話のわかる前所長を訪ねて、救済を頼みました。 その方は「I さんがそんなことする訳がない。 大丈夫任せなさい。」と言ってくれました。 おかげでクビは助かったものの、友達は他の営業所に飛ばされてしまいました。 今なら不当労働行為です。

夜遅く帰宅する道も結構危険でした。 駅から帰る途中で、二人の若い男に道をふさがれました。 避けようとしても、前を塞いで通さないつもりのようです。 例の、機銃掃射を聞いたあの道でしたから、お屋敷の塀ばかりで逃げ場はありません。

つぎの瞬間、私は突進しました。 二人にぶつかって行ったのです。 私の手提げに何か重いものが引っかかりました。 それは釘だらけの 1m あまりの角材でした。 彼らはびっくりして持っていた角材を手放したのです。 ぽかんと立ち尽くしている男どもに角材を放り投げて、わざと低い作り声で「気をつけなっ」といってさっさと帰ってきましたが ・・・。 後から、角材を持っていることを知らなかったから、突破できたんだなと思いました。

でももし、ぶつかって行かなかったとしても、私の声は甲高くて物凄く大きいから、「火事だーっ」と叫んで脅かす事も出来たし ・・・ と、全然恐がっていない私でした。

【バスガールの暮らしにあきたらず】

バスには 9 年あまり勤めました。 (退職時、厚生年金を脱退するよう言われた事が返す返すも残念です。 良く解らず一時金を貰って 9 年分を棒に振りました。) 仕事は一生懸命やりました。 良く通る大きな声で「オーライ」とやって、運転手にも合図がわかりやすいと喜ばれました。

指導車掌になり、新入社員を見習いにつけました。 毎日連れ歩いて、2 週間で一人前にしなければなりません。 良い見習いさん達に恵まれ、見習いを離れても、皆、木曜公休の仲間になるので、私は良くみんなを引き連れてハイキングに行ったり、新宿の歌声喫茶に行ったりしました。 みんなから「オネエサン」と呼ばれ、いまだに「オネエサン」と呼んでくれる人が居ます。

運転手さんの中に気の合うおじさんが二人居て、同じ月刊雑誌を三人で順番に買って回し読みして、読み終わると全部私にくれました。 その雑誌などからも民主主義にかぶれて、男女同権を主張し一部の運転手とけんかもしました。

休憩室を汚すのは男、休憩時間に掃除させられるのは女、「汚した人が掃除してほしい」と言って、女の癖に生意気だと怒られましたが、喧嘩相手の運転手とは、仕事中は文句つけられないように、特にきびきびやって見せました。 男尊女卑の甚だしい会社でしたから、セクハラ、パワハラ、猥談は毎日の事でした。

私は曲がった事が嫌いで営業所長に文句をつけて、言い分を通したりもしました。 所長の見間違いを指摘して、不当に叱られた運転手をかばったら、話のわかる所長から気に入られた事も有りました。 その方が、前の話で友達の首を助けてくれた、前所長なのです。 後年出世されたと聞きます。

色々充実してはいたのですが、車掌の仕事は長く続けておばさんになっても、他の職種に栄転なんてありえません。 努力し続けても、何も学ぶところが無いのです。 休みが木曜だけなので、学校にも入れません。 通信制でも到底無理でした。

学歴コンプレックスがあったので、何かで自分を確立しないと、いたたまれない思いがありました。 そこで 24 歳のとき大学生グループの仲間になってボランティアに熱中しました。 保護司さん(五十代の医師の奥様)を手伝って、恐喝暴行で特別少年院に行ってきた 19 歳の少年の姉役を引き受けたのです。 当時の非行少年は今と違います。 もっと純情。

海軍軍人だったお父さんの暴力、お母さんは離婚して出て行き、15 歳にならないうちから手がつけられなかったと言う少年ですが、木曜に遊びにおいでというと、朝から母と私の六畳一間の家に来て、炬燵代わりの猫アンカにかけた布団に寝そべって、一日中他愛ない事を喋り続けます。

母も私もそれぞれの家事や縫い物をしながら相槌を打つだけで、何も言いません。 家庭の雰囲気だけ与えたかったのです。 暴れん坊が、行き場をなくしていたうちはまだ安心でした。 でもそのうち「新宿の親分に体を売っちゃったから、もう俺にかまうな」と言い出しました。 保護司さんは、彼の言う事を真に受けて、もうあの子に近づいてはいけないと私を止めました。

でもそんなことで引き下がる私ではないので、彼が泊まっていたお母さんの職場へ押しかけました。 お母さんは都心の大通りに面した事務所に住み込みで、雑役婦をしていました。 夜なのにあいにくお母さんは留守、困ったけれど、会社の 2 階の応接間で彼と対峙しました。

私たちのおせっかいがわずらわしくなっていた少年は、やがて「窓からおっぽり出すぞ」と脅しました。 放り出されても、ここは 2 階だし ・・・ 私は「何をしようとあんたの勝手だけどね、心配するのはこっちの勝手だ。 文句言うな!」 一歩も引き下がらず、彼は根負けしたようでした。 数日後、新宿の親分の話はウソとわかりました。

そのうち彼にステキな恋人が出来ました。 彼女の力は絶大、私は安心してバトンタッチ、以後彼とは会いませんでした。 やがて彼は彼女と結婚して、親譲りのやんちゃな坊やが出来たと保護司さんから聞きました。

その後も、いろんな少年とかかわりましたが、ここまでかかわれた子はいませんでした。 大学生達も大勢ボランティアをしていましたが、私のようにとことんのめりこんで活動する人は居ませんでした。

バスの仕事はアルバイトで、非行少年の姉さん役が本業だと私は思っていたのです。 何とかして学校に行って、当時明治通り沿いにあった、「社会事業大学」に行こうと、まだ思っていました。 その後、グループのリーダーからひどい裏切りに遭いました。

少年とかかわった頃の日記を研修資料として提出してくれと委員長(慶応を出て保護観察官になっていました)からいわれ、絶対外部には出さない約束で、書いて渡しました。 彼はそれを外部に配ってまわったのです。 マスコミの取材申し込みにびっくりし、委員長に対して怒りをぶつけました。

すると彼は、「この運動を大きくするためには宣伝が必要だ」といって映画プロデューサーを私に紹介したのです。 私は「実際の資料を使うことは絶対に断る。 色々な人の体験談をまとめて、一つのストーリーに書くことは出来ます。」と言いました。

そこで、私は生涯にただ一度、小説を書きました。 委員長に渡すと、プロデューサーは私を田中澄江先生のお宅に連れて行きました。 脚本の依頼を聞くと田中先生は、冒頭部分に目を通して、私に質問し、「拝見します」と原稿を預かってくださいました。

ところがその頃、委員長は、別のルートで日活に私の元の資料を売り込んでいました。 先のプロデューサーが、怒りながら私に連絡してきました。 「委員長に先を越された。 日活で映画化が決まったそうだ。」私はぽかんとしました。 だって、そのプロデューサーを私に紹介したのは、他ならぬ委員長自身だったのだし、私が書き上げて、田中澄江先生のところまで行ったのを、知っていたくせに、よくもまあ他の映画会社に売り込みに行ったものだと呆れました。
そこで又、「私の資料を一行でも使ったら、承知しない」と委員長に怒鳴り込みました。

結果、作家が物語を書き、映画は、脚本、水木洋子。 出演、左幸子、小林旭、浅岡ルリ子で完成しました。 母親と二人暮しの、はとバスのガイド(左幸子)が、非行少年(小林旭)を担当して、追い掛け回すうち、少年と居酒屋で酒を飲み(ありえない)酔いつぶれて、少年にラブホテルへ担ぎ込まれる。(ますます ありえない)
左幸子の入浴シーンを撮りたいだけで、馬鹿なストーリーにしたものです。 何故か彼女が一人で入浴中に、少年はホテルを出て行く。 全くつじつまの合わないお話でした。 だからこの奇妙な映画は「私とは全く関係ない、当の少年が見ても心配ない」と割り切れたのです。 興行成績も悪く、ボランティアの宣伝になんかなりえませんでした。

私がグループを辞めた後で、女子大生の仲間達が、教えてくれました。 「委員長はね、『中谷さんは、自分の原作を映画に出来なかったので、カンカンに怒っているが、あんな力の無いプロデューサーでは、いつ映画化されるか分かったもんじゃない。 日活に持ち込んだからすぐ出来たんだ。』って言いふらしているのよ。」と。

又、私は二重にダメージを受けたわけです。 私は、コピーをとっていなかった私のたった一つの小説が、田中先生の書斎のゴミになったことを怒っているのではなかった。 エリートコースを生きている委員長の、度重なる裏切りが許せなかったのです。

20 年ぐらいたってから、目黒の保護司会から電話で「あの時の映画の題名はなんでしたっけ?」と訊かれました。 私は原作の本の題名は覚えていたけれど、映画の題名は完全に忘れていました。 それに、実際の私の活動は、保護司のおばちゃまとの連携でやってきたのに、映画には一切保護司さんは登場しなかったのです。

委員長は当時、慶応大学を卒業して、保護監察官になっていましたので、保護司さんの果たした役割は、保護監察官の仕事とされました。 彼はじき監察官を辞めて、民間の大企業に転職したそうですが。

ボランティアにだけ生き甲斐を求めていたのに、足元をすくわれ呆然となったとき、今度はすぐ点字図書館に行ってみました。 朗読には自信があったので、すぐさま朗読録音を始めて、以後、何十年も視覚障害者の方々とお付き合いが続いています。

朗読と平行して素人劇団にも入りました。 新宿の保育園を夜だけ借りて、週に一度稽古をしました。 外郎売のせりふが得意になったのはそのときです。 芝居の発表会もしました。 「こだま」という母と息子の物語で、私は老け役でしたが、一応主役。 以来あだ名は「おかあちゃん」に。 楽しいモノクロ写真が残っています。 みんな貧乏で、劇団はやがて解散してしまいました。

一方、自分の生活は片思いの失恋ばかり ・・・、まるっきりモテない娘でした。 勇ましすぎましたからね!

【またまた挫折】

二十代の終わり近くに、脱サラをしました。 有り金はたいて総菜屋を始めたのです。 てんぷらを習ってきて自分で揚げて。 無理して店を始めた理由は、初めて結婚しようという相手が登場したからです。

相手が貧乏な家の 7 人兄弟の長男で、沢山の問題を抱えている人だったので、共働きを覚悟し、バスの仕事では無理だからと、店を始めたのですが、何しろ地域で信用のある私だったので、、保護司さんや警察の少年課の人や土地の名士が店探しをしてくれたり、とんとん拍子でした。 それがいけなかった。 相手は私に劣等感を持ってしまって、開店にこぎつけたときには結婚話は消滅していました。

それでも一人ぼっちで始めた店で、冬の夜中に半分凍った鯵を、1 尾 40 秒で背開きにするのも大変だったし、夏は、てんぷら鍋の前で温度を測ったら 50℃。 しかもあまり健康に自信の無い私。 目的を失ってしまっては、気力がもちません。 一年で閉めて、またしても一文無し。

すぐに紹介してくれる人があって銀座の地下鉄ストアの鼈甲屋の店員になりました。 昭和 36 年の 11 月だったと思います。 鼈甲メガネを作っている腕の良い職人さんが出している、ケース三つだけの店でした。 店番は私一人。 興味のもてる商品でしたから鼈甲の事を研究して、喋って売ったら、前年同月の 3 倍売れました。 高価な品の売れ行きがすごかったので、2 ヶ月働いて、暮れのボーナスを特別に 5,000 円頂きました。 それでぎりぎり年が越せたわけです。

製造元なので、メガネの枠が売れると、たいそう儲かるのでした。 職人の店だから修理も引き受けました。 ネックレスの修理なら私にも出来ました。 鎖が外れただけなら、ペン先(当時有ったつけペンのペン先)を差し込んで開いてはめます。 鎖の輪が足りなくなっていれば、部品を加えてはめ直します。

3 分で直せるものでも、目の前ですぐはめてしまってはお金がもらえません。 「明日までに直しておきます」と預かります。 部品が足りなくなっている場合はその料金も貰います。 部品は、店にある壊れたネックレスから外して使うのですけれどね。 色と形を合わせて直すので、仕上がりは上々、新品になったと喜ばれたものです。

大鵬が優勝したとき、相撲部屋が店主の家の近くだったので、パレードを見に来るよう招かれたりもしました。 息子さんの日本舞踊のおさらい会にも招かれてご馳走になりました。 店を任されるのは楽しいことでした。

地下鉄ストアは天井の低い地下街で、となりは骨董屋。 他には洋裁店や、ストッキングの修理屋などが有りました。 当時貴重品だった絹のストッキング(ナイロンはまだ出回っていない時代)はとても弱くて、ちょっと引っかいても縦にツーーーッとほどけてしまいます。 そのほどけた部分を一列当たり 10 円で編み直す店があったのです。

当時地下鉄は銀座線(渋谷ー浅草)だけで、やがて丸の内線が出来、地下街は様変わりし始めました。 銀座 4 丁目交差点の真下にあった地下鉄ストアも店舗を全部移転させる事になったのでした。 地下通路を今見ても、何処がどうだったのかまるで分からなくなりました。

ストアが閉店する少し前、お客から保険会社にスカウトされました。 以後会社担当の保険屋のおばちゃんを、数年ずつ子育てをはさんで 2 回、通算 10 年ぐらいやりました。 いまだに四十数年前の保険のお客さん 2 家族と仲良しです。

【結婚したら、まわりにびっくりされて】

30 才過ぎて結婚し、35 歳で娘を初出産。 目黒の保護司さんたちは「あの娘が結婚して子育てするなんて考えられなかった」とびっくりして噂し合ったそうです。 バス時代の見習いさんたちも「びっくりした。 オネエサンが結婚するなんて考えられない。」というのです。

そこまで変人に見えたのかなあ ・・・? 何しろ、男に頼ろうなんて気持ちが全く無い娘でしたからね。 「君を頼りに私は生きる ・・・」という歌が大いっ嫌いでした。 ぞっとするほど嫌いだったのです。

長女は、私に輪をかけて自立心旺盛な子で、24 歳のとき自分の貯金だけ持ってスペインに渡って早 24年半。 今ではあちらで 10歳の男の子を育てながら、社長秘書をしています。
来年また、一家3人で来てくれるのが楽しみです。 

43 歳で生んだ息子も東京に住み、中学、小学、保育園の3人娘を、超お転婆に育てています。

私は七十歳の時、雑誌で通信制中学を見つけて入学しました。 一橋中学です。スクーリングを一日も休まず、皆勤賞を頂いて卒業しました。 七十代の中学生生活の楽しかったことといったら、本当に幸せでした。 連立方程式が解けた嬉しさは忘れません。

埼玉に引っ越したので高校進学は出来ませんでしたが、移住したこの町で昔語りの語り手になって楽しんでいます。 忙しい忙しいと、今までで一番幸せな時を過ごしている私です。 夫婦共年金は少なくて暮らし向きは厳しいのだけれど、まあでも楽しんでいます。終わりよければ総て良しと致しましょう。

長々お読みいただいて有難うございました。

∽…∽…∽ 完 ∽…∽…∽






ーーー
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by hisako-baaba | 2015-08-05 12:37 | 愚かな戦争 | Comments(8)

家を焼かれず誰も死なず それでも戦争は 我が家の生活を破壊した
「96歳の遺言 戦争だけはやっちゃダメ」電子絵本、朗読のYouTubeもこちらでご覧いただけます。

戦争未亡人、久米銈(くめけい)さんの生涯の叫びを、皆様で聴いて下さい。

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志村建世さまがブログで、小説「昭和からの遺言」を書いておられます。まだ途中なのでご紹介していませんが、昭和15年の記事には、私も思い出がどっさりあるので、頷きながら読んでいます。

紀元二千六百年・・・の歌は私も歌えますが、替え歌の方は知りませんでした。以下志村さんの記事。

金鵄(きんし)輝く日本の 栄えある光身に受けて
 今こそ祝えこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 ああ一億の 胸は鳴る
ところがこの歌にはすぐに次のような替え歌が出来て広く歌われた。
 金鵄あがって十五銭 栄えある光三十銭
 今こそあがるこの物価 紀元は二千六百年
 ああ一億の 金が減る

金鴉 も 光 もタバコの銘柄です。
昭和15年に値上がりして15銭(100銭が 1円)だったタバコ。

うちの父が昭和13年に突然死した時の遺産がいくらあったか知りませんが、母の一時払郵便年金にしたので、計算上は一生食べるに困らなかったはずなのです。

でも、戦争で物がなくなり、物価は上がる。
敗戦後はもっともっと物が不足で、全ての物の値段が急上昇。

タバコが15銭に値上がりするよりももっと前に、郵便局(国家)に預けてしまった財産の、価値の儚なさ。敗戦後間も無くして、父の遺産は消え失せたわけです。
国が預かっておきながら、何の保障も無しに「貨幣価値が変わって、わずかずつ支給しても仕方ないので」と、郵便局は昭和13年の計算でしょう、解約金をわずかに払って母の郵便年金は消滅しました。
国は、母の大金を預かって、一生保障する筈だったのに、何の保障もしなかった。

戦争ってそんなもの。国家ってそんなもの。国は国民を守らない。

昭和23年、変な菓子パン25円。港近くの闇市でサンマが1尾10円は安いので飛ぶように売れていました。それもまたすぐ値上がりしたのです。朝に夕に物価は上がるばかりでした。

十代の頃に資産が無くなって、学校に行けなかった恨めしさは、尾を引きました。

戦争だけはやっちゃダメなんですよ。

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昨日一日引きこもっていたら、今朝は爽やかに目覚めました。
さあ買い物に行ってきます。歩きで。







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by hisako-baaba | 2015-05-11 10:16 | 愚かな戦争 | Comments(4)

今 戦争を知り 考える 戦場体験・百人展
あるメールリングに田所さんと言う方から、転載歓迎のおしらせがありましたので貼り付けます。



久しぶりの投稿が宣伝で恐縮ですが、参院選に併せて下記展示会を企画しましたので
ご紹介させて頂きます。
毎日交代で体験者の方々が展示パネルの説明やミニ証言会にもあたって下さいます。
猛暑の中ですがよろしければお出でください。

(以後、転送・転載歓迎)

■■■■■■■■■■■■■■■
今、戦争を知り考える
戦場体験・百人展PARTⅡ
■■■■■■■■■■■■■■■

【日時】 7月12日(金)~15日(祝・月) 9時半~17時(初日は12時半から)

【場所】 浅草公会堂 1F展示ホール
      東京都台東区浅草1-38-6
      http://asakusa-koukaidou.net/home/access.html
【交通】 銀座線 浅草駅 1番・3番出口 徒歩5分
      都営浅草線 浅草駅 A4出口 徒歩7分
     東武鉄道 浅草駅 北口 徒歩5分
     つくばエクスプレス 浅草駅 A1出口 徒歩3分
【入場無料】
【主催】 戦場体験放映保存の会

【展示内容】
・証言パネル(15のテーマについて約百名)
・当時の写真、書類、新聞など
・当時の物品(飛行服、軍装各種、飯ごう、発信機、砲隊鏡など)
・体験者による記憶の絵画(シベリア抑留、フィリピン、ビルマ)

◆語らずに死ねるか◆
イベント開催期間中は、多くの元兵士が説明員として会場に立ち、展示物の説明にあたります。
また各日程で毎日会場でミニ証言会を行います。
 12日 13時半~黒田千代吉さん(中国)、15時半~今西久雄さん(ビルマ)
 13日 11時~藤原重人さん(中国)、13時半~関利雄さん(隼操縦士)、15時半~加藤正寿さん(シベリア抑留)
 14日 13時半~猪熊得郎さん(少年兵、シベリア抑留)、15時半~山崎つとむさん(旧満州)
 15日 13時半~安田誠さん(フィリピン)、15時半~中島裕さん(シベリア抑留)
 13日~15日には瀬戸山定さんによる発信機を使ったデモがあります


 あの大戦に動員された日本軍兵士789万人(敗戦時の動員数、なお当時の総人口約7200万)、
戦場での戦没者240万人(うち軍人軍属210万人)、帰国できたのは310万人。
さらにアジアの戦争犠牲者は1700万など諸説あります。
あの戦争は未曾有の総力戦であり、国民の全生活をもって戦った戦争でありました。

 召集令状がくればすぐさま職場を離れ、戦地に赴くことが当たり前だった戦時下の社会。
今自分が戦いに出なければと親を振り切って志願した少年兵。
人の尊厳を剥ぎ取る新兵教育への恨み、戦場の高揚と狂乱、絶望。
体験した人にしか分からないあの戦争の実態があります。

 だからこそ、あの時代を体験した一人ひとりの話を、
未来を生きる若い世代のために残しておかねばなりません。
遠く過ぎ去った悲惨な過去として切り捨てるのではなく、
あの時代を広く考えてもらうためにこの体験を知って欲しいと思います。

 折しも参議院選挙を迎えた今、
日本の敗戦から続いてきた従来の価値観が大きく揺らいでいます。
総力戦に敗れた後、日本人は何を乗り越えようとしてきたのか。
そしてこれからどこを目指すのか。
今の社会の原点であるあの戦争の時代を今一度振り返り、
未来に何を伝えていきたいのか、
一緒に考える機会にしたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
戦場体験放映保存の会
戦場体験史料館・電子版 http://www.jvvap.jp/
全国キャラバン・公認ブログ
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/

〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
FAX: 03-3916-2676
TEL: 03-3916-2664(開催期間中は留守電での対応となります)
E-mail senjyou@notnet.jp
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by hisako-baaba | 2013-07-10 15:10 | 愚かな戦争 | Comments(6)

日本空襲デジタルアーカイブ      狂人に刃物事件
なんだかすごいものを作っている、若いアメリカ人がいるらしい。

テレビで小耳にはさんで、探し回った。
英語のページから、やっと日本語のページを見つけたが、まだ良く見てはいません。日本空襲デジタルアーカイブ これからも、空襲体験者に取材したりして、どんどん作り上げて行くらしいです。

アメリカ人が、英語で全世界に発信しようとしているのがすごいと思います。
気にして読んでいこうと思っています。
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↑↓ 花の多いお家は、イルミも素敵。一軒のお宅のお庭。
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今日は、脚が酷く痛い。
午前中リハビリ。整形外科の送迎の順番は、前の日に早く乗れた人は遅くなります。だから今日は最後の便で帰りがお昼を過ぎたため、内科に寄れませんでした。

午後、ガス会社が巡回してきて、器具の点検をしてくれるまで待って、3時半から内科へ。行く前から脚が痛いので、きつい痛み止めを使って出掛けたのに、薬局の待ち時間にスーパーに行ったら歩けなくなって、ペットボトルのミルクティーを飲みながら店内で自前の椅子で休んだけれど(外のベンチは寒いから)回復せず、真っ暗になってしまって仕方なくびっこ引いて帰りました。

帰りが遅くなったおかげで、普段見られないイルミネーションが、見られました。

和食屋さんの駐車場のイルミ。
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又また、「気違いに刃物」的無差別傷害事件発生。またしても茨城県。この前は荒川沖、こんどは取手。
今回は死者が出ず、大半が軽傷で済んだのが、救いだった。
でも、なんでそんな変な人間が出来るのか?世間や時代のせいにしてほしくないなあ・・・
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動的防衛力???大丈夫かなあ。きな臭くならないかなあ。憲法9条の理想から、どんどん遠のく気がする
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暖まったら、膝痛も落ち着いたので早く寝ます。
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by hisako-baaba | 2010-12-17 21:14 | 愚かな戦争 | Comments(6)

神直子さんのラジオ出演・・・平和への架け橋BFP
今朝4時頃、久々に脚がつって、一人で大騒ぎして、落ち着いたところでNHKラジオ深夜便をつけたら、神直子さんの声が・・・「フィリピンと日本を結ぶ、ビデオメッセージプロジェクト」を始め、やがてNPO法人「ブリッジ フォー ピース」を立ち上げた10年の軌跡のお話でした。

2000年に大学のゼミでフィリピンに行って、日本人に深い恨みを持つ戦争被害者の方々から、話を聞いて強いショックを受け、和解の道を探ろうと、旧日本兵の方々を探し、ビデオメッセージを作ってフィリピンで見てもらい、日本兵も被害者だったのかという感想をもたれたりしました。その後フィリピンの被害者の話、日本兵の加害と被害の話、ビデオにして両国で上映を繰り返し、恨みを超えて理解を深めようと、がんばっている神直子さん。まだ30代前半の戦争を知らない若い世代です。

先月も、フィリピンに行っておられました。戦争中、住民の大虐殺があった教会を訪ねて居たとき、日本ではご主人が、旧日本兵の方から、その事件を目撃した話を取材しておられたと聞いています。

彼女の活動が、平和の架け橋として、ますます良い結果をもたらしますよう、祈ります。
NPO法人ブリッジ フォー ピース=「BFP」では,資金援助をする会員と、ちょこっと手伝う会員、全面的に参加する会員を求めています。

又、ビデオメッセージの上映会は、お招きがあればどこへでも出向くとのことで、講演も各地で行っています。
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8時のバスで、眼科に行くつもりが寝過ごして延期。3時間待ちの病院に行くのは大変です。

眼鏡が枠もレンズも同時にだめになりかけていて、手術を急ぎたくなりました。手術後は遠く用のレンズは要らなくなるでしょうから、今眼鏡を作るわけにいかないのです。
脚の手術は避けられそうなので、白内障手術の方を急ぎたいです。
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新しいテレビで、「試してガッテン」を毎週録画するよう予約しました。ちゃんと出来てました。

一緒に買った一番安いDVDプレーヤーで、「風と共に去りぬ」を見始めたところです。
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by hisako-baaba | 2010-12-07 09:32 | 愚かな戦争 | Comments(2)

平和への努力はどうあるべきなのでしょう
わだつみ会 集会のお知らせ。【転載】

1943(昭和18)年12月1日 ペンを捨て銃を担い戦場に赴くため、10万を超える学生たちが、大学から、兵営に入隊しました。
『学徒出陣』の日です。


わだつみ会 12・1 不戦の集い 2010年

     主催:日本戦没学生記念会 共催:わだつみのこえ記念館

 下記の要項で「不戦の集い」を開きます。
 フィリピンの戦争犠牲者と元日本兵の体験をビデオにおさめ、両国で 上映活動をしている若い世代からのメッセージです。
 知友お誘い合わせのうえ、ご参加くださいますようご案内いたします。

 ■と き 2010年12月1日(水) 午後6時30分〜8時45分(開場6時)
 ■ところ 中央大学駿河台記念館 670号室
       東京都千代田区神田駿河台3-11-5 
       電話03-3292-3111
    *JR:「御茶ノ水」聖橋口より徒歩3分
    *地下鉄:千代田線「新御茶ノ水」B1、B3 徒歩3分
    *丸ノ内線「お茶ノ水」6分 *都営新宿線「小川町」B5 5分

 参加費 一般 1000円
70歳以上 800円
学生    700円



 ■プログラム
  講演とビデオ上映 
   「過去と向き合う戦後世代――フィリピンと日本を映像で結ぶ」
      お話 神 直子(NPO法人ブリッジ・フォー・ピース代表) 

------------ 講 師 紹 介 -----------
神 直子(じん なおこ)氏 
1978年生まれ。2000年にフィリピンを訪問した際(雨宮剛現青山学院
大学名誉教授の主宰するスタディツアーに参加)、未だ戦争の傷が癒されないた
くさんの人々と出会い「戦争はまだ終わっていない」と実感。
2004年にNPO法人ブリッジ・フォー・ピース(平和への懸け橋)を立ち上げ、
現在、代表理事を務める。
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1950年に勃発した朝鮮戦争は、60年経ってもまだ終わっていないのですね。
今回の、休戦協定違反、民間人の住む島への砲撃は、これからどう展開していくのでしょう???
わざわざ民間人を巻き込んでの攻撃は、なにを考えてのことなのでしょう?わからな過ぎる国ですね。
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by hisako-baaba | 2010-11-24 22:45 | 愚かな戦争 | Comments(4)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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