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婦人職業訓練校ビルクリーニング科の思い出・・・3

時間を戻して訓練校の楽しさをもう少し語りたいと思います。
学校生活から離れて何十年のおばさんばかり25人が机に向かって、制服はデニムの可愛いエプロンで、お弁当の時間にはおしゃべりに花が咲いて・・・それはそれは楽しかったですよ。
大抵の人がちゃんと失業保険や訓練手当てや交通費を支給され、最低生活は保障されていたから久しぶりに安定した気分で勉強していました。

担任は正規の先生が一人と定年後の嘱託の先生。二人で細かく面倒を見てくださいました。二人の授業の他に、ビルメンテナンス業界各社から講師が派遣されて授業を担当していました。もともと業界が都に申し入れて作った学科なのです。リーダー格は私が入社することになる会社の社長さんで、その会社からは社長初め3人もの講師を派遣していました。

社長さんは毎期の生徒と家族を自宅に招待して下さるのでした。日曜日に鎌倉の山の中腹にあるお屋敷の広い庭で、バーベキューをさせてから、二手に分けて鎌倉観光をさせてくださいました。私も10歳の息子を連れてゆき、健脚組みに加わって尾根歩きをしました。晴れわたった海は穏やかに凪いでいました。
社長がそんなにサービスしてご自分の会社に入れようと思われても、実地研修で5人の生徒が会社訪問した時に、指導した先生が厳しすぎて評判を落とし、たった二人しか応募しませんでした。

訓練校自体の遠足もありました。高尾山の駅に集合、電車賃もあとから支払われました。学生に戻ったことが楽しくて仕様が無いのに、遠足まで連れて行ってくださるのですからみんな若返って存分に楽しみました。

学校のお祭も有りました。各科の学習成果をお客様に発表します。ぬいぐるみの洗い方なんかやったように思います。調理科はお菓子が出たでしょうか。楽しい行事でした。

それから調理科で、全校生のお昼を販売した日もありました。ピラフだったでしょうか、デザートもありました。

あの半年間は若返りの妙薬を頂いたような幸せな時間でした。


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下練馬の富士塚は、結構厳しい登山道?になっています。
山頂の小御岳神社。
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by hisako-baaba | 2006-01-31 11:11 | 我が家の歴史 | Comments(0)

婦人職業訓練校ビルクリーニング科の思い出・・・2

ビルクリーニングの実地研修も同じく5日間ありました。5人づつ5社にわかれて派遣されたのです。

隣の席の人はクラス一の美人で、先生のお気に入りでした。だから彼女と同じ班で研修に行った先は、そこだけ昼食をご馳走してくれる会社だったのです。高層ビルの社員食堂で「好きなものを食べなさい」と言われてラッキーでした。
その会社では半年に一回研習生が来るのを心待ちにしていて、人海戦術で大理石の床を磨くのです。主任がタスキーと言うマシンに“企業秘密”の液体を入れ(薬品の見当は付きましたが)一番柔らかいパッドを回転させて洗い進む後ろから、7~8人が絞りたてのモップで追いかけます。モップは頻繁に洗って、薬品が絶対に残らないよう拭き上げます。最後に乾拭きを何回もして、真っ白い床は鏡のように輝きます。このあと半年間は、毎日の念入りなから拭きだけで充分なのです。
スカートの中まで映ってしまいそうなピカピカの床を、主任は大変自慢していました。或る日同じ新宿の有名なビルの1階を見学につれてゆかれました。白と黒の大理石で幾何学模様になっている床は全く艶を失い無残にも傷だらけでした。主任は『大理石を知らない人間が掃除するとこういう事になる。粗いパッドに洗剤をつけて洗ったから一度で傷だらけになった』と言っていました。

卒業後研修先の会社から誘われましたが、仕事が楽な分時給がとっても安いので断りました。雰囲気の良い会社で、定年退職後の上品な紳士が二人、半日づつ働いていました。それ以上収入があると厚生年金を削られるから、健康のために3時間だけ働いているとのことでした。おばさん達もみな短時間のパートでした。

私は別の会社に人より一時間少ない勤務にしてもらって入りましたが、そこはかなり厄介な人が多い会社でした。意地悪や喧嘩も多く雰囲気は最悪だけれど、仕事はそうきつくはありませんでした。
訓練校の一年先輩がいて集中的に酷いいじめを受けていました。いじめられっ子タイプの人だったのです。『訓練校出はいじめられるからあまり言わない方がいいわよ』と彼女は言います。見ていると、土曜日の床洗いにポリッシャーを持つのは男だけです。『なんでポリッシャーやらないの』と訊くと『やらせてなんかくれないわよ』と先輩『とりゃあいいじゃないの』と私。
主任に『私たちもポリッシャー出来るし、マシンは有るのだからチームを増やせばもっとはかどるでしょう』と言って大好きなポリッシャーをとりました。実はモップで拭くよりマシンを操る方がよっぽど楽な仕事なんです。

私は3年半勤めて一人で独立しました。お屋敷町で家庭の掃除を請け負ったのです。口コミでお客様が増えて結構長く働きました。タイルの補修や部分張り替えや、水道蛇口の取替えや、トイレの水漏れ修理や、ちょっとした家具の補修、包丁研ぎまで簡単なことは何でも引き受けていました。

それなのに、現在自分の家の掃除がちゃんと出来ていないのです。緊張感に欠けているからですね。ウチのことは面倒くさくて困ります。

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どなた様ですか?
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あら天狗様
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カラス天狗様も
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下練馬の富士塚にて
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by hisako-baaba | 2006-01-30 09:17 | 我が家の歴史 | Comments(9)

婦人職業訓練校ビルクリーニング科の思い出・・・1

昨日、ホテルの話で盛り上がったら昔のことを思い出しました。

昭和60年、五十代の私たち夫婦は、たまたま同じ時期にそれぞれ失業していました。娘は大学受験の年で、息子はまだ小学生でした。
折り良く職業訓練校の募集がありました。事務科や調理科は卒業しても求人が皆無。介護科も今と違ってヘルパーなんてありませんからほとんど求人がない。そちらの生徒は卒業まで失業保険が延長支給されることだけを目的に通っている風でした。
しかし、ビルクリーニング科だけは100パーセント就職可能でした。しかも応募者が少なく簡単に入れます。
三十代から五十代のおばさんばかり25名。平日9時から4時まで、土曜半ドンで半年間楽しく勉強しました。机の授業より実習が多く、私はメカに強い方なので、俗にポリッシャーという大きなマシンで床を洗うのが一番好きでした。今と違って手を離しても止まってくれない旧式の危険なマシンもありました。うっかりすると何処へ飛んでいってしまうか分からない危ない機械ですが、コツを体で覚えれば後は自由自在に操れて、とっても面白くなります。今でもポリッシャーを見かけると、ちょっとやってみたいなあと思います。
実習にはベッドメーキングもあります。一人で手早くシーツを取り替えて整える作業です。
この科に来る求人はホテルと清掃会社ですから、両方に5日間づつ研修に行きました。
5軒のホテルに5人づつで、私は新宿の或るシティーホテルに行きました。簡単な説明を受けただけで一人一室づつ清掃とベッドメイクをするのですが、渡された掃除道具にスポンジが一個しかないのにはびっくりしました。仕方がないからバスとトイレ(内側まで)を一つのスポンジで洗いました。(こんなホテルばかりではないと思いますが)洗い終えてタイルの床を乾拭きし、ペーパーを三角折りしたら、「消毒済み」と言う長い紙をトイレに挟みます「消毒なんかしてないのに」と思いながら。一部屋終わるとすぐ次の部屋に、かなり慌しく動き回るきつい仕事なのに時給はびっくりするほど安く、勤務時間も短いので、せいぜい月3~4万しか稼げません。訓練校ではきちんとベッドメイクを教えるので、パートで来て欲しいと求人は多いけれど、卒業後誰も行きませんでした。
ホテルの従業員はパートが多いのですね。

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狛犬さん  あ
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狛犬さん  ん
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下練馬 富士嶽神社
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by hisako-baaba | 2006-01-29 17:13 | 我が家の歴史 | Comments(2)

障害者を泊めたくないホテル

一体どういう事なんでしょ。このごろの事件。いろんな事が次々ばれる。元々ばればれの嘘ばかり。ひと目で分かる嘘をついて平然としている。

何ですかあの東横インの社長!言い訳にも何にもならない言い訳して開き直っている。ホリエモンよりずっと年上のくせに!
あれは『確信犯』ですね「市の条例なんて違反してもどうせ大したことにはならない。ばれたら直せばいい。検査さえ通ったら、さっさと作り変えて、より商売しやすくしてしまおう。車椅子の人や盲人なんか滅多に来ないのにそんな連中の為に場所を塞げておくなんて馬鹿らしい、第一そんな面倒な客には泊まって貰いたくない」
それが120ものホテルを全国展開している実業家のありようですか!?
実業家なら社会に貢献すべき立場なのに、弱者切捨ての思想の持ち主。その上建築士名を無断借用の疑いも有るとか?
いったい”信用”と言うものを何と心得ているのでしょうか?今回悪名を馳せたから、元どおり車椅子用設備を作り直しても、もう障害者は泊まらない。一般客だって敬遠する人も出るでしょう。今後どれくらい損失が出るか・・・身から出た錆ですね。
みなさーん。「東横イン」に泊まるのはやめましょぉーーー

他にもインチキなものが次々ばれて・・・神を恐れぬ人間ばかり・・・世も末か・・・
世の中の嘘を、神様がいっぺんにばらしてくれているような気のするこのごろです。


富士嶽神社と富士塚
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地元商店街が疲弊してシャッター通りになっちゃったから、富士塚の手入れも侭ならないようです。
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by hisako-baaba | 2006-01-28 10:29 | Comments(10)

『シェフ』と言う歌と この頃の事件に思うこと

このごろ毎晩NHKラジオから『シェフ』と言う歌が聞こえてきます。素直な歌い方が好きだし歌詞が気に入りました。
「菓子パン一個の暮らしに終わりを告げたくて、目黒のイタリア料理屋で働くことにしたんだ・・・・」と始まる歌で、「・・・一生懸命やることさえも、汗水たらして働くことも、バカにされてしまう世の中だから、人は素直になれなくて・・・」と言いながら、まかないの食事が食べたくて働き始めたミュージシャン志望の若者です。
楽しそうに料理しながら『夢を忘れちゃいけねえ』『生き方にレシピはねえんだよ』と励ますシェフの言葉に彼はだんだん引き込まれてゆきます。『一度や二度の失敗がどうしたんだ。雨にも風にも負けない心を持て』人生の師にめぐり会った若者の素直な喜びが伝わる歌で、大好きになりました。

このごろ喧しいニュース。頭が良すぎて挫折を体験できずに東大を出たような若者達が、ずる賢く立ち回り巨万の富を追いかけて躓きましたね。彼らは逮捕されなくても幸せではなかったと思います。
昔の新聞やラジオだったら、決して彼らごとき輩を、英雄だカリスマだともてはやしたりしなかったでしょう。生き方に品が無いもの。昔なら『品性下劣』な人間は幾ら儲けようと尊敬はされなかった。むしろ揶揄された。
それを時代の寵児ともてはやした挙句逮捕されれば拘置所までカメラの列が追いかける。マスコミも実に下品です。選挙の看板に利用した政治家達も、一体何処を見ていたのでしょう?

昔の実業家は、儲けるほど世の為人の為に尽くす方法を考えました。今の虚業家はマネーゲームを楽しみマネーだけを追い求める。立派なビルに住み、貧乏人を馬鹿にして、自分の頭を過信している。智慧がなさ過ぎます。頭が良いのではなく悪知恵だけが発達してしまったいびつな人間。気の毒ですね。彼らが法の裁きを受けたあと、これに懲りて全く違う生き方が出来たら偉いと思うのですが。汗して働くことを覚えて欲しいものです。
若いとき額に汗して働くしんどさを知らないと、まともなものにはならないと思います。

お金・・・億だ兆だとなるとさっぱり実感がありません。
何百億持ったところで一生で使い切れないじゃないですか。要らないはずですそんな大金。
そういう資産を残して子孫に相続争いをさせるなんて、不幸の種をまくばかり。電鉄会社のドンの例も記憶に新しい。マネーゲームは程々にしておかないと、幸せをドブに捨てる破目になってしまいますからね。
家一軒持てなかった私が言ってもやっかみに聞こえそうだけど、一生貧乏しても歳取ってから「楽しいよ」って言っていられる方が幸せってもんでしょう。そうじゃありませんか?


川越街道 下練馬宿の富士塚。(小山を作って富士山の溶岩を載せて祀る、登山出来ない人の為のミニチュア富士山)富士嶽神社の脇にありますがずいぶん荒れてしまいました。
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昔ここで幼い息子と撮った写真は、まるで深山幽谷に出かけたかのようで嬉しかったのですが、
今は木々も枯れ、情けない姿です。小さなお宮には神主さんも居ません。
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by hisako-baaba | 2006-01-27 09:28 | Comments(7)

ハウスメイドは勤まらなくて・・・幼い日・・・⑳ 
 
十代の頃どの順番に働いたか記憶がごちゃごちゃなのですが、2番目の兄は早く復員し、3番目の兄が21年夏引き上げてきて、中国駐日代表団の運転手をしていました。23年の春ころ私は病気が完治し、三兄の紹介で中国人銀行家のハウスメイドに入りました。
主人夫婦が夜のパーティーに出かけてしまうと、2歳ぐらいだった男の子カンカンちゃんが泣き喚いて眠らず、言葉も通じなくてどうにもなりませんでした。やがて中年のなれたメイドさんが入って、私は給料1か月分余分に渡され丁重に解雇を申し渡されました。
後年私がバスの車掌をしていたとき、その銀行家が小学生になったカンカン君を連れて乗りました。銀行家はすぐに気付かれてニコニコと丁寧に挨拶され、カンカン君がはにかんでいたことをはっきり覚えています。嬉しい再会でした。

それからが前に書いた偽学生アルバイト時代に入ります。学生でもないのに学生連盟に入って、ノートや飴を駅前で売りましたが、いっこうに儲からないので、仲間の知り合いから傷物の鏡を仕入れて売りまくりました。一人で、自由が丘などの駅前に出て、果物屋さんから木のりんご箱を三つ借りてメガホンで叫んで売りまくり、資金をためて編み物機を買い、編み物学校に通いました。しかし昔の編み機はまだ長い棒(矢)を差し込む能率の悪い機械でしたし、卒業しても仕事はろくに貰えないのでこれは失敗でした。
他にも店員など色々やりましたが、生活に充分な収入は得られず、19歳でバスの車掌になるまで私の仕事は安定しませんでした。   【幼い日終わり】


古い方のカメラで久しぶりに撮ってみました。
【万華鏡の中の刹那】
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by hisako-baaba | 2006-01-26 09:11 | 我が家の歴史 | Comments(5)

 ウエイトレスとして張り切るけれど・・・幼い日・・・⑲ 

写真屋の店員では食べてゆけないので、今度は良い仕事を見つけました。
新宿東横会館のウエイトレスです。フルーツのタカノのお店の2階3階を借りている東横の食堂でした。半年間張り切って働きました。通勤に東横線を只で乗れるのが嬉しかったです。

昭和22年3月16日付採用の辞令があります。(15歳7ヶ月でした)日給2円80銭。これはどう考えても時給の間違いでしょう。時給とすれば8時間、25日働いて560円です。5月の給与明細は手取り732円20銭です。それも2度に分けて支払われています。6月は797円23銭。入社したての初ボーナスは48円。8月分は「調整給189円」が加わって手取り976円。給与明細には『物価手当』と『新物価』の項目が有って、会社もインフレに対応しているのが分かります。給与はどんどん上がるけれどそれでも猛烈なインフレには追いつけなくて、みんな四苦八苦していました。お金を手にしたら何でも良いから物に替えてしまわないとお札が紙切れになる。でも物不足で必要品は配給されない。食べ物をどう手に入れるかが大問題でした。

当時主食は配給制で、食堂でも外食券を持ってこないとご飯もパンもうどんも食べられませんでしたから、奇妙なメニュウがありました。『海藻麺』今ならダイエット用に売られて居ますが当時は緑の麺をヘンなものだなあと思っていました。宴会には外食券がどうなっていたか分かりませんが、洋食にバタロールが付きました。ビールも出ました。宴会を担当すると、バタロールの残りを黙ってポケットに入れ、ビールの残りを欲しがる先輩に目配せして飲ませてあげたりしました。
当時ウエイトレスはお盆を使わずお皿を素手に持つ競争をしていました。持ち方を習い、空の皿なら両手に12枚持てましたが、実際に料理を左手に3皿か4皿、右手に2皿まで持ちました。
今でも持てるから不思議です。職場のボーイフレンドと九品仏のお池(とっとちゃんの本に出てくる世田谷の池。今は埋められてしまった)にボートを漕ぎに行ったりもしました。

或る日道路で左胸に横から野球のボールが当たりました。翌日あまりにも痛くなったので医者に行ったら、肋膜炎を起こしていると言われました。会社を辞めなくても良かったのに、世間知らずはすぐ辞めてしまって、半年間通院しました。腕に毎日筋肉注射を受けたあとが、今も酷く凹んで残っています。私はボールが当たって病気になったと思っていたけれど、最近の医師の話では、「肺結核をやったあとがある。ボールがぶつかって早期発見が出来て、半年で治ったのだろう」とのことでした。それならボールに助けられたわけですね。


江戸東京博物館にある焼夷弾。
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それを38本束ねたバンド。ウチに落ちてきたときは青光りしていたハガネのバンド。
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by hisako-baaba | 2006-01-25 09:44 | 我が家の歴史 | Comments(6)

電車のドアが閉まらず命がけだった通勤・・・幼い日・・・⑱ 

学校を辞めて仕事を探しました。女中求むの新聞広告を持って横浜の日吉まで行った事があります。丘の上に立つ新しい邸宅で、ヤミ成金のお宅のようでした。女中頭らしき人が『あなたが?お仕事なさるの?』と不思議そうに訊き、主人の面接もなしに断られました。私はどう見てもまるっきり子供でしたから女中奉公が勤まる筈もありませんでした。
甘味処の住みこみ店員に世話してくれる話が有って、柳行李(荷物を入れる籠)に乏しい衣類を詰めたけれど、面接にも行かず話しは立ち消えになりました。
自分で見つけたのは九段下の写真屋の店員。初任給250円で300円になるまで毎月10円アップ。床屋の片隅に机を置いて、現像焼付けの受付をするだけ。店主の青年は技術が未熟で、お客からはクレームが絶えません。複製を頼まれたときなど、全くいいかげんな出来でお客も私もがっかりでした。
毎日1回やってくる店主はアパートの押入れで作業をしていました。来られない日は夕方私が世田谷まで売り上げと注文を届けに行きます。小さなアパートの戸口で同居の女性に渡して帰るのでした。
当時一番恐ろしかった思い出は、帰りの東横線のドアが閉まらず、はみ出したまま走られたことです。電車は車両も焼けてしまって少なく、運転士も少なく、とにかく本数が少なくていつも超満員でした。一台待てば乗れますが、何分待つか分からないので、無理やり体をねじ込んだところで、そのドアは閉まらないまま発車したのです。進行方向左側のドアで、私は何処にもつかまって居らず、右腕が壁と人の間にきつく挟まれているだけ。右脚は床にあるけれど左手左足は半分車外に出ている状態。渋谷を出て線路は右にカーブします。恐ろしかったです。戸口に居た何人かは。外に向けて押されるのですから。私の右腕が余計きつく壁に押し付けられたから、外に放り出されずに、並木橋駅(代官山との間に当時有った駅)で止まりました。みんな必死で中に押し込んだら今度はドアが閉まって、命拾いしました。今では考えられない通勤事情だったのです。


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17日に関東大震災の話で、当時の鎌倉大仏の写真を載せましたが、あれは従姉が複製を送ってくれたものなので、ウチのを探したらありました。そしてあれは大仏の前に居た写真屋さんの撮ったものだったと判明しました。
父が撮ったにしては人物の写し方が下手なのでヘンだと思っていました。父ならもっと綺麗に撮るはずなのです。


今日は一日中江戸東京博物館に行っていました。いつもならお友達10人ぐらいに声を掛けるのですが、今日は兄から昔の家のことを聞きたかったので、兄だけに来てもらいました。

本物の鳶口、火叩き、防火用水がありました。
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やっぱりカメラヘンです。自分の腕が悪いのかなと思っていたけどやっぱり何をやってもピンボケなんで・・・これは修理に出さなきゃならないかも。

前のカメラが壊れたのはUSBケーブルの差込口だけなんです。
修理に持って行って、『修理代は高いから』と、そのカメラと同じメモリーを使うカメラを買わされたら新しい方がヘンなのです。

前のカメラで写して、メモリーを入れ替えて新しいカメラからパソコンに取り込むことは出来ます。
でも新しいカメラを修理に出している間、それも出来ません。
メモリーをじかにパソコンに入れることは出来ませんか???
ブログに写真無しでは寂しい気がして・・・困ってます。
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by hisako-baaba | 2006-01-24 17:26 | 我が家の歴史 | Comments(3)

学べなかった女学校・・・幼い日・・・⑰ 

希望の女学校に合格しても期待はずればかりでした。
3本線のセーラー服があこがれだったのに、私たちの年から布地が足りないからと、へちま襟の上着にもんぺでした。それもべろべろの『スフ』と言う布地。「ステーブルファイバー」とか横文字を使っていたのがおかしいけれど、あれはなんの繊維だったのでしょうか?皺になりやすく縮みやすく、厄介な生地でした。
どうにか勉強できたのは1年のときだけでした。それだって、元陸軍士官の“教練”の授業があって、全校生徒が分列行進をさせられます。学校で一番背が低かった私はいつも先頭。先生の指示がはっきりしなくてまごつけば恥をかく、一番辛い授業でした。
音楽だけは楽しくて、みんなが「怖い」と嫌う気難しい男の先生に、私は怒られたことがありません。鼓笛隊で勇ましく笛を吹くのも楽しみでした。横笛で歯切れの良い音を出すことが出来ましたから。2年になったらお琴を習える。それが一番の楽しみだったのに、その前にお琴も学校も焼けてしまいました。
昭和20年になると学校の近くの軍需工場に動員が決まっていました。ところが私たちが働きに行く前に爆撃で焼け落ちてしまったのです。しかし焼け跡には真鍮と鉄の部品が沢山灰に埋まっていたので、それをより分ける作業に動員されました。夏まで炎天下で黙々と灰の中から金属をより分けているうちに、私は気管支炎になり休みました。ほぼ治って明日あたり出勤と思っていた日に、玉音放送(天皇陛下が、戦争を終わらせたことを告げる放送)があったのです。
とても暑い快晴の日で、どこに行っていたのか私は12時に4~5分遅れて帰宅。家の角を曲がらないうちに、角の家から放送が聞こえ始めたこと。家に駆け込んで耳をそばだてたこと。負けたらしいと分かってぼんやりしたことを記憶しています。
それからだんだんにアメリカ軍が進駐すると聞かされました。母はアメリカ暮らしの経験があるし、それほど恐れては居ませんでした。女の子は危ないとか言われたけれど、私は爆弾や焼夷弾がもう降ってこないなら、どうにかなるだろうと思いました。
女学校は近所の小学校を借りて午前と午後の2部授業が始まりましたが、歴史教科書など墨で塗りつぶさねばならず、教材もないので先生は困って小泉八雲の怪談を語っていたりしました。結局女学校では普通の教育を受けた記憶がありません。
びっくりしたのは、動員されて工場の焼け跡で金属を拾ったときの給料が支払われたことです。無料奉仕と思っていたし、焼けてしまった会社の何処から給料なんて出せるのかと驚いたのです。幾ら貰ったか記録を失ったのが残念です。これが私の初月給でした。
その後どんどんインフレが進み、一ヶ月暮らせるはずの母の個人年金でパン1個しか買えない状態になって、私は学校を辞めました。

それから56年が過ぎて70歳になった私は、通信制中学校を発見して入学し、去年卒業したのです。七十代の中学生生活はこの上なく楽しいものでした。今も進学を夢見ています。

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雪が降ると、この街なかに”白セキレイ”が現れて必死に餌を探しています。
普段見かけないのに何故でしょう?
2メートルくらいまで近寄れるのですが、私の腕では写真が撮れません。

雪の翌日近所の富士嶽神社の屋根だけに夕日が当たっていました。左側は富士塚です。
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今度のカメラで悩んでいます。カメラは「ピントが合ったよ」とサインをくれるからシャッターを押すのに、遠くは総てピンボケになります。何故なんでしょう?????
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by hisako-baaba | 2006-01-23 09:39 | 我が家の歴史 | Comments(4)

子供にも分かるほど馬鹿げた事だらけだった戦争・・・幼い日・・・⑯
江戸時代の火消し道具で、焼夷弾を消せと・・・
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(左から火叩き、防火用水、鳶口・・・ミニチュアを作ってみました)


戦争ほど愚かなことは無いのにそれが分からないで、ずいぶん無駄なことを人類は繰り返していますね。
太平洋戦争を終わらせるのも一部の指導者が愚か過ぎたためにずいぶん遅れてしまいました。原爆前に、ソ連参戦前に、降伏出来たらどれほどの命が救われたでしょう。でも指導者は先が見えなかった。相手の力を理解しなかった。初めから世界を知らずにやって来たことだから終わらせるのも難しかった。所詮無理と判っていた人も多かったのに。

第一当時の指導者が私たちに命じたことの多くが馬鹿馬鹿しいとしか言いようのないものでした。
海岸で女子供に竹槍訓練をさせたなんて、余りにもばかげていました。歴史に学ぶことを全くしなかったのですね。当時、昭和19年から数えれば370年も昔に、長篠の合戦がありました。武田の騎馬軍団が、織田の三千丁の火縄銃によって壊滅したでしょう。優秀な騎馬軍団でさえ火縄銃にかなわないのに、竹槍で上陸用舟艇に乗って来る完全武装のアメリカ兵の前に突撃しろと本気で指導していた馬鹿が居たのです。信じ難いことですが本当です。竹槍(竹の先を斜めに切っただけのもの)の先が相手に届くはずが無いでしょう。

空襲の備えだって実にばかげたものでした。住宅地に降ってくるのはほとんどがM69油脂焼夷弾です。B29爆撃機の編隊はそれを1000発2000発一度に落とすことが出来るのです。その一発が38個の弾に別れて火がついて飛び散るのです。珠すだれのように美しい花火になってザザーッと降って来ます。その火の玉一個が直径8センチ長さ50センチの筒で、中身はゼリー状にしたガソリンのようなものです。日本家屋用にアメリカが研究開発したものだから、瓦屋根を破って畳の上で止まるように計算して作られています。
当時そんなことは分からなかったけれど油が燃えることぐらいは判っていたはずです。燃え盛る火が畳の上に居座るのです。それに対して各家庭に備えよと命令され、私たちか買わされたものは・・・なんと江戸火消しの道具でした。

鳶口。(破壊消防の道具。引っ掛けて家を壊す?もの)火叩き。(棒の先に縄の束が付いていて、濡らして火を叩き消すもの)防火用水。50リットルも入ったでしょうか?
これらは江戸時代の火事で使った道具。油火災の役には立ちません。燃え盛るガソリンに小さなブリキのバケツで水を掛けて消える筈はないのです。土嚢が有ればまだましでした。土を撒けば焼夷弾の1本くらいは消えるかも?でも焼夷弾は38本束ねたものが散らばって落ちるのだから、一本だけで落ちては来ません。消火はほとんど無理でした。火炎地獄から逃げられた人は単に幸運だったとしか言いようがないのです。

これは前にも書きましたが、もう一つ子供の私にも馬鹿馬鹿しいと当時からはっきり分かっていた命令が有りました。「各家に防空壕を掘れ」と言う命令です。住宅密集地で庭が無いなら畳を上げて床下を掘れと言うのです。命令だから12~3才だった私が一人で、一応掘るだけは掘りました。
当時軍需工場で徹夜勤務をさせる為に配られていたらしい覚せい剤「ヒロポン」を2錠貰って、その勢いで穴を掘ったのです。半分庭で半分は縁の下に。但し私たちは一度もそこに入りませんでした。爆弾が落ちるのなら爆風で飛ばされない為に穴にもぐる必要があります。でも住宅街に撒かれるのは焼夷弾だけです。家が燃えたら穴の中で蒸し焼きになってしまいます。焼夷弾からはもう逃げるしかないのだから、見張っていないと危険です。町会のうるさいおじさんが甲高い声で『空襲警報発令!退避!タイヒーッ』とメガホンでいくら叫んでも私は防空壕に退避なんかしません。町会役員に見つかったら酷く怒られるけど、そんな非合理的な危ない命令はきいていられません。それにウチの庭は奥まっていて外から見えない。私は毎晩の空襲の間、台に乗って南から来る敵機の進む方向を睨んでいました。B29爆撃機の編隊は整然と飛んできます。1万メートル上空に日本の高射砲は届きませんから。実に美しい形の銀の翼が、美しい火の玉すだれをばら撒いて行くのです。無差別殺人です。それはなんとも美しすぎる恐ろしい光景でした。
町内に火が迫って3キロ先に逃げたこともあります。火災で風向きが変わって我が家は焼けませんでした。この夜、同級生のお父さんが防空壕の中で不発弾の直撃を食らって死にました。不発弾でさえ人を殺す、防空壕は危険な場所でした。
ウチの庭には青光りした美しいハガネのバンドが落ちていました。38本の焼夷弾を束ねていて、空ではじけたバネ状のバンドでした。こんなものまでピカピカの新品なんだ!?とびっくりしたものです。日本は物資が無くて、瀬戸物で手榴弾を作っていた頃ですから。

日本で開発された兵器といえば風船爆弾。推進力は無し。風まかせ。上空の気流に乗せてアメリカ本土に小さな焼夷弾を落とそうと、和紙とこんにゃく糊で風船を作りました。浅草国際劇場が風船爆弾の工場で女学生が沢山働いていました。ほんの何個かはアメリカ本土に届いたようですが、大した被害は与えられませんでした。

日本軍は真珠湾でアメリカ艦隊を壊滅させれば、日本本土は安全だと思ったでしょうが、アメリカの国力は直ちに航空母艦や航空機の大増産を、自動車工場を動員したりしてたちまち成し遂げています。
そんなとき日本が一番力を入れて作っていたのは巨大戦艦『大和』であり『武蔵』だったのです。長篠の戦にたとえれば、『大和』は武田の騎馬軍団であり、アメリカの戦闘機は織田の火縄銃でした。知恵の無い話です。山本五十六大将などは航空機を優先しろと必死で叫んでいたそうですが・・・
まるで資源のない日本と、ふんだんに物資の得られたアメリカの違いを理解した人の声など、通る時代ではなくなっていました。
庶民はそんなこととはつゆ知らず、「欲しがりません 勝つまでは」と私も我慢していました。聖戦を信じて疑わず、実情を一切知らされていなくても、本土空襲が始まれば自分の目にB29の大編隊の数は見えるし、焼夷弾の火の玉すだれの数も見える。迎え撃つ日本の戦闘機を見た事が無い。敵はよっぽど物が豊富らしいとは感じ始めました。
大本営発表がいかに嘘八百を並べ立てても、庶民だって首を傾げ始めていたのです。

お蔭で戦後私は“偉い人”の言うことを、鵜呑みにしない癖が付きました。
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by hisako-baaba | 2006-01-22 09:56 | 我が家の歴史 | Comments(3)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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