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小出先生のメッセージ
XPが完全に壊れたようで、動画を貼り付けられません。

そこで記事ごとリンク頂きます。sideさんのところにのっています。
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by hisako-baaba | 2012-08-31 23:32 | Comments(0)

シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いでの挨拶
もう一週間を過ぎましたが、追悼の集いでの、主催者のご挨拶を、転載します。

もう、忘れられかけている、ソ連の重大犯罪と、その犠牲者たちを、思い起こして欲しいのです。

スターリンは火事場泥棒の人攫いでした。
あらゆる国際条約に違反して、六十数万の日本人を拉致せよという、国家的大犯罪を指令したのはスターリンです。

犠牲となって酷寒の地に果てた、6万人余りの遺骨の大半が、今もって帰国していません。
忘れてはいけないと思います。

________________________________________________

みなさん
猪熊得郎です。

去る8月23日、千鳥ヶ淵戦没者墓園で行われた
『シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い』での
主催社代表挨拶をご紹介します。

「第10回『シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い』主催社代表挨拶」
      池田 幸一(シベリア抑留者支援センター世話人)

 毎年8月にここ千鳥ヶ淵でシベリア・モンゴルでの抑留犠牲者の追悼の集いを行
うようになっていて、今年でちょうど10年になります。今年は小宮山洋子厚生労
働大臣にもご参列いただき、厚生労働省、総務省、外務省の後援をいただいてお
りますことにお礼申し上げます。国会議員の皆様にも多数ご参列をいただき、心
より感謝申し上げます。

 いわゆる「シベリア抑留」は1945年8月23日にスターリンの秘密指令で始まった
人災です。戦争が終わり、武装解除された後、60万余の日本の軍人・軍属・民間
人が「ダモイ(帰国)、トーキョー」 とだまされてシベリアに送られ、寒さと飢
えと強制労働の中で6万人以上が命を奪われました。

 日本軍将兵の速やかな帰還を約束したポツダム宣言と捕虜の権利を保障したジ
ュネーブ条約に違反した国家的な規模の犯罪でした。大規模な拉致でした。兵士
を送り出した日本国にも私たち捕虜を保護する責任がありましたが、十分責任は
果たされず、引揚げは遅れ、帰国後も「シベリア帰り」と差別されるなど、不利
益を強いられてきました。

 私たち抑留被害者も、その実情を家族にも語ることなく、控えめに戦後を送っ
てきました。しかし、年をとるにつれて、収容所で亡くなった仲間の無念を改め
て思うようになりました。やはり黙っていてはいけない、この悲劇を語り継ぎ、
歴史を貴い教訓として次世代に継承していかなければならないと考えております。

 ようやく一昨年「シベリア特措法」が制定され、昨年実態調査など国の方針が
閣議決定され、徐々に国の取り組みが進んで来ております。特別給付金は6万9千
人近くの仲間が受け取ることができました。関係各位のご努力に心より感謝申し
上げます。
 
 平均年齢89歳の私たちに残された時間はもう本当にわずかです。私自身も91歳
になりました。

 いったい、何のため、誰のための強制連行であり、奴隷労働であったのか? 
いったい何人の人が連行され、何人が亡くなったのか? その中には、朝鮮半島
や台湾から動員された方々は何人いたのか? 国の責任で明らかにしていただき
たいと思います。緊張感を持って、しっかり取り組んでいただけるよう強く要望
いたします。

 遺骨の調査、収集も急がれます。ここ千鳥ヶ淵六角堂には1万柱を越えるシベリ
ア・モンゴルからの遺骨が眠っていますが、6万人以上が亡くなって、その半分も
まだ帰ってきていません。北朝鮮に残る遺骨の収集もこれからの課題です。

 シベリア・モンゴルの抑留犠牲者を弔う仕組みが、まだ不十分であることをか
ねてより訴えてきております。3月10日の東京都主催の東京大空襲犠牲者の追悼式
典、6月23日沖縄慰霊の日、8月6日広島、9日長崎の原爆忌はいずれも沖縄県、広
島市、長崎市が慰霊式典を主催し、総理大臣、衆参両院の議長らも参列、追悼の
言葉を述べられ、国民的な行事となっています。

 シベリア抑留は8月23日に始まりましたが、移送された日も帰国した日も、送ら
れた先も帰国後に戻った先もばらばらでした。自治体や民間が代表して国民的追
悼を行うということにはなりません。

 当時まともな弔いもできなかった私たちの痛恨の念と遺族の心情を受け止めて、
遅まきながら国を挙げて慰霊の責任を果たし、後世に悲劇を伝え、歴史の教訓を
心に刻む仕組みを暦の上でも確立していただけますよう切に要望する次第です。

 本日、大変お暑い中、遠方からも多数のご参列、誠に有難うございました。 
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by hisako-baaba | 2012-08-31 14:26 | Comments(0)

万事タイミング良くて
福島にゆく前、義歯が連続して折れ、修理が出発に間に合いました。

福島では、膝が全然痛まず、自分でも驚くほど、ちゃんと歩いていました。

帰宅して二日後に「夜語り」のための集まりに出て、私が司会する部分のお話を、全部聴けました。
この日軽い感染症を起こしかけましたが、すぐなおりました。

そして今朝(31日)膝がズキッ----大人しくしていた、半月板のかけらが、またちょっとまずいところにはまったみたい。足の運びがおぼつかなくなったけれど、たいしたことはなさそう。
福島の旅が無事終わったから、心配しません。
「夜語り」は、車に便乗させていただいて行くから心配ないし。

福島行きは万事好都合でした。ラッキー
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by hisako-baaba | 2012-08-31 12:03 | Comments(0)

福島への旅  その7
郡山のお話し会で、私が語ったパーソナル ストーリーは、次のようなものでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は昭和6年東京生まれの81歳です。
日本の国は、私の生まれた年から、まる14年も、戦争ばかりしていました。
今日は、67年前に終わった悲惨な戦争と戦後の混乱期の体験の一部をお話させていただきます。

皆さんは小学校卒業の頃、中学の制服が気になりませんでしたか?
私は、三本線のセーラー服がカッコイイ女学校に憧れていました。そして合格しました。でも、セーラー服なんて有りませんでした。昭和19年には、兵隊さんに着せる服さえ乏しいのに、女学生にセーラー服など着せられる筈は無かったのです。
制服はスフというひどい布地の、細いヘチマ襟のブラウス。スカートは禁止。自分でもんぺを作って穿けと言われました。ミシンが有ったので、母の着物でもんぺを作りましたが、ゴムひもは無いから、袴のように、前後に分けて紐で結んでいました。

戦争が長引くと、ろくなことはありませんね。若い男性は皆兵隊にとられて、馬まで中国に持っていかれて、田畑は荒れ、食料は欠乏していました。
それでも中国への野望を捨てきれず、泥沼の戦争を続けたので、金属も、ゴムも、石油も、石炭も、ウールも、綿花も、外国からは何にも売ってもらえなくなって、困った挙句に無茶な太平洋戦争を起こしてしまいました。物資が何にも無い日本が、物資も人も沢山有るアメリカと戦争をしたのです。始めてしまうと止められなくて、国民に悲惨な犠牲を払わせることになりました。
あの頃の、国の命令は、まるで的外れで危険なものでした。敵の力を知らな過ぎたのです。

真珠湾で、多くの艦船と航空機を失っても、アメリカはすぐにそれらを作り出しました。自動車工場で飛行機を作ったり、凄いスピードで回復していたのです。

でも日本にはもう、物も人も足りなくなっていました。

何十年も後で知ってびっくりしたことがあります。アメリカは、アリゾナの砂漠に、瓦屋根の日本家屋を建てて、焼夷弾の投下実験を重ねていたそうです。瓦屋根を突き破って畳の上で止まって燃え広がるように、先が平らな6角柱にしました。畳を突き抜けて地面に刺さったら効果が無いからです。
直径8センチ、高さ50センチの六角柱。
中身は、ナフサとパーム油をゼリー状にしたもの。まあ、ガソリンのゼリーみたいなものでしょうか。
瓦屋根の庶民の住宅を、広範囲に焼き尽くす目的で作られていて、燃え広がるだけで爆風は起こしません。

これをハガネのバンドで19本束ねるとまるくなるんです。それを2段重ねて、38本を鞘に入れたようです。
それをB29爆撃機から何十、何百とたてつづけに落とすと、一つが38本ずつに分かれて飛び散り、尻尾に付いた長いリボンが燃えながら落ちてきます。ザラザラと音をたてて、無数の焼夷弾が、ナイヤガラ花火のように燃えながら降り注いできたものです。火の雨の恐ろしさは忘れられません。

ところがです、日本政府は焼夷弾の実態をまるで理解して居ませんでした。爆弾とは違うということが全く頭に無かった。

爆弾は先が尖っていて、何処にでも突き刺さって爆発し、周りのものをふっ飛ばしてしまいます。
だから、爆弾が落ちるなら、穴にもぐっていた方がまあ安全です。

でも住宅地には焼夷弾しか落としませんでした。焼夷弾は油火災を引き起こすので、簡単には消せません。
なのに、政府は、各家に小さな防火用水と、小さなバケツと、火たたきという、棒の先に縄の束を付けた火の粉を消す道具と、鳶口という小さな鉄の爪のついた棒を、買わせました。これは百年前の江戸火消しの道具です。焼夷弾の油火災に、そんなものが使えるわけがありませんでした。なのに各家の玄関には、それらが飾ってありました。
バケツリレーで火を消せと、練習させられたけれど、実際に焼夷弾が落ちたとき、そんな悠長なことをした人は無いでしょう。

もっとも危険で赦し難い命令は、一家に一つ防空壕を掘って、空襲警報が鳴ったら、防空壕に入っていろという命令です。
庭がない家は、畳を上げて、床下を掘りました。これほど危険な場所は無かったのにです。

私も13才の頃、一人で防空壕を掘りました。軍需工場に行っていたおじさんから、「元気の出る薬だよ」と覚せい剤の「ヒロポン」を2錠貰って飲んだ勢いで、縁側の下から庭にかけて、一日で穴を掘りました。
当時ヒロポンが覚せい剤だとは誰も知らず、元気が出る薬と言って、軍需工場で無理に働かせる夜勤のときなどに、配られていたようです。
戦後にはヒロポン中毒の蔓延が社会問題になりました。

さて、命令だから防空壕は掘りました。でも母と私は、絶対に入りませんでした。いくら入って居ろと命令されても、一度も入らなかったのです。穴にもぐっていて逃げ遅れるのが怖かったからです。
命令を守った多くの人が、穴の中で蒸し焼きになりました。実際、防空壕の中ほど危険な場所は無かったのです。

私の同級生の家では、お父さんが居たので、立派な防空壕を作りました。一家5人が入れる穴に、屋根をつけて、上に土を被せ、入り口には板戸が付いていました。
当時、私達は防空壕の屋根に30センチ土を盛れば焼夷弾は防げると思っていたのです。

昭和20年5月25日の夜も、一家は防空壕に入っていました。そこへ焼夷弾が防空壕の屋根を破ってお父さんの上に落ちました。それは、不発弾で燃えなかったので、一家全滅は免れましたが、お父さんは即死でした。
防空壕にもぐらずに、西へ3分走って逃げていたら助かった筈なのです。

この夜、焼夷弾は我が家から数百メートル南までばら撒かれました。我が家に落ちたのはハガネのバンドだけでした。
火災は広がり、我が家にも煙が迫ってきました。南風でしたから、西に逃げました。広っぱに逃げて見回すと、周りの空は、360度どちらを見ても赤々と燃えていました。しかし、3月10日の大空襲とは違って、じゅうたん爆撃ではなく、飛び飛びに焼かれたので、比較的逃げ道はありました。
「とうとう私達も焼け出されたわね」といいながら、夜明けを待って帰ってみれば、奇跡的に我が家の一角は無事でした。風向きが急に北に変わったのだそうです。


東京で、我が家ほど幸運に恵まれた家庭は無かったと思います。戦争で誰も死なず、家も焼けなかったのですから。それにもかかわらず、私は女学校に行けなくなり、飢えにさらされました。7歳のときに死別した父の遺産が、全部国営の郵便局に預けてあったからです。戦後のインフレで、預金はあっさり紙くずになりました。
敗戦当時59歳になっていた母は、一時払いの郵便年金に加入していて、毎月の生活費が手に入るようにしてありました。インフレは、一か月分の年金でパン一個しか買えない事態を招きました。一文無しでは学校に行くどころか、その日の食べ物を稼ぎ出さねばなりません。母はお嬢様育ちで、稼ぐ術を知らない人でした。
先ずウエイトレスになりました。半年働いて貯金もしました。或る日、横合いからボールが飛んできて胸に当たり、病院に行ったら、ごく初期の肺結核が発見されました。幸い半年の通院で治り、再び仕事を探しましたが、女学校中退では、就職口は無く、学生ではないのに、学生連盟に入れてもらって、道端で、ノートや飴をメガホンで叫んで売りました。出来る仕事を探しては頑張りましたが、闇市で食料を充分買うことは困難で、私の体重は40キロありませんでした。

やがて私は19歳で、バスの車掌に採用されました。
同期は全員15才、中学出たての娘達で、大抵が一家の大事な稼ぎ手でした。
バスの仕事は激務でしたから、工場より給料は良く、生活は安定しました。でも学校に行きたいのに、木曜日しか休めない勤務だったので、通信制にも夜学にも通えませんでした。
職場には、男尊女卑の気風が根強く残っていましたが、生意気な私は相手かまわず言いたいことを言うので、軋轢もありました。
そんな中で、とっても自然に私の意見を聴いてくださった上司のことはよく覚えています。

ある日、営業所長の蛯名さんが、私の乗務するバスに乗りました。たまたま転手がブザーで私に返事をして居なかったのを、がみがみ叱り、故障していたという言い訳を聞きませんでした。
正義の味方の私、頭に来たので、当時読んでいた「ヒューマンリレーション」の本を引き合いに出して、長々と手紙を書き、会計係に「明日所長さんに渡して」と預けて帰ったのです。
翌朝読んだ所長さんはびっくりしたでしょうね。エリートコースをまっしぐらの、サラブレッドが、小学校しか出ていない小娘に説教されたのですから・・・しかしさすが彼は立派でした。すぐ、運転手に「誤解して悪かった」と謝り、会計さんを通して、私に「その本貸してくれ」といわれました。お互い照れて、直接話はしなかったけれど、以後私はこの所長を尊敬していました。そうして、蛯名所長は、翌年友達の冤罪を救ってくださったのです。

東京のバスガール、結構見た目はステキな職業でしたね。でも裏側はいろいろ大変でした。

一つだけ、あらゆるバス会社が、隠蔽して何の記録も残さなかった、暗い歴史を語らせてください。
バスガールのことを、書こうとした文筆家たちが、ぶつかった固い壁、国会図書館にも、どこにも資料が無かったそうです。それは「チャージと臨検」の問題、チャージとは、会社の金を盗むこと。臨検とは、抜き打ちの身体検査です。人権蹂躙が普通に行われていた歴史は、労働組合さえ口を閉ざして、隠蔽してしまいました。後年それをブログに書いたのは、私一人だと言われました。

バスの車掌は、毎日現金を扱います。中には少数の不心得者が居て、お金を盗むのでした。日当の何倍も盗む子が居たので、会社は抜き打ち的に身体検査をしました。勤務中に突然交代させられて、検察員という女性達に下着の中まで調べられました。不正がばれて首になる子も有りました。
でも、冤罪も生まれました。

入社8年目の頃、一年後輩の仲の良い友達が、臨検のときポケットに百円玉が入っていたため、クビと決まりました。
彼女は7人兄弟の長女で、一家の大事な稼ぎ手です。首になったら大変なのです。
不正をする子が、ポケットにコインを入れている訳がありません。盗むなら紙幣を肌着に隠す筈です。ポケットはカバンの脇にあります。真面目な彼女が、超満員の車内で無理に切符を切って歩いたから、コインがポケットに落ちたのです。7年も勤続した子が、百円盗んで退職金を棒に振る筈はありません。
私は営業所長に談判しましたが話しになりません。
前年まで所長だった蛯名さんが、本社に栄転していたので、組合のおじさんを誘って会いに行きました。
前の年、私が生意気なことを言ったのに、ちゃんと受け止めてくれた方なので、友達を助けてくれるのはこの人だと思ったわけです。事情を話すと、蛯名氏は「あの人がそんなことする訳が無い、大丈夫、任せなさい」といって、すぐに助けてくださいました。

でも冤罪で首になった子はきっと居たことでしょう。関西では、冤罪を訴えて自殺した少女がありました。人権意識も、セクハラも、パワハラも話題にならない時代でした。

私は9年余り勤めて先の展望が無いので辞め、小さな総菜屋を始めてあえなく失敗。また一文無しになり、得られる仕事にあれこれ全力投球して、遅く結婚し、遅くに二人の子を産んで、育てる間も働き通しました。
68歳まで、家庭のお掃除の請負をやっていましたが、辞めてからは大急ぎで楽しみを探しました。
69歳でパソコンを始め、70歳で、通信制の中学を見つけてすぐに入学、月2回神田までスクーリングに通って、連立方程式が解けたときは、最高に嬉しかったです。同年代のお仲間と楽しい3年間でした。
74歳から「七十代万歳」というブログを始めて、今では「八十代万歳」になっています。

75歳で、縁もゆかりも無かった三芳町に引っ越しました。これがまた最高のご縁を生んで、76歳で昔話の語り手の仲間に入れて頂きました。これがもう楽しくて楽しくて、人生の中で、今が一番楽しく幸せだとおもっています。

戦争は一番辛かった、いつの時代も理不尽なことは多かった、でも私は、いつも自分の判断で生きてきました。誰に何と言われようと、自分の考えを押し通しました。人の見る目を全く気にしない頑固者でした。だから七十過ぎてから、最高と思える幸せが得られたかなと思っています。

「76歳で語り手になった」と言うと、皆さんからびっくりされるのですが、幾つになっても新しいことを始めるのに遅すぎることは無いと思っています。今此処に立っているのも初めての体験です。

三芳町には茅葺の民家が保存されていまして、9月8日の夜「民家で夜語り」というイベントに出演するのが今の最大の楽しみです。去年は民話を語りましたが、今年は司会者デビューをいたします。八十代って楽しいです。

長々と年寄りの話しを聴いてくださいまして、真に有難うございました。
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帰りに、村上さんから巨大なオクラの花を頂きました。
花を食用にするオクラで、普通の花の4倍はありびっくりしました。

帰ってすぐl、お酢を垂らした熱湯にくぐらせて、三杯酢でいただきました。粘るので、夫は嫌いますが、とっても美味しかったです。 終わり。
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by hisako-baaba | 2012-08-30 21:29 | Comments(17)

福島の旅 その6
郡山のお話し会などでお聞きした女将さんのお話、記憶に残った部分を書き止めて見ます。
朝日館で、前日のお客様を送りだし、今日のお客様を待っている時地震が起きて、液状化も見られた。
三陸育ちの女将さんは津波を思った。ご主人は、ここに津波がくることはないというが、倒れた仏壇から飛び出していたお位牌を拾って、車に乗り、ご主人に運転してと言った。会う人ごとに、逃げようと声をかけたが、近所の2軒に声をかけ忘れたことが、今も悔やまれてならない。

踏切は閉まっていて、新地駅には、お巡りさんの気転で奇跡的に避難できた常磐線が止まったままだった。
踏切を突破して役場に向かったが、息子さんと携帯が繋がらない。心配でならず、息子さんの職場に向かったが、無理なので引き返す途中にコンビニが有った。もし津波がこないで、予約のお客さんが着いたら、料理ができないから、おにぎりを買って行こうと、ぐちゃぐちゃの店内で探し出したおにぎりを全部買った。
その後役場の駐車場には停めないで、もっと高いところに車を停めたら、津波が役場の駐車場をかき回していた。恐ろしくて動けなかった。
避難所は満員で、奥の部屋に入った。乾パンは出されたが、お年寄りには食べにくい。そこでおにぎりを、一つづつ配ったら、きっかり人数分有って、一つも過不足がなかった。
このために買えたおにぎりだったという気がした。
息子さんとも電話がつながり、避難所暮しが始まる。


息詰まるお話でした。踏切を突破出来ず、津波に呑まれた車もあったそうです。

朝日館の近くにこんな風車が立っていたと、矢部さんから写真をいただきました。
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風車の下には詩が書いてありました。

天の風となった人たちよ
風車を回して便りをください
颯と吹く風になって 高く高く遠い遠い飂(?)となって
遠くから吹きわたる声をきかせてください

風の鳥となった人たちよ
風車を回して便りをください
春の風光るときも さわやかな風薫るときも 若葉のときも
遠くから吹きわたる声をきかせてください
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by hisako-baaba | 2012-08-30 13:29 | Comments(6)

福島への旅 その5
26日夜は、仮設の集会所に二人で泊めて頂きました。
10時に横になったら、朝5時半までぐっすり。起きようとして、久しぶりの畳から、普通に立ち上がれない自分に気づきました。
そうだったのか。こうならない前に檜のベッドを買って良かったのだ。と感じました。
四つん這いになれば起きられるのでやれやれ。
そのまま散歩に出ました。

あたりは夜間照明付きの野球場などもある大きな総合公園で、仮設はサッカー場に建てられたのでした。とても美しい環境です。
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朝食のパンを食べて、9時過ぎに私は村上さん夫妻の車に乗り、矢部さんも一緒に車で出発。
隣の山元町の小学校の廃墟にゆきました。
ここはもう宮城県。瓦礫の山はそのままです。
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中浜小学校です。ここでは誰も死ななかったから、校舎をモニュメントにしようという話があるそうです。
高台は遠いので、三角屋根の下の物置に上がっていたら、津波は2階の天井すれすれまで来たそうです。
危機一髪、助かったものの、あたり一面泥の海で水が引かず、一昼夜飲まず食わずだったそうです。さぞ寒かったでしょう、怖かったでしょう。
やっと自衛隊のヘリで救出、先生と生徒は全員無事でした。
親御さんたちはどんなに気を揉んだことでしょう。助かった子の親御さんが亡くなられていた例もあるそうです。
体育館も天井は落ち、右側から襲いかかった津波に屋根まで呑みこまれたようです。この町の瓦礫はまだあの日のままでした。
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廃墟に立って、他の学校や保育所で、犠牲者が出たお話をたくさん聞きました。涙なしには聴かれません。
避難路を海沿いにとったため、車ごと呑まれて、沈む車内から子供たちを救い、全員救えなかったことを悔いたまま、低体温症でなくなった先生もあったとか。
子を失った親御さんたちの一部は、学校や保育園の対応が悪かったと、訴訟をおこしているそうです。そうせずにはいられないお気持ちもまた悲しい。
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この後、矢部さんは郡山に帰り、私は仙台駅に送って頂きました。
新幹線は「はやて」に乗れて、2時半帰宅しました。

とっても充実した三日間でした。
お世話になった皆様に感謝感謝です。

不思議だったのは私の脚、カートに縋らなくてもちゃんと歩いていたのです。
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by hisako-baaba | 2012-08-29 22:02 | Comments(4)

福島への旅 その4
26日の夕食は村上さんの御宅に招かれました。さすが旅館のご主人と女将さん、すごいご馳走が並びました。鯛もお野菜もビールも美味しかった!ご馳走様でした。
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仮設住宅の狭さは想像を超えていました。
四畳半二間とキッチン。押入れは片方の部屋だけ。ユニットバスに脱衣所はありません。

この茶の間は、息子さんの寝室兼ご主人のパソコン室。食事は4人がやっと。これで4畳半?と疑うくらい狭い。

新地町には「先祖伝来の山だけど、町にあげるよ」という方が何人も居て、町が買い上げ、希望者には、30年間無料で貸したり、安く売ったり、安い町営住宅を建てたり、無料のアパートも建てるそうです。
村上さんは、200坪買えるそうです。
都会では信じがたい広さだけど、百坪が普通らしいのです。
とにかく復興の進み方が早い町ですが、家が建つのは3年後だろうとのこと。狭い仮設で4年も暮らすようですね。
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集会所の入り口です。

避難所の時から、皆さんできることを自発的にやって、炊事も自分たちでやったそうです。
早朝に出勤する人の人数分、5時からおにぎりを握って、お弁当も持たせたのだけど、数が足りなくなりました。早起きのおばあちゃんたちが 食べちゃったのです。握っていた人は怒らないで、「そんなら明日から、ばあちゃんたちの分も作るべ」と、優しかったそうです。
新地の小川公園仮設には、素晴らしい人が揃って居ます。 (続く)
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by hisako-baaba | 2012-08-28 21:52 | Comments(6)

福島への旅 その3
26日朝、mimamaこと矢部さんのお宅で猫ちゃんたちに会ってから、彼女の車で新地に向かいました。山越えは大変なので、高速に乗って仙台経由と、とんでもなく遠まわりして行きました。
仮設の集会所で、かたってみっ会のお仲間と語りっこをしたかったのに、昨日の話をもう一度聞かせてと、村上さんの注文。私は同じ話を、小人数向けの語り方で詳しく話しました。

夕方お友達が帰られたあと、女将さんに朝日館の跡を見せて頂きました。
明治から続いた「朝日館」新館は津波の後も潰れた一階の上に、上の階が残っていて、看板が不思議なほど無傷で、朝日館はここだと主張していたそうです。
今は解体されて土台のみ。
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木造の百畳の大広間は跡形なく津波にさらわれ、陶器のかけらばかり夏草に埋れています。
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近くの堤防は17メートルの津波に呑まれて無残な姿。
手前は川でも海でもなく、建物がならんで居たところ。地盤が陥没したのだそうです。
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仮設は花いっぱい。
昔の長屋みたいで、プライバシーは全然守れないけれど、世話を焼きあって大きな家族のよう。
新聞記者などが、ここの仮設の明るさはなぜかと不思議がるそうです。よそとは雰囲気が全く違うと。

同じ集落の方々がまとまっているのと、しっかりしたまとめ役達がおられるからでしょうね。
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前日も大きなイベントを楽しまれたそうですが、会長である村上夫妻が留守でも、しっかり引き受けてくれるリーダーたちがおられるから、心配ないそうです。
(続く)
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by hisako-baaba | 2012-08-28 14:18 | Comments(8)

新聞に載りました
郡山でのお話会の記事が、福島みんなのニュースというウエブ新聞に載りました。ここからご覧になれます。
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by hisako-baaba | 2012-08-28 06:20 | Comments(2)

福島への旅 その2
写真と同時に長い文を書くと、エラーになってしまいます。だから先ほどはあまりかきませんでしたが、やはり第一日目の説明文が要りますね。

お話会第一部はわたしたち3人でした。第二部は、おはなし玉手箱の7人で楽しませて下さいました。
手袋人形を使っての「かっぱ」私も真似しましょう。
「かえるぼたもち」声も仕草も実に素敵な語りでした。
「ちいさなあなたへ」素敵な絵本の読み聞かせです。
「桃太郎異聞 」芥川龍之介の桃太郎を元にした珍しいお話。平和に暮らして居た鬼たちに、理不尽に襲いかかる桃太郎たち、戦争中は日の目を見なかったお話。
「あらしのよるに」朗読劇。三人の声質がそれぞれピッタリでした。
「ないないづくし」谷川俊太郎の、リズミカルな言葉遊びをみんなも参加で、締めくくりました。
楽しい楽しいイベントでした。その後の夕食会はフルコース、楽しくご馳走になりました。

ビジネスホテルに生まれて始めて泊まり、あまりにも合理的に設計された狭さが楽しくて、マットレスが柔らかすぎても、ぐっすり眠れました。

翌朝、新地に出かける前に、mimamaさんの御宅によって、兄弟ニャンコにあってきたわけです。
猫には超能力が有るのかな〜 私の事を味方だと瞬時に理解しました。不思議な感覚でした。(つづく)
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by hisako-baaba | 2012-08-27 22:46 | Comments(4)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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