<   2005年 11月 ( 28 )   > この月の画像一覧

今日は 昔話をおやすみします
相撲は解りませんが、今日琴欧州が大関になりましたね。可愛い人ですね。この前テレビにご両親が出ていました。さぞ喜んでおられるでしょう。ブルガリアの人が日本をもっと知ってくれるようになるといいですね。私たちももっと彼の故郷を知りたいとおもいます。ヨーグルトだけじゃなく。

一人横綱もずば抜けて強いし、上位全部外人になっちゃいそうな勢いですね。何処の人でもいいけれど、ハングリー精神が日本から完全に失われたら相撲は国技ではなくなるんじゃないかしら。

今日は忙しくて二度外出し、途中ですこしだけ写真を撮りました。
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 真昼の太陽に透かしたもみじ

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   夜帰宅して暗くて見えない庭のミニシクラメンをあてずっぽうで撮りました。
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by hisako-baaba | 2005-11-30 17:20 | Comments(3)

映画『蜂の巣の子供達』・・・偽学生アルバイトの話・・・⑤
『下北半島の根っ子』さんのところでりんごの木箱を見てから、思い出がアンカにまで広がりました。もう少し続けようと思います。

新小岩駅南口前のヤミ市を通り抜けても、ふかし芋ぐらいしか買えなかった私ですが、下駄を一足よくよく吟味して買ったことがあります。少しでも長持ちしそうな赤い鼻緒の下駄を選びました。靴は破れても買い換えられないから、家では常に下駄履きでした。ゴムを打ちつけてへらない工夫をしたり、斜めに減ることの無いよう気を配って歩いたりしました。磨り減って歯がなくなるまで履いたものです。前緒が切れると、子供だってすげ替えることが出来ました。鼻緒全体が駄目になると私は自分で作りました。
当時麻の繊維が楽に手に入りました。軍隊のために増産を命じられた麻が大量に余ったのではないでしょうか。皮をはいで叩いて干しただけのような麻でした。それを両手と足と口まで使ってきつく撚り合わせて(縄をなうやり方で)丈夫な紐を作ります。余り布を縫って中に麻紐を通し綿を詰めて鼻緒の形を作ります。それをきつくすげて、はじめはきつくて履けないまま指先に突っかけて履きます。鼻緒がすっかりゆるみきると丁度良く履けるのです。近所の買い物も、道端で友達と遊ぶのも総て下駄履きでした。
新しいのを下ろすときはわくわくしました。何でも新しく手に入ったものは『宝物』 大切に大切に使った時代です。

新小岩には場末の映画館がありました。仲間にすっぽかされて仕事にならなかった日、思い切って見たかった映画を一人で見ました。
『蜂の巣の子供達』戦争孤児たちがたくましく集団生活を始める感動物語だったと思います。
何年ぶりかで見た映画は強く印象に残りました。30円で見たように思うのですが確かではありません。映画館はバラックで隙間から外の光が入ったような気がします。はっきりおぼえているのは椅子が只の縁台・・・背もたれもない木のベンチだったことです。上映中に停電がありました。毎日あることなので、真っ暗になっても誰もあわてません。ドアを開け放って待つうちにやがて電気は復旧、映画を終わりまで見られたのでみんな満足でした。

実際戦争孤児は街にあふれていました。父を戦地で失い、空襲で母やきょうだいをなくして、街をさまよう子供達。繁華街に屯して食べ物をかっぱらったり、すりをしたり物乞いを続けたり。靴磨きになれれば良い方で、磨かせる靴を履いているのはヤミ成金ぐらいなもの。
上野などの地下道で昼間眠って夜の街を徘徊する。時々警察のトラックが寝込みを襲って強制収容するけれど、施設の待遇は悪いし、食事も少ないので『同じお腹が減るのなら、自由な地下道のほうがいい』と皆逃げ戻ってしまうのでした。それでも昭和23年末ともなれば、寒かったこともあり、上野で浮浪児を見かけることはありませんでした。

ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』が大ヒットしたのは昭和何年のことだったでしょうか。戦争孤児たちが身を寄せ合う田舎の施設の感動物語でした。

大変だったけれど、なんか活気にあふれていて、面白い時代でもありました。
当時の子供は、今の子供には到底出来ないことをやってのけるヴァイタリティーがありました。
サバイバルに強いのは我々世代かもしれません。
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今年ももみじ狩りには行かれませんでしたが、買い物の往き帰りに緑道(川のあとの公園)で紅葉を楽しみました。ここの桜だけ赤くならず黄色いまま散ったのは、南側に13階建てを2棟建てているからでしょうか?あともう一棟14階建てが建つのです。(3棟とも自衛隊官舎です)
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楓とどうだんつつじはちゃんと赤く色づきました。

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今朝奥歯を抜きました。歯医者さんはかなりてこずってご苦労されたようでしたが、隣に寝ている親知らずを起こすことなく無事抜いてくださいました。
横向きに骨の中に納まっている親知らずが万一顔を出して虫歯になったらおおごとなのですが・・・多分このまま一生眠り続けてくれそうです。ほっとしました。感謝感謝。
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by hisako-baaba | 2005-11-29 17:16 | 偽学生になってアルバイト | Comments(7)

ネコあんかと豆炭アンカ・・・偽学生アルバイトの話・・・④
Komakoさんから豆炭アンカの話が出たとき、急には思い出せなかったけれど、そういえばウチにもありました。そこに懐かしさはないので記憶はあいまいですが、ゴムの湯たんぽが駄目になったあとで使ったように思います。当時の発明品だったかも。
(ゴムの湯たんぽは今も欧米では使われているようで、氷枕と兼用に使えます。日本の氷枕は止め金で口を挟みますが、欧米の湯たんぽ兼用の物はしっかりしたネジ栓が付いています)

豆炭アンカこんな形じゃあなかったでしょうか?
赤っぽいオレンジ色の金属で、表面に小さい穴が並んでいて、パカッと開くと内側は銀色の穴の多い金属板の中に石綿がぎっしり詰まっていて真ん中に豆炭を置く穴がある。
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ネコアンカはsohlaさんに教えられて写真を見たら、昨日の私の絵とはちょっと違っていましたね。
懐かしい思い出が丸っこく可愛い絵を描かせたようで、そういえばもっと角ばっていました。
ネコ行火は本来一人用の暖房器で、向き合ったまるい穴に手を掛けて持ち運ぶようになっていました。部屋を移動するときに簡単に持ち運びできて、炭は少しで効率よく温まる昔からの便利グッズだったのです。
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by hisako-baaba | 2005-11-28 11:08 | 偽学生になってアルバイト | Comments(4)

敗戦後の暮らし・・・偽学生アルバイトの話・・・③
街頭で物売りをしたなんて言うと、よっぽど大変だったように思われますが、実はそうでもないのです。当時は誰がどんなことをしようと、まあ普通のことでしたから・・・

空襲で焼かれた人はもっと大変でした。何もないのですからね。
やけトタン(焼け跡に落ちている焦げたトタン板や波板)を防空壕に被せて、中に雨水が入らないように周囲に堀を作ったりして縦穴住居のように住んだり、甲斐性のある男がいれば、材料を拾い集めて小屋を建てる。水道は意外なほど残っていて、鍋や洗面器は鉄兜(ヘルメット)で間に合うけれど、焼け跡で茶碗や皿を探しても使えるものは少なかったでしょう。

その点我が家は焼けなかったので狭くて不便でもちゃんと布団で眠れました。布団の手入れが出来ないので、木綿綿はがちがちのせんべいになるし、側も破れてしまいがちですが、一人一組の布団があったら文句は言えない時代でした。

母はお金持ちだった頃も着る物に贅沢を言わない人だったので、竹の子生活(衣類を一枚づつ田舎へ持って行って米と替えてもらう)が全く出来なかったけれども、自分たちの服は、破れた2着を裁断しなおして1着に仕立て上げる才能を母子とも持っていました。大正時代の足踏みミシンがありましたから、つぎはぎでも格好つけて着ていました。

夜、家に帰れば火鉢にお湯がかかっていたり、火鉢の炭がなければ七輪で何か燃やして雑炊を温めたり、母が温かいものを食べられるようにしてくれました。
第一、行火(あんか)にあたる事が出来ました。あんかはコタツの代用にしていたものです。コタツのやぐらが壊れてしまったので小さい行火に豆炭(炭の粉やコークスの粉を固めた小さい燃料)を1個入れて布団を被せて温まりました。
二人ならこれで十分でしたが、上に丸みがあるのでコタツのように食卓には出来ません。ちゃぶ台は横に置いていました。
若い方は行火なんて見たことがないでしょうから絵で説明します。本当は真っ黒い土の焼き物なのですが、黒く塗っては何も説明できないので、白いけれど黒だと想像してください・・・
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丸みのある四角で、高さは33センチくらいでしょうか?幅は36~7センチかなあ。
四方の側面の一方に火入れ(小さい火鉢)を出し入れする大きい穴があって、三方にはまるい穴が開いています。
火入れの灰の中に赤々とおこした豆炭を埋めます。半日はもったと思います。
布団をかければコタツ同様温まれます。足は入れられませんが。
湯たんぽも使いました。ウチにはブリキのと、アメリカ製のゴムのがあって、一晩中足を暖め、朝はそのお湯で顔を洗いました。

暖かく寝ることの出来る家があり、ぼろでも着るものが足りたら、当時としては恵まれたほうです。
但し食糧がまともに配給されなかった戦後は、闇市で食料調達が出来ないときは大変でした。
米の配給通帳があって、米ではなく小麦粉をとった残りカスのふすまや大豆油の絞りかすまで米の代用食として通帳に記載されてしまうのです。食べられませんよ麦の皮なんて!呆れたのはアメリカの援助物資として届いた砂糖(赤ザラメで虫がわいていました)をカロリー計算で米の代わりに配給したのですよ。カロリーは同じでも砂糖をなめてご飯の代わりにはならないのに・・・仕方がないからみんなカルメ焼きを作っておやつにしました。道端の草は全部雑炊に入れたし、屋根に這わせたかぼちゃは立派なご飯の代わり、その葉も茎も蕗のつもりで食べました。屋根に一貫三百メ(5キロ)ほどの栗かぼちゃが何個も出来た代わりに、私が屋根の上を歩き回った為瓦がゆるんでしまい雨漏りを直すのが大変でした。まあそんな暮らしでも良い方でしたよ。闇成金の大金持ちを除いたらの話ですが・・・
はしっこい連中は闇でしこたま儲けられた時代です。危険な商売も多かった。進駐軍のPX(売店)で買ったバターやチーズやチョコレートなどをGI(米兵)が闇屋に横流ししたり、それを金持ちが喜んで買ったり・・・闇ならどんな物でも買えたらしいけれど、私たちには縁のない世界でした。

娼婦はアメリカの将校を狙い、仲良くなれると『オンリーさん』と呼ばれました。つまり囲われもののお妾さん。米兵と恋仲になって結婚した人も多かったけれど、除隊になってアメリカについて行ってみたら、向こうの暮らしが厳しすぎて、貧乏に耐えられず逃げ帰る人も居ました。兵隊だから食べていけたけれど除隊したら只の失業者だったという例がかなりあったようです。

厳しい時代が敗戦後5年間続いて、昭和25年に朝鮮戦争が勃発したことで、経済発展に繋がって行ったのは皮肉なことでした。
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by hisako-baaba | 2005-11-27 17:33 | 偽学生になってアルバイト | Comments(5)

街娼の屯する上野の夜・・・偽学生アルバイトの話・・・②
りんご箱の上で鏡を売った話より少し前のことです。
学生連盟の事務所はとんでもなく不便な場所にありました。
新小岩から、なかなか来ないバスで20分ほど、バス通りの傍に蓮田が点在する場末の町。

蓮田(レンコン畑)にバキュームカーが新しい糞尿を流し込んでいるのを見て驚いたことがあります。
蓮田の主は知っているのだろうかと・・・当時のトイレは汲み取り式ぼっちゃん便所。ヴァキュームカーが各家庭をまわって汲むのです。肥料にするなら肥溜めで熟成させなければなりません
汲みたてでは黴菌も寄生虫卵も活きたままです。それを蓮田にどっさり入れていました。
あそこの蓮根(レンコン)はいつ収穫するのやら?なんとも汚い話でした。

まあそんな町の寂びれた商店街に事務所はありました。折りたたみの台だけは新小岩に預けてありましたが、仕入れと清算にはいちいち顔を出さなければなりませんでした。
(その町を2~3年前に通ってみたら、道幅は5倍ぐらいに広がり、地下鉄の駅まであって、ビルが林立、昔の面影は何一つ残っていませんでした)

当時のバスは7時半ごろに終わってしまったように思います。バスが無くなると小さい都電で小松川橋の手前まで行き、橋を歩いて渡って、また都電で錦糸町に出ます。あとは国鉄で新宿乗換え渋谷に出て今度は私鉄で上目黒に帰るのです。電車はどれも本数が少なく夜まで満員でした。
長い長い小松川橋を夜に歩いて渡る人はほとんどありません。冬の川風は容赦なく吹き付けます。
それでもみんなで歌を歌ったりしゃべったりしながら歩くのがなんか楽しくて、わざと最終バスに乗り遅れたりしました。
(小松川橋は、幹線の京葉道路が荒川放水路と中川放水路をまたぐ大きな橋です。今ではすぐ脇に新小松川橋が並んでかかっています。今はそれほど交通量が多いのです。)

ノートと飴を売りに行ったのは船橋や千葉など。国鉄より京成の駅前の方が売れました。
秋刀魚が大漁だと船橋の闇市に流れます。一匹10円。見つけると急いで2匹買います。冬だから夜まで腐りません。隣組単位の配給にはなかなかまわってこない貴重な蛋白源でした。

道路の舗装は空襲で壊れたまま、でこぼこでした。一度、台をひっくり返して水溜りにノートをぶちまけたことがあります。もともと汚い色のノートなので少しの水濡れなら乾かして売れましたが、
汚れたものは卸値で自分が買うしかありません。そんなノートに書いた日記が今も沢山残っています。ボールペンなんて存在しませんから、壊れた万年筆をインクビンにひたしては書いたり、ガラスペンを大事に使ったり、鳥の羽の軸を斜めに切ってペンにしたり・・・ブルーブラックのインクの文字は今もちゃんと読めます。

事務所の場所が不便すぎるので連盟に通ってくる学生は12~3人でした。女の子はほかに二人だけ。一人では何にも出来ない人と、口は達者だけどちゃらんぽらんで男にしか興味のなさそうな先輩。見習い当時彼女がいつ何処に売りに行きましょうというので待って居れば、連絡もなくすっぽかしてくれます。平気ですっぽかされることが続き、彼女とは約束しないで一人で行動することにしました。男子の見習いについたこともありますが、収入を半分わけしては商売にならないから遠慮しました。
当時の大学生達はとても言葉が綺麗でした。男子もきちんと敬語を使って居ました。仲間内でふざけることはあっても、汚い言葉は聞きませんでした。

売れない日は長居をしても駄目なので早々に引き上げます。
或る日6時頃新小岩に戻ったら、一番良く売り上げる青年が『今日は駄目だった』と戻ってきました。
『夜に売れる場所があるんですが、これから行きませんか』と彼、
上野は浮浪者があふれ街娼がたむろし、やくざが仕切っている恐いところと思って、敗戦後行ったことがなかったけれど、好奇心が湧きました。
西郷さんの山から大きい階段を下りた反対側正面の歩道で、みかん売りのおじさんと並んで店を出しました。
商品を揃えると彼は『君一人のほうが売れますから』といって古本屋に立ち読みに行ってしまいました。
確かにそうでした。私の顔と体はアンバランスで、栄養失調でも頬はこけないし目はくぼまない。丸ぽちゃの童顔で身長147.5センチ、体重39キロ。17歳なのに15歳ぐらいにしか見えない。女性の魅力なんて縁がないから、酔っ払いにからかわれることもない。みかん売りのおじさんからみかんを何個も貰っちゃうし、ノートも飴も次々売れる。町の様子を見るのも面白い。

当時パンパンとよばれた街娼のお姉さん達は濃い化粧でフレヤーのロングスカートの裾を寒そうに押さえている。あの頃は、親を失って弟妹を守らなければならない人は、身を売るしか手段のない時代だったから、彼女達を軽蔑する気持ちは微塵もありませんでした。

9時半近く相棒は戻ってきて『やっぱり売れましたね。さすがー』といって計算を始めました。
そのときそっと私をつついて『あれ、おかまですよ』と教えました。そこには和服姿の綺麗なお姉さんしか居ないのでびっくり!?初めて見たおかまさんがいったい何なのかまるで見当もつかないままぽかんと見ていました。
相棒は計算した儲けの半分を私に渡し、『手ぶらで帰っていいですよ僕が全部清算してきますから』と二人の売れ残り全部と、台を担いで帰ってしまいました。お蔭で私は手ぶらで楽に帰宅し遅い夕飯(たぶん雑炊)にありつくことができました。

その後、鏡を売ることにならなかったら、私は夜毎上野で商売をしたでしょう。やくざに『しょば代』(不当な場所代)を請求されることもなく、意外に平穏な京成上野駅前でした。
(日暮里に昼間行ったら、売れない上に、やくざのチンピラに『しょば代』を巻き上げられて一度でこりごりしました)

鏡は男子二人と私だけで売りました。ほかの人は(上野の彼も)誘わなかったようです。
りんご箱を借りて台にしたのは私だけ。地べたに商品を並べる気はなかったので、たまたま目に付いた果物屋さんに頼んだわけです。なんでも工夫してしまう一風変わった女の子でした。


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                今日は息子一家が来てくれました。
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by hisako-baaba | 2005-11-26 18:56 | 偽学生になってアルバイト | Comments(5)

日中戦争の中の青春・・・抜粋
今日はホームページ『日中戦争の中の青春』を作った3人と、あるジャーナリストの先生とが集まりました。

6000クリックも読まれたホームページなのだからもっと肉付けをしてしっかりした一文にまとめましょうという相談をしました。出来上がるには時間がかかるでしょう。今はこのホームページ又は同じものを印刷用ページにしたものをもっと読んでいただきたいと思います。

今日は宣伝の為ほんの一部抜粋してここに載せます。
すでに読んでくださった方はどうぞ飛ばしてください。

新たに興味をもたれた方には印刷用ページをお送りいたします。

『日中戦争の中の青春』・・・「動物の思い出」から前半割愛して途中から載せます。

満州事変が始まった頃、千葉県四街道の歩兵聯隊内に『軍犬班』が発足した。そのとき頼まれて私の父は、訓練していたエアデールテリアを献納した。イギリス軍に倣ってエアデールテリアを採用するか、ドイツやアメリカに倣ってシェパードにするか試行錯誤の末、頭脳のエアデールより体力のシェパードに、軍は決定したようだった。訓練を受けて戦場に渡り各部隊本部の警備についた犬たちは兵隊達のアイドルでもあった。日本の軍服以外の服装をした者には激しく吠えかかるので、中国人には「日本軍は狼を飼っている」と恐れられていた。

『伝書鳩』も、軍の組織において大事な通信手段の役目を果たした。ぼくが小学生の頃、近くの練兵場に『軍鳩班』部隊が訓練に来た。トレーラー式の鳩舎の横にテントを張り、10名ぐらいが野営しながら鳩を訓練していた。近くで見ていると、「坊や、おいで」と呼ばれ、遊ばせてもらったものだ。満州事変以前の、のんびりした時代のことである。

それらの軍用動物達がどうなったか直接見る機会は少なかったが、聞かされたのは悲しい話ばかりだった。

私の勤務した陸軍特務機関には、兵役を現地除隊した元下士官が数名いた。彼らは、南京攻略、徐州会戦、修水渡河作戦などを経験した歴戦の兵士達で、いろいろ話をしてくれた。体が大きいだけに、馬は弾丸の当たる率も高く、戦死した軍馬は多かった。その場合、たてがみを切って持ちかえり供養したと言う。泥濘に脚を取られた馬が、もがくうちに、どうにもならなくなって、放置せざるを得なかったと打ち明けてくれた元下士官もいた。「置き去りにされた馬の悲しいいななきが耳に残る」と泣いていた。

 戦後再会したある先輩は、敗戦直前の昭和20年になってから、悲惨な運命に翻弄された。若妻と生後2ヶ月の乳児を残して、中国で現地召集されたのだ。彼は河南省の開封から、ひとり1頭づつ馬のくつわを取り、徒歩でひと月かけて漢口に着いたところで終戦となった。食糧が無くなり、苦労を共にした馬を食べざるを得なかったと言う。
妻子を満州の妹の家に預けていたが、生きて再び会うことも叶わなかったそうだ。
戦争がもう少し早く終っていたら、どれほどの数の人や動物が、このような悲惨な運命に遭わずに済んだことだろう。

 戦後、南京に残留した私は昭和20年12月、親しかった三石大尉が旧官舎にいると知り、久々に訪ねた。話に夢中になり気づくと夕方になっていた。「食事をしていけ」と誘われ、敗戦以来食べたことのないご馳走を振舞われた。当番兵は大変料理が上手であった。
「そのソテー旨かっただろう。何の肉だと思う?」と三石大尉。
「ひな鶏ですか?」
「鳩だよ、伝書鳩。中国側は要らないと言うから、食べることにしたんだ。」 ぼくはなんとも複雑な気持ちになったものだ。
  三石大尉の口利きで、私も中国軍に留用という形で残留した。中国陸軍総司令部に所属する日本人8名の独立機関だった。捕虜ではなく職員として、特別待遇を受けていた。                     

翌21年春、中国軍幹部が、シェパードを1頭連れて来て、言った。「日本の軍用犬だが、一向になつかず手におえない。引き渡すから受け取ってくれ」
一目見て、驚いた。皮膚病で赤裸。毛はいくらも残っておらず、体中を蚤が歩きまわっていて、衰弱が激しい。中野学校出身のS中尉は獣医だが、一見して決断した。「手のつけようが無い。早く安楽死させてやろう」
犬は、それでも久々に日本語を聞いて、体をゆすって喜んでいた。どうやって苦しませずに安楽死させるかを相談したが、方法はひとつ。電気ショック。少々電気に詳しい私が、引きうけざるを得なかった。
翌朝、裸電線を首と後足に巻きつけて、220ボルトの電流を流した。瞬時に呼吸も心臓も止まった。庭に掘った穴に葬ったが、哀れでならない最期だった。
中国人に吠えかかる事を使命とされてきた軍用犬が、敗戦で中国人に引渡された。犬の運命は激変していた。わけもわからずに、苦しんだことであろう。 彼にとって中国人は敵でしかなく、なつくわけにはいかなかった。彼は半年あまり、ひとりで中国と戦っていたのだ。
あの時命を助けたとしても、引き揚げ船に乗れない以上、日本軍に忠実すぎたこの犬が中国で生きていく道などなかった。
戦争は人間だけでなく、多くの馬や犬や鳩までも悲しい死に追いやった。私はこの現実を自分の体験から、思い知らされたのであった。 戦争だけは二度と繰り返したくない。

以上私の兄の体験談です。
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by hisako-baaba | 2005-11-25 18:14 | Comments(5)

りんご箱の想い出・・・偽学生アルバイトの話・・・①
komakoさんのところから、reevさんのところに飛んでみたら、木のりんご箱が写っていました。
懐かしいー何十年見なかったでしょう木のりんご箱。
急に57年前の想い出がよみがえりました。

昭和20年(14歳)から、26年まで私は職が安定しませんでした。女学校(今の中学)2年中退では採用されないのです。

一方当時の学生達もアルバイトの職に就くことは困難でした。学生達は各地でそれぞれ連盟を作って、道端でノートなどを売るのが普通の仕事で、授業にいつ出るのか不思議なくらいでした。
そこで私は学生でもないくせにそこにもぐりこんで、駅前などでノートと飴玉を売りました。
折りたたみの台は連盟で借ります。商品をリュック一杯背負って、台を抱えて電車で何処かの駅に行きます。商売仇とぶつからなければ、交番に断って店を出し、メガホンで叫んで売ります。(ウチにあったメガホン使ったのは私だけだったかも)
当時物凄く質の悪い再生紙でベージュにグレーを混ぜたような紙のノートが、10円から50円でした。よほど売らないと交通費も出ません。

全然儲からないので仲間の学生が別の商品を紹介してくれました。彼の知り合いの貿易商が、輸出できない傷物の鏡を沢山持っているというので、立川まで借りに行ったのです。
鏡をリュック一杯借りて帰り、翌朝家の棚板をはずして抱えると自由が丘の駅に行きました。
宝くじ売りのおばさんに荷物を預け、遠くの交番に断ってきて、ロータリーの向かいの果物屋に『今日一日りんご箱3個貸してください』と頼んで、3箱かついで来て棚板を載せます。家で書いて来た広告の紙をぶら下げて店を出すのです。宣伝文句を3色のクレヨンで書くのは得意でした。
物のない時代で、鏡は傷が有っても良く売れました。一番の売れ筋だった大きい鏡は少ししか仕入れられないのです。それを田舎のおばちゃんたちに値切り倒されて根こそぎさらっていかれたときはせつなかった。
それでもノート売りの3倍は儲かりました。

ある日の午後、駅員さんがすっ飛んできました『まぶしくって事務が出来ないから鏡の向きを変えなさい』と。太陽が反射して、駅の事務室に当たっていたのです。
色々なことがあっても3日おきくらいに、清算と仕入れに行くことが出来ました。
そんな日は仲間たちと渋谷で映画を見たりしました。
私が一番多く売り上げていたようです。何しろ声がでかいものですから。

次の仕事に進むまで、駅前で一人で叫ぶ日が続きました。
何処の駅前にも果物屋さんがあって、学生連盟と言えば快くりんご箱を貸してくれたものです。
昭和23年11月から翌年1月にかけての妙に楽しい思い出です。
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by hisako-baaba | 2005-11-24 15:29 | 偽学生になってアルバイト | Comments(7)

ワイドショーは嫌いです
ワイドショー、嫌いです。ニュースだけで沢山。隣の部屋から聞こえるとイヤになる。
真っ昼間小さな女の子が殺された!訳のわからない殺人が続く。

地震が来たらぺしゃんこになるマンションやビルが沢山建っちゃった!
建てる人が気がつく筈じゃないのかな?わけ解りませんよね。
今ラジオで言っていた。『鉄筋を減らしてウソで塗り固め』   (息子の家大丈夫かな???)
ちょっとインチキしたつもりがばれなかったので続けた???
地震が起きて全部潰れて、大量の死者が出たら・・・そう言う想像力が働かない頭って、
いったいどういう構造してるんだろ???自分さえ儲かれば良いなんて!

何処の国も軍備にお金をかけ始めると、真っ先に福祉が潰される。
昔は福祉なんて考えはなかったから、若い者全員兵隊にとられて、馬まで戦地に持っていかれて、農業生産量はがた落ちになり、老人子供に大きな負担がかかった。

今又老人に、医療費をもっと払わせろと言い出した。お金持ちには払わせていいけど、
収入が少なくて1割負担の人が2割になるということは2倍に増える訳で、国民年金だけで暮らしている人はとても払えない。私だって困るわ。
医者に行かずに団地の部屋に閉じこもって、誰にも知られず死んでしまう人が、今よりもっと増えることでしょう。
駐留米軍への「思いやり予算」が有っても、日本の弱者への思いやりはないのね。
障害を持つ人が家を離れて自立しようとしているのに、介護を減らされたら家に戻るしかなくて、家族と共倒れになりかねない。・・・税金の使い方ヘンじゃない?
何十億の財産争いをしている家もあれば、一生稼いでも億なんて縁のない人が沢山居る。税金の取り方も、使い方もよく解りませんねえ。

今の今、何とか暮らせるから楽しいだの幸せだのと言っている私だけれど、
政治が変わってしまったらどうなるかわかったもんじゃない。

昭和13年に父が死んで、大きな家を売った多額のお金を母は郵便局に預けた。
一時払い郵便年金。一生涯暮らしに困らない筈の仕組みだった。
10年後、その年金1か月分で買えた物は、菓子パン一個!!国に預けた金返せと言いたかった。未亡人の虎の子は戦争に使われちゃったんですよね。
戦火は免れても、インフレで何もかも失った我が家。

戦争とインフレ・・・これだけは何としても阻止しなければなりません。
戦争とインフレのセイで国民が飢えるなんてことは、二度とごめんです。

近頃与党も野党も危なっかしくて・・・・大丈夫なんですかね?????
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今年は桜もみじがなかなか赤くならなかったけれど、少しは赤い葉も混じるようになりました。
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by hisako-baaba | 2005-11-23 18:13 | Comments(2)

楽しみな写真展
『たびそら』の三井昌志さんが12月5日から、東京でまた写真展を開くそうです。
(夢アブさん、教えていただいてたびそらにリンクできました。有難うございます)
詳細はまだ発表されて居ませんが、久々にお話しできることが楽しみです。

東京での初めての写真展は小さくて家庭的な喫茶店でした。そこに訪ねて行ったことで私には沢山のお友達が出来ました。

『アジアの瞳』が出版された時の写真展は画廊。その次は広いギャラリーでした。
今度はカフェだそうです。狭ければさぞ混むでしょうけれど楽しみです。
又友人を誘って出かけます。私たちが行くと、とたんに会場の平均年齢が上がる・・・といつも三井さんに言われます。年寄りだって輝く笑顔の写真は好きですよ。

私たちが言葉の通じない国を旅行しても、現地の人のあんな輝く笑顔は撮れません。
彼だけが引き出せる表情だと思うのです。
2冊目の『素顔のアジア』売れ行きが気になるこのごろです。

あ、三井さんは京都人なのです。京の町屋で写真展したこともあります。
Vanilla leafさんの造った喫茶店にアジアの美少女の写真が並ぶ日があったらステキでしょうね・・・なーんて思ったりして。


このごろウチの団地の庭の隅に咲いているちっちゃな花です。何と言う花かしら。
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今右下の奥歯が少し痛いのです。そのせいか、どじばっかりやってます。お盆ひっくり返して湯のみ茶碗割って、砂糖つぼひっくり返して・・・やれやれ・・・

痛む歯の場所が悪いのです。顎の骨から出てこられないで横向きに眠っている親知らずの隣の歯なのですから。
以前左にも横向きの親知らずがあって、30年前隣の歯が割れたとき頭が出てしまいました。
大学病院に行かされ、ノミとトンカチでト-ンカチーンと骨を叩き割ってほじくり出して貰いました。
何日も顔中腫れあがって痛かったのなんの!

今回、痛む歯を抜いてみて、親知らずの頭が空気中に顔を出してこなければ問題ありません。
そのまま骨の中で眠っていてもらえばいいのです。ぜひそう願いたいものです。
親知らずさーん。一生おとなしく眠っていてちょうだーい!!

まともに咀嚼が出来なくなったとき、噛めることのありがたさが始めてわかります。
噛める歯があるなら、もっとしっかり噛まなくちゃいけませんね。一口30回噛むべきなんですって。
胃を壊さないように、今 痛くない方の歯で一生懸命噛んでいます
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by hisako-baaba | 2005-11-22 17:07 | Comments(8)

保育園のお散歩
今日は午前中に運動と買い物に行きました。

川を埋めた長い緑道で、第一保育園の1~2歳児がお散歩していました。
先生二人で、3人の子を手押し車に乗せ、3人を歩かせていましたが、一人の坊やがしゃがみこんで落ち葉遊びに熱中、呼ばれてもついて行きません。二人のお友達が迎えに行ったけれど、そのまま3人で葉っぱ遊びに熱中。先生はゆっくり待ってからみんなを集め又歩き出しました。

園児を追い越して東へ進むと、向こうから今度は第二保育園の2~3歳児が10人ほど2人の先生に連れられて歩いてきました。みんな首から牛乳パックのポーチを下げています。
落ち葉を集めに行くのでしょうか。

緑道沿いに1キロほど離れて二つの区立保育園があります。お散歩で合流するのかもしれませんね。

今の保育園はお散歩させてくれて良いですねえ。30年前とは比べられないほど充実していますが、それでもなかなか入れないと聞きます。まだ足りないのでしょうね。
隣の区には民間の保育園が進出していて、すぐ入れると聞くのですが。
a0050728_14543614.jpg

よその公園には紅葉した木も少しあるのですが、今年この緑道の桜紅葉はヘンです。ほとんど赤くならず黄色いまま散ってしまいます。ハナミズキは赤い実をつけていません。草花は終わり、いろどりが少なくなりました。
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by hisako-baaba | 2005-11-21 14:57 | Comments(0)


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