カテゴリ:偽学生になってアルバイト( 8 )

「地球のステージ」の熱い熱いお医者さん

今朝、珍しく4時に目覚めて、NHKラジオ深夜便 こころの時代 を聴きました。再放送で、熱い熱いお医者さんが熱く熱く語って、歌っていました。
・・・地球の中の日本人 世界を知る、世界を伝える・・・海外と国内で活動を続ける医師、桑山紀彦先生。

そのホームページの中のブログを読み始めたところです。余暇の総てを「地球のステージ」と海外支援に駆け巡る、語り口の熱さに驚きました。
桑山先生のホームページはこちらです。
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by hisako-baaba | 2008-10-31 06:04 | 偽学生になってアルバイト | Comments(0)

ヤミ船の遭難・・・偽学生アルバイトの話・・・⑦
昭和13年秋、私が7歳のとき父が急死して、翌年2月、18歳の兄は中国にわたりました。
兄は特務機関員として特異な体験を重ねながら、21年夏帰還しました。この間の話は、『日中戦争の中の青春』に載せました。
中国に残留するつもりが果たせず、心ならずも離れ離れになった恋人と、文通ができたのは(当時国交がなく郵便は不通でした)兄が中国代表団に中国名前で運転手をしていたからですが、しかし国交回復の兆しもなく二人が会う手段もないまま、昭和23年別れを告げる手紙が届きました。ショックを受けたのでしょう、兄は安定していた住み込みの仕事を辞めました。
その後も家を離れたままでしたので、2~3年前に訊いて見ました。『私が偽学生アルバイトをしていた頃、兄さんは何をしていたの?』と。飛び出した話には仰天しました。闇屋の手伝いをして船で遭難したとのこと・・・
当時は価格統制があって、配給にまわる食品などは公定価格が決められていましたが、闇値はどんどん上がります。漁師さんは港に水揚げすると、公定価格で買い取られてしまいますが、沖でヤミ屋に横流しすれば高く売れます。だから沖にヤミ船が買い付けに行くのです。
兄達はいつものようにヤミ船で魚を買い付けたあと、エンジン故障で漂流。氷のない時代だから魚は全部腐ってしまい、千葉県の船橋から、横浜の三渓園辺りまで流されて座礁。船は大破。命からがら上陸したものの、ヤミ商売は駄目になったそうです。
兄の波乱万丈はまだ続いていたのでした。
ヤミは違反ですがヤミ商品が出回らないと、配給だけでは餓死者が出る状況でした。
ある判事さんが、自分は一切法律違反のヤミ物資は口にしないと言って、飢え死にしてしまいました。命をかけて法を守ったのはご立派でしたが・・・・・・
庶民は何とかして食料を手に入れて命を繋いでおりました。


  今日は寒い曇天でした
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           つわぶきがまだ咲いていました。

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           名残惜しい花たち
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by hisako-baaba | 2005-12-02 18:27 | 偽学生になってアルバイト | Comments(6)

プライドは身を助ける・・・偽学生アルバイトの話・・・⑥
ここ何年かのうちに、危険なマンションやホテルが沢山出来ちゃって、気付いた人があるからバレたんですよね。気付いても知らんぷりしてた人も多いのじゃないでしょうか???
自分の職業にプロ意識や誇りを持てない時代になっちゃったんでしょうか???
たとえ好きでない仕事をしていたって、自分自身に誇りを持つことは大事だと思います。
「天知る 地知る 己知る」と昔の人は戒めました。誰にもばれなくたって、自分の心にはばれてますものね。恥を重んじる日本人ならインチキは出来ないのになあ。『恥』がどっか欠落してしまいましたね。

私はよく他人から『14才から学校へも行けなくて、よくぐれませんでしたね』と言われました。
本人そんなこと思っても見なかった。プライドが高いと言うか高すぎて、”まっとう”に生きるのがごく普通のことでした。
7歳までの箱入り娘体験が幸いしているのかもしれません。父は54歳のときに思いがけず授かった一人娘を溺愛してくれました。私は一人では屋敷から一歩も出たことがないまま、友達もなしに入学のときを迎えたものだからもう大変でした。学校で母から離れられず暫く付き添ってもらうほど、幼稚園児より酷かった。
入学前にメンタルテストがあって、何も答えないので男の先生から『低脳(ていのう)ですな』と吐き捨てるように言われた。(昔の先生はそんな酷い言い方をしたのです。私はその言葉をずっと覚えていました)
知恵遅れのレッテルを貼られて入学。ところが文字の読み書きははじめから出来ていたので一年の終わりに努力賞を貰いました。努力じゃなく始めの評価が低かっただけなのに・・・

家にはねえや(お手伝いさん)のみよちゃんがいました。彼女は買い物先でよそのねえやさんたちと話すとき『ウチは奥と同じ食事をいただけるのよ』と自慢していました。ウチの両親は衣食に無頓着で食事はとても質素でしたから、差別しようがなかったのかもしれませんが、何によらず差別感のない家でした。みよちゃんはお嫁に行ってからも千葉から干した貝類をよく送ってくれました。

1年生の秋に父が急死して小さい家に移ってからも、母は『下品』なことを酷く嫌いました。貧しくても上品に暮らさなければいけないと言うことが私にも染み付いていました。語尾を濁すことも嫌いました。「発音ははっきりと、口の中でものを言う人は長生きしない」と言うのが母の口癖、お蔭で朗読が得意になりました。
猫背になったり伏目がちでいたりするのも嫌いでした。道端で物を売ってもなんら恥じる気持ちはなく、公然と顔を上げて商売をしたものです。

何をやっても精一杯やらなければ気がすまなかったのに・・・・・・年をとったら家事がいいかげんになって、散らかし始まると収拾がつきません。たまにあわてて片付けますが片付けきれず、ウチは今散らかっています。やれやれ・・・困った主婦です。

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夕べも撮ったミニシクラメン。昼間はこんなです。寒さに強い種類だそうです。
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by hisako-baaba | 2005-12-01 18:09 | 偽学生になってアルバイト | Comments(7)

映画『蜂の巣の子供達』・・・偽学生アルバイトの話・・・⑤
『下北半島の根っ子』さんのところでりんごの木箱を見てから、思い出がアンカにまで広がりました。もう少し続けようと思います。

新小岩駅南口前のヤミ市を通り抜けても、ふかし芋ぐらいしか買えなかった私ですが、下駄を一足よくよく吟味して買ったことがあります。少しでも長持ちしそうな赤い鼻緒の下駄を選びました。靴は破れても買い換えられないから、家では常に下駄履きでした。ゴムを打ちつけてへらない工夫をしたり、斜めに減ることの無いよう気を配って歩いたりしました。磨り減って歯がなくなるまで履いたものです。前緒が切れると、子供だってすげ替えることが出来ました。鼻緒全体が駄目になると私は自分で作りました。
当時麻の繊維が楽に手に入りました。軍隊のために増産を命じられた麻が大量に余ったのではないでしょうか。皮をはいで叩いて干しただけのような麻でした。それを両手と足と口まで使ってきつく撚り合わせて(縄をなうやり方で)丈夫な紐を作ります。余り布を縫って中に麻紐を通し綿を詰めて鼻緒の形を作ります。それをきつくすげて、はじめはきつくて履けないまま指先に突っかけて履きます。鼻緒がすっかりゆるみきると丁度良く履けるのです。近所の買い物も、道端で友達と遊ぶのも総て下駄履きでした。
新しいのを下ろすときはわくわくしました。何でも新しく手に入ったものは『宝物』 大切に大切に使った時代です。

新小岩には場末の映画館がありました。仲間にすっぽかされて仕事にならなかった日、思い切って見たかった映画を一人で見ました。
『蜂の巣の子供達』戦争孤児たちがたくましく集団生活を始める感動物語だったと思います。
何年ぶりかで見た映画は強く印象に残りました。30円で見たように思うのですが確かではありません。映画館はバラックで隙間から外の光が入ったような気がします。はっきりおぼえているのは椅子が只の縁台・・・背もたれもない木のベンチだったことです。上映中に停電がありました。毎日あることなので、真っ暗になっても誰もあわてません。ドアを開け放って待つうちにやがて電気は復旧、映画を終わりまで見られたのでみんな満足でした。

実際戦争孤児は街にあふれていました。父を戦地で失い、空襲で母やきょうだいをなくして、街をさまよう子供達。繁華街に屯して食べ物をかっぱらったり、すりをしたり物乞いを続けたり。靴磨きになれれば良い方で、磨かせる靴を履いているのはヤミ成金ぐらいなもの。
上野などの地下道で昼間眠って夜の街を徘徊する。時々警察のトラックが寝込みを襲って強制収容するけれど、施設の待遇は悪いし、食事も少ないので『同じお腹が減るのなら、自由な地下道のほうがいい』と皆逃げ戻ってしまうのでした。それでも昭和23年末ともなれば、寒かったこともあり、上野で浮浪児を見かけることはありませんでした。

ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』が大ヒットしたのは昭和何年のことだったでしょうか。戦争孤児たちが身を寄せ合う田舎の施設の感動物語でした。

大変だったけれど、なんか活気にあふれていて、面白い時代でもありました。
当時の子供は、今の子供には到底出来ないことをやってのけるヴァイタリティーがありました。
サバイバルに強いのは我々世代かもしれません。
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今年ももみじ狩りには行かれませんでしたが、買い物の往き帰りに緑道(川のあとの公園)で紅葉を楽しみました。ここの桜だけ赤くならず黄色いまま散ったのは、南側に13階建てを2棟建てているからでしょうか?あともう一棟14階建てが建つのです。(3棟とも自衛隊官舎です)
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楓とどうだんつつじはちゃんと赤く色づきました。

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今朝奥歯を抜きました。歯医者さんはかなりてこずってご苦労されたようでしたが、隣に寝ている親知らずを起こすことなく無事抜いてくださいました。
横向きに骨の中に納まっている親知らずが万一顔を出して虫歯になったらおおごとなのですが・・・多分このまま一生眠り続けてくれそうです。ほっとしました。感謝感謝。
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by hisako-baaba | 2005-11-29 17:16 | 偽学生になってアルバイト | Comments(7)

ネコあんかと豆炭アンカ・・・偽学生アルバイトの話・・・④
Komakoさんから豆炭アンカの話が出たとき、急には思い出せなかったけれど、そういえばウチにもありました。そこに懐かしさはないので記憶はあいまいですが、ゴムの湯たんぽが駄目になったあとで使ったように思います。当時の発明品だったかも。
(ゴムの湯たんぽは今も欧米では使われているようで、氷枕と兼用に使えます。日本の氷枕は止め金で口を挟みますが、欧米の湯たんぽ兼用の物はしっかりしたネジ栓が付いています)

豆炭アンカこんな形じゃあなかったでしょうか?
赤っぽいオレンジ色の金属で、表面に小さい穴が並んでいて、パカッと開くと内側は銀色の穴の多い金属板の中に石綿がぎっしり詰まっていて真ん中に豆炭を置く穴がある。
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ネコアンカはsohlaさんに教えられて写真を見たら、昨日の私の絵とはちょっと違っていましたね。
懐かしい思い出が丸っこく可愛い絵を描かせたようで、そういえばもっと角ばっていました。
ネコ行火は本来一人用の暖房器で、向き合ったまるい穴に手を掛けて持ち運ぶようになっていました。部屋を移動するときに簡単に持ち運びできて、炭は少しで効率よく温まる昔からの便利グッズだったのです。
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by hisako-baaba | 2005-11-28 11:08 | 偽学生になってアルバイト | Comments(4)

敗戦後の暮らし・・・偽学生アルバイトの話・・・③
街頭で物売りをしたなんて言うと、よっぽど大変だったように思われますが、実はそうでもないのです。当時は誰がどんなことをしようと、まあ普通のことでしたから・・・

空襲で焼かれた人はもっと大変でした。何もないのですからね。
やけトタン(焼け跡に落ちている焦げたトタン板や波板)を防空壕に被せて、中に雨水が入らないように周囲に堀を作ったりして縦穴住居のように住んだり、甲斐性のある男がいれば、材料を拾い集めて小屋を建てる。水道は意外なほど残っていて、鍋や洗面器は鉄兜(ヘルメット)で間に合うけれど、焼け跡で茶碗や皿を探しても使えるものは少なかったでしょう。

その点我が家は焼けなかったので狭くて不便でもちゃんと布団で眠れました。布団の手入れが出来ないので、木綿綿はがちがちのせんべいになるし、側も破れてしまいがちですが、一人一組の布団があったら文句は言えない時代でした。

母はお金持ちだった頃も着る物に贅沢を言わない人だったので、竹の子生活(衣類を一枚づつ田舎へ持って行って米と替えてもらう)が全く出来なかったけれども、自分たちの服は、破れた2着を裁断しなおして1着に仕立て上げる才能を母子とも持っていました。大正時代の足踏みミシンがありましたから、つぎはぎでも格好つけて着ていました。

夜、家に帰れば火鉢にお湯がかかっていたり、火鉢の炭がなければ七輪で何か燃やして雑炊を温めたり、母が温かいものを食べられるようにしてくれました。
第一、行火(あんか)にあたる事が出来ました。あんかはコタツの代用にしていたものです。コタツのやぐらが壊れてしまったので小さい行火に豆炭(炭の粉やコークスの粉を固めた小さい燃料)を1個入れて布団を被せて温まりました。
二人ならこれで十分でしたが、上に丸みがあるのでコタツのように食卓には出来ません。ちゃぶ台は横に置いていました。
若い方は行火なんて見たことがないでしょうから絵で説明します。本当は真っ黒い土の焼き物なのですが、黒く塗っては何も説明できないので、白いけれど黒だと想像してください・・・
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丸みのある四角で、高さは33センチくらいでしょうか?幅は36~7センチかなあ。
四方の側面の一方に火入れ(小さい火鉢)を出し入れする大きい穴があって、三方にはまるい穴が開いています。
火入れの灰の中に赤々とおこした豆炭を埋めます。半日はもったと思います。
布団をかければコタツ同様温まれます。足は入れられませんが。
湯たんぽも使いました。ウチにはブリキのと、アメリカ製のゴムのがあって、一晩中足を暖め、朝はそのお湯で顔を洗いました。

暖かく寝ることの出来る家があり、ぼろでも着るものが足りたら、当時としては恵まれたほうです。
但し食糧がまともに配給されなかった戦後は、闇市で食料調達が出来ないときは大変でした。
米の配給通帳があって、米ではなく小麦粉をとった残りカスのふすまや大豆油の絞りかすまで米の代用食として通帳に記載されてしまうのです。食べられませんよ麦の皮なんて!呆れたのはアメリカの援助物資として届いた砂糖(赤ザラメで虫がわいていました)をカロリー計算で米の代わりに配給したのですよ。カロリーは同じでも砂糖をなめてご飯の代わりにはならないのに・・・仕方がないからみんなカルメ焼きを作っておやつにしました。道端の草は全部雑炊に入れたし、屋根に這わせたかぼちゃは立派なご飯の代わり、その葉も茎も蕗のつもりで食べました。屋根に一貫三百メ(5キロ)ほどの栗かぼちゃが何個も出来た代わりに、私が屋根の上を歩き回った為瓦がゆるんでしまい雨漏りを直すのが大変でした。まあそんな暮らしでも良い方でしたよ。闇成金の大金持ちを除いたらの話ですが・・・
はしっこい連中は闇でしこたま儲けられた時代です。危険な商売も多かった。進駐軍のPX(売店)で買ったバターやチーズやチョコレートなどをGI(米兵)が闇屋に横流ししたり、それを金持ちが喜んで買ったり・・・闇ならどんな物でも買えたらしいけれど、私たちには縁のない世界でした。

娼婦はアメリカの将校を狙い、仲良くなれると『オンリーさん』と呼ばれました。つまり囲われもののお妾さん。米兵と恋仲になって結婚した人も多かったけれど、除隊になってアメリカについて行ってみたら、向こうの暮らしが厳しすぎて、貧乏に耐えられず逃げ帰る人も居ました。兵隊だから食べていけたけれど除隊したら只の失業者だったという例がかなりあったようです。

厳しい時代が敗戦後5年間続いて、昭和25年に朝鮮戦争が勃発したことで、経済発展に繋がって行ったのは皮肉なことでした。
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by hisako-baaba | 2005-11-27 17:33 | 偽学生になってアルバイト | Comments(5)

街娼の屯する上野の夜・・・偽学生アルバイトの話・・・②
りんご箱の上で鏡を売った話より少し前のことです。
学生連盟の事務所はとんでもなく不便な場所にありました。
新小岩から、なかなか来ないバスで20分ほど、バス通りの傍に蓮田が点在する場末の町。

蓮田(レンコン畑)にバキュームカーが新しい糞尿を流し込んでいるのを見て驚いたことがあります。
蓮田の主は知っているのだろうかと・・・当時のトイレは汲み取り式ぼっちゃん便所。ヴァキュームカーが各家庭をまわって汲むのです。肥料にするなら肥溜めで熟成させなければなりません
汲みたてでは黴菌も寄生虫卵も活きたままです。それを蓮田にどっさり入れていました。
あそこの蓮根(レンコン)はいつ収穫するのやら?なんとも汚い話でした。

まあそんな町の寂びれた商店街に事務所はありました。折りたたみの台だけは新小岩に預けてありましたが、仕入れと清算にはいちいち顔を出さなければなりませんでした。
(その町を2~3年前に通ってみたら、道幅は5倍ぐらいに広がり、地下鉄の駅まであって、ビルが林立、昔の面影は何一つ残っていませんでした)

当時のバスは7時半ごろに終わってしまったように思います。バスが無くなると小さい都電で小松川橋の手前まで行き、橋を歩いて渡って、また都電で錦糸町に出ます。あとは国鉄で新宿乗換え渋谷に出て今度は私鉄で上目黒に帰るのです。電車はどれも本数が少なく夜まで満員でした。
長い長い小松川橋を夜に歩いて渡る人はほとんどありません。冬の川風は容赦なく吹き付けます。
それでもみんなで歌を歌ったりしゃべったりしながら歩くのがなんか楽しくて、わざと最終バスに乗り遅れたりしました。
(小松川橋は、幹線の京葉道路が荒川放水路と中川放水路をまたぐ大きな橋です。今ではすぐ脇に新小松川橋が並んでかかっています。今はそれほど交通量が多いのです。)

ノートと飴を売りに行ったのは船橋や千葉など。国鉄より京成の駅前の方が売れました。
秋刀魚が大漁だと船橋の闇市に流れます。一匹10円。見つけると急いで2匹買います。冬だから夜まで腐りません。隣組単位の配給にはなかなかまわってこない貴重な蛋白源でした。

道路の舗装は空襲で壊れたまま、でこぼこでした。一度、台をひっくり返して水溜りにノートをぶちまけたことがあります。もともと汚い色のノートなので少しの水濡れなら乾かして売れましたが、
汚れたものは卸値で自分が買うしかありません。そんなノートに書いた日記が今も沢山残っています。ボールペンなんて存在しませんから、壊れた万年筆をインクビンにひたしては書いたり、ガラスペンを大事に使ったり、鳥の羽の軸を斜めに切ってペンにしたり・・・ブルーブラックのインクの文字は今もちゃんと読めます。

事務所の場所が不便すぎるので連盟に通ってくる学生は12~3人でした。女の子はほかに二人だけ。一人では何にも出来ない人と、口は達者だけどちゃらんぽらんで男にしか興味のなさそうな先輩。見習い当時彼女がいつ何処に売りに行きましょうというので待って居れば、連絡もなくすっぽかしてくれます。平気ですっぽかされることが続き、彼女とは約束しないで一人で行動することにしました。男子の見習いについたこともありますが、収入を半分わけしては商売にならないから遠慮しました。
当時の大学生達はとても言葉が綺麗でした。男子もきちんと敬語を使って居ました。仲間内でふざけることはあっても、汚い言葉は聞きませんでした。

売れない日は長居をしても駄目なので早々に引き上げます。
或る日6時頃新小岩に戻ったら、一番良く売り上げる青年が『今日は駄目だった』と戻ってきました。
『夜に売れる場所があるんですが、これから行きませんか』と彼、
上野は浮浪者があふれ街娼がたむろし、やくざが仕切っている恐いところと思って、敗戦後行ったことがなかったけれど、好奇心が湧きました。
西郷さんの山から大きい階段を下りた反対側正面の歩道で、みかん売りのおじさんと並んで店を出しました。
商品を揃えると彼は『君一人のほうが売れますから』といって古本屋に立ち読みに行ってしまいました。
確かにそうでした。私の顔と体はアンバランスで、栄養失調でも頬はこけないし目はくぼまない。丸ぽちゃの童顔で身長147.5センチ、体重39キロ。17歳なのに15歳ぐらいにしか見えない。女性の魅力なんて縁がないから、酔っ払いにからかわれることもない。みかん売りのおじさんからみかんを何個も貰っちゃうし、ノートも飴も次々売れる。町の様子を見るのも面白い。

当時パンパンとよばれた街娼のお姉さん達は濃い化粧でフレヤーのロングスカートの裾を寒そうに押さえている。あの頃は、親を失って弟妹を守らなければならない人は、身を売るしか手段のない時代だったから、彼女達を軽蔑する気持ちは微塵もありませんでした。

9時半近く相棒は戻ってきて『やっぱり売れましたね。さすがー』といって計算を始めました。
そのときそっと私をつついて『あれ、おかまですよ』と教えました。そこには和服姿の綺麗なお姉さんしか居ないのでびっくり!?初めて見たおかまさんがいったい何なのかまるで見当もつかないままぽかんと見ていました。
相棒は計算した儲けの半分を私に渡し、『手ぶらで帰っていいですよ僕が全部清算してきますから』と二人の売れ残り全部と、台を担いで帰ってしまいました。お蔭で私は手ぶらで楽に帰宅し遅い夕飯(たぶん雑炊)にありつくことができました。

その後、鏡を売ることにならなかったら、私は夜毎上野で商売をしたでしょう。やくざに『しょば代』(不当な場所代)を請求されることもなく、意外に平穏な京成上野駅前でした。
(日暮里に昼間行ったら、売れない上に、やくざのチンピラに『しょば代』を巻き上げられて一度でこりごりしました)

鏡は男子二人と私だけで売りました。ほかの人は(上野の彼も)誘わなかったようです。
りんご箱を借りて台にしたのは私だけ。地べたに商品を並べる気はなかったので、たまたま目に付いた果物屋さんに頼んだわけです。なんでも工夫してしまう一風変わった女の子でした。


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                今日は息子一家が来てくれました。
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by hisako-baaba | 2005-11-26 18:56 | 偽学生になってアルバイト | Comments(5)

りんご箱の想い出・・・偽学生アルバイトの話・・・①
komakoさんのところから、reevさんのところに飛んでみたら、木のりんご箱が写っていました。
懐かしいー何十年見なかったでしょう木のりんご箱。
急に57年前の想い出がよみがえりました。

昭和20年(14歳)から、26年まで私は職が安定しませんでした。女学校(今の中学)2年中退では採用されないのです。

一方当時の学生達もアルバイトの職に就くことは困難でした。学生達は各地でそれぞれ連盟を作って、道端でノートなどを売るのが普通の仕事で、授業にいつ出るのか不思議なくらいでした。
そこで私は学生でもないくせにそこにもぐりこんで、駅前などでノートと飴玉を売りました。
折りたたみの台は連盟で借ります。商品をリュック一杯背負って、台を抱えて電車で何処かの駅に行きます。商売仇とぶつからなければ、交番に断って店を出し、メガホンで叫んで売ります。(ウチにあったメガホン使ったのは私だけだったかも)
当時物凄く質の悪い再生紙でベージュにグレーを混ぜたような紙のノートが、10円から50円でした。よほど売らないと交通費も出ません。

全然儲からないので仲間の学生が別の商品を紹介してくれました。彼の知り合いの貿易商が、輸出できない傷物の鏡を沢山持っているというので、立川まで借りに行ったのです。
鏡をリュック一杯借りて帰り、翌朝家の棚板をはずして抱えると自由が丘の駅に行きました。
宝くじ売りのおばさんに荷物を預け、遠くの交番に断ってきて、ロータリーの向かいの果物屋に『今日一日りんご箱3個貸してください』と頼んで、3箱かついで来て棚板を載せます。家で書いて来た広告の紙をぶら下げて店を出すのです。宣伝文句を3色のクレヨンで書くのは得意でした。
物のない時代で、鏡は傷が有っても良く売れました。一番の売れ筋だった大きい鏡は少ししか仕入れられないのです。それを田舎のおばちゃんたちに値切り倒されて根こそぎさらっていかれたときはせつなかった。
それでもノート売りの3倍は儲かりました。

ある日の午後、駅員さんがすっ飛んできました『まぶしくって事務が出来ないから鏡の向きを変えなさい』と。太陽が反射して、駅の事務室に当たっていたのです。
色々なことがあっても3日おきくらいに、清算と仕入れに行くことが出来ました。
そんな日は仲間たちと渋谷で映画を見たりしました。
私が一番多く売り上げていたようです。何しろ声がでかいものですから。

次の仕事に進むまで、駅前で一人で叫ぶ日が続きました。
何処の駅前にも果物屋さんがあって、学生連盟と言えば快くりんご箱を貸してくれたものです。
昭和23年11月から翌年1月にかけての妙に楽しい思い出です。
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by hisako-baaba | 2005-11-24 15:29 | 偽学生になってアルバイト | Comments(7)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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