海の向こうの孫に会いたいです

娘の方の孫です。今年3月スペインで生まれたので、来年か再来年会いに来てくれるのが楽しみです。
パパにも良く似ています。どっちに似ても根性ありそう!12月、8ヵ月半の写真です。
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7月初め4ヶ月にもならないうちにもうこんなでした。
よく成長して『超でかい』とみんなに驚かれています。
”闘魂”は仕事で来日したパパが買って帰ったものでしょうが、どういうつもりかな?似合ってる。
向こうのおばあちゃんには初孫ですし、みんなに可愛がられています。
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あちらでは保育園よりベビーシッターが普通なので、仲良しのルーマニア人のおばちゃんに生後6ヶ月から来ていただいているそうです。
出産や育児の休暇は日本よりはるかに長い国です。育児中の短縮勤務もあります。
共働きは当たり前。ママが子育てしながら働き続けるには、日本よりはるかに有利です。

第一だれにでも年次休暇1ヶ月ある国ですし、その休暇はとらなきゃいけないのです。
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# by hisako-baaba | 2005-12-18 17:28 | Comments(5)

整形外科に通う道
4年前、膝関節炎になったとき、近所には整形外科がなくて、1キロ先の医院に通い始めました。途中坂が有って、膝が痛い頃は通うのが大変でした。その後近所にも整形外科が出来たけれど変えずに、今も月に一度、往復2キロ歩いて通っています。
この先生は余計な治療をしないから好きです。膝に水がたまったとき少し水を抜いて検査の結果細菌感染はないし、X線で関節を見てもそう酷くはない。関節に油を注射しても私には効かなかったのですぐやめて、「水は自然に吸収される、暫くは痛むけれど自然に治るのを待てば良い。」と湿布をくれるだけで何もせずじっくり待ってくださいました。
「毎日電気をあてに通いなさい」なんて言えばお医者さんは儲かるのですが、余分なことはさせない先生でした。近所の人は『そんな医者やめて別の先生に行きなさいよ』と言ったけれど、何にもしてくれない事に私は信頼を置きました。第一、不安になったとき直接メールすると、ちゃんと返事で安心させてくれる先生なんてほかにいませんから。
筋肉を弱めてはいけないと言うので、少しの痛みならどんどん歩きました。一番酷い頃も中学のスクーリングは休みませんでした。帰りに辛くなりすぎて、教科書もノートも宅急便で家に送って杖にすがって帰ったこともあります。70歳でやっと入れた中学ですからね、一日だって休めませんよ。
治療を何もしなくても3ヶ月で杖が要らなくなり、6ヶ月で完治しました。その杖も6300円のを630円で買わせていただきました。区で9割も負担してくれるのです。「どんどん歩いて、寝たきりにならないで下さい」ということで。今は杖無しで走って歩いています。

医院までの道は住宅街なので花を探してカメラを向けました。医院の前の家にはみかんがなっていました。オレンジか何かわかりませんが。 紫式部もどっさりなっていました。
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この辺り一帯はつい近年まで農村でした。昭和30年代に一度来たことがあります。バスの車掌をしていたころで、仕事を教えた少女が、婚約者を見せたくて私を家によんでくれました。駅から20分も歩いたでしょうか、そこは貧しい農家でした。畑道は寂しくて、15~6歳の少女がバスの仕事で夜明けに出かけたり、夜中に帰ってきたりするのはかなり辛いことだったでしょう。
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でもその後じきに、貧しい農家はみんな『土地成金』になりました。今ではかなり高級な住宅地です。でもまだところどころに小さな畑が残っていて鶏が放し飼いされていたりします。まあそれも年寄りが生きている間だけのことで、相続税で物納され競売になってマンションが建つというパターンが多いのです。残り少ない農地がオアシスになっているのは今だけのようです。
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# by hisako-baaba | 2005-12-17 15:40 | Comments(4)

晩年の父・・・ルーツ・・・⑩
私の思い出の中に住む父はいつも和服姿でした。(アメリカ帰りで洋館に住みながら)
『ダイニング』と呼んでいながら食卓は北の和室に移してしまって、居間兼書斎にしていた部屋。
その絨毯の陽だまりで母と遊ぶ私を、大きなデスクから振り向いて見ていた父。
私を抱いて、長い廊下を行きつ戻りつなにやら語りかけながら寝かしつけてくれた父。廊下の天井の二箇所から下がっていたペンダント型電灯。物心つくかつかないかの頃の鮮やかな記憶です。後年発見した建築契約の書類の中に、電気屋さんが電灯の絵を丁寧に描いたものがあって、『ペンダント』と書かれた廊下の電灯は私の記憶の通りでした。

でもある朝父が起きて来なくて・・・夜中に突然死したことから始まった大混乱は何一つ記憶にありません。葬儀も多摩墓地への埋葬も翌年の辛い引越しも・・・嫌だったことは総て7歳の記憶から欠落しています。父の死は私にとってそれほどのショックだったのです。

父は晩年、元気だった頃もほとんど外出しませんでした。酒タバコ一切やらなくても運動不足と精神的ストレスが体に悪かったのでしょう。散歩に出ることもなくデスクに向かっていました。世の中は大恐慌で、農村も疲弊し娘たちが家のために身売りする時代でした。
父も株式の先行きが読めず、収入はほとんどなかったけれど、預金から家計に毎月200円の支出をしていました。起死回生の自信があったからでしょう。
滅多に来客もない家に、二人だけ義理堅く訪ねてくださる方がありました。一人は村田さんと言う大会社の役員さん、ハンサムで長身の上品な老紳士でした。お土産はいつも私への高級なおもちゃで、籐椅子の応接セットの精巧なミニチュアを一番懐かしく思い出します。
もう一人は私が「坪内のおじちゃん」となついていた下町のご隠居風のお年寄りでした。その方の娘さんが有名な人形店店主の奥さまなので、市松人形や羽子板をいつも頂いていました。

父の予言は当たらなくなっていたのでしょうが、このお二人はかつて父の予言で大きく儲けたことを忘れず、季節の挨拶に訪ねてきてくださったようでした。我が家は駅から1キロも離れていて坂の上にあったのですけれど。

茅場町に住んだ頃は電話がまだ不便でも、近所の株屋さんからは小僧さんが駆けてくれば用が足りたのに、だんだん山の手に住みたくなった父。でも麻布の次に目黒に土地を買ったとき、そこはまだ東京市内ではなかったのです。地名は 東京府下荏原郡目黒町大字宿山字東山。(やがて東京市が広がって目黒区上目黒となり、今は目黒区東山)当時そんな田舎に引っ込んだら株屋さんとは遠くなりすぎるのに、麻布に引っ込んでからも会員制の会報発行だけで商売が成り立っていたからでしょうか?
東山の家の前は練兵場の広っぱで、富士山が見えました。美しい姿の大山から丹沢山系、秩父山系と、まるでパノラマでした。きっとこのせいせいする風景の中に暮らしたかったのでしょうね。それは私の原風景となりました。だから今も私は山なみを眺めるのが大好きです。

戦後練兵場あとには公務員団地が建って、又それを壊して建て替えてより高層になっているようです。富士も大山も屋上でないと見えないのでしょう。

そして父の建てた家は戦後何十年経ってもしっかりと建っていました。私たちから買い取った方が長年住み続け、庭にもう一軒別棟を建てて、変わらぬ表札で住み続けられました。家を眺めに行った事が何回もあります。けれど代も変わったことでしょう。数年前行って見たら跡形なく、敷地いっぱいに安っぽい紫色のマンションが建っていました。胡桃の大木もなくなって、私の原風景は総て失われましたが、心の中の絵だけは鮮やかに残っています。両親の和服姿とともに。


当時の写真がいま出せないので、相変わらず百年前の写真を載せます。父31歳、母22歳です。
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# by hisako-baaba | 2005-12-16 17:36 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(2)

祖父への思慕・・・ルーツ・・・⑨

私が 幕末を生きた祖父にあこがれるのは、明治になるや物書きを目指した人だからです。
文章を書きたがる癖は祖父譲りだとひそかに思っています。
父も理路整然とした文章を書いたし、読書好きの母も作文は上手でしたが。

祖父はその父親も幕末の志士として死んだらしく、自分も尊王の軍に加わりながら17歳で病気により志を遂げず、といっても天狗党の仲間や彼の兄は敗北して殺されたのだから、生きてよかったのですが。屈折した思いを新聞発行にぶつけた祖父。酒を浴びて四十で急死。なんか会ってみたかった人です。熱い思いを聞いてみたかった。

祖父の早すぎる死で孤児の憂き目を見た父は、だから酒もタバコも一切やらない堅物でした。そうなると普通次の世代は又酒飲みになりそうですが、我が家の男性は誰も酒タバコ一切やりません。なのに私はビールの味が好き。但し350mlが適量でそれ以上欲しくはないけれど。甘口の日本酒コップ半分も適量。・・・おっと話がそれました・・・

私は幕末の物語に心惹かれますが、筑波山に決起した天狗党の乱はあまり語られていないのが不満です。もっと読んでみたいし、いつか筑波山に登りたいとあこがれています。

19歳の兄とともに17歳だった祖父が天狗党に加わって水戸を離れたとき、その母親はどんな思いで送り出したのでしょうか?私の曾祖母はどんな暮らしをしていたのでしょうか。幕末を生きた女性達は苦難にどう立ち向かったのでしょうか。色々気になりますが、祖父は身元を明かさなかったので調べる由もありません。
だからよくは解らないままの祖父に、尽きない憧れを募らせて居ります。

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# by hisako-baaba | 2005-12-15 13:14 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(5)

二度も歴史的大地震に遭いながら・・・ルーツ・・・⑧

又話を1906年(明治39)4月18日午前4時半に戻します。サンフランシスコの大地震です。
街は三日三晩燃え続けたといいます。しかし郊外のアパート(フラットかも)に住んでいた両親はほとんど被害を受けませんでした。そこで逃げてきた人たちを受け入れました。その中に淋病を患っている人が居て、洗面器を一緒に使ったため父の目に淋菌が入って失明の恐れがあると言われましたが、失明は何とか免れます。父29歳、母20歳、初めての大地震体験でした。

彼らは大正3年に東京に戻りました。初め茅場町に住み、やがて麻布に本宅を、鎌倉に別荘を持ちました。ここからは3番目の兄の記憶です。
大正12年9月1日真昼の関東大震災。当時は鎌倉が事実上の本宅になっていました。2番目の兄が鎌倉小学校に入学していたからです。麻布は父の仕事場で、週末は父も鎌倉で過ごしました。長兄も両方の家を行き来していました。震災当日麻布は留守番の長兄と女中のていさんだけで、後の全員が鎌倉に居ました。(父 満46歳、母37歳、次兄8歳、三兄3歳)家があったのは材木座で、二軒先まで津波は押し寄せました。ご近所には海軍の高級軍人達が新しい家を建てて住んでいました。
海寄りの隣人は杉本海軍大佐。伏見宮侍従武官でした。
北隣は奥名海軍大佐。戦艦比叡の艦長でした。両家には次兄と同級生の男の子が居ました。 

大地震当日母と三兄は午前中材木座海岸で遊び、お昼ご飯に戻ったところでした。(11時58分以後まで海岸に居た人々は津波に呑まれてしまったのです)                        
次兄は2学期の始業式から帰って、杉本君と一緒に奥名君の家で遊んでいましたが、お昼を食べに帰宅したところでした。
三兄は家の中で葡萄を食べていました。いきなり立っても座っても居られない揺れが来て這いつくばりました。電灯のガラスの笠が天井に当たって砕けたとき、屋根瓦が土煙を上げてざざーっと滑り落ちました。これが幸いしました。古い家は板の屋根の上に泥を塗って、その上に瓦を置いてあるだけでした。瓦を留めつけてないので全部滑り落ちて、家は軽くなり倒壊を免れたのです。ご近所は皆瓦を固定してあった為ほとんどが倒壊しました。
葡萄の皿を持ってはいつくばっていた三兄のところに女中のかねさんが飛んできて『おんぶっ』と叫び兄はお皿を持ったまま背中に飛びつきました。庭に飛び降りてお皿に気付いたかねさんが『そんなお皿捨てなさい!』と再三叫ぶので、しぶしぶ捨てたのが芝生の上でした。その一枚のお皿はその後何十年も、「地震で割れなかったお皿」と言われて家にあったそうです。
奥名君の家も瓦屋根に押しつぶされていました。奥名君とそのお母さんと杉本君が屋根の下で出られなくなっていました。奥名夫人が軽い火傷を負いながらもコンロの火を消していたのは幸いでした。父は奥名家の屋根をはがし天井を破って三人を引っ張り上げました。子供達にさしたる怪我も無く、奥名君は後々まで『おじさんは命の恩人です』と言っていたそうです。彼らの通っていた鎌倉小学校は全壊して女の先生が一人犠牲になりました。もし普段の日だったら生徒に多数の死者が出ていたことでしょう。
父は直ちに自警団の活動に参加し人命救助と地域の警備に当たりました。横須賀海軍基地建設の労務者らしい朝鮮の人たちが集団で線路を歩いてきたので訊いて見ると『横浜に妻子が居ます。帰ります』とのこと、横浜は火の海で天を焦がしていました。それに『朝鮮人が暴動を起こす』と言う根も葉もないデマがすでに鎌倉にも伝わっていましたから、彼らの集団が危害を加えられなかったかどうか心配なことでした。
兄の言うには「この流言蜚語(デマ)がこんなに早く広がったのはおかしい。電話も列車も不通で、民間人に通信手段は無かった。軍か警察の無線で流したのだろう」とのこと。日ごろ朝鮮人を差別しいじめてきた自覚があるから、『仕返しされるぞ』と聞いたとたん恐れて無線を使ってまで広めてしまったのではないでしょうか?そのせいで罪も無い朝鮮の人がどれほど殺されたことでしょう。ラジオも普及していない時代でデマに踊らされた人は多かったようです。その夜又デマが流されました。再び大津波が来ると、父は自警団の活動に行っていましたので母は近所の人と一緒に線路まで避難しました。近所の奥さんに子供達を頼んで母は一度家を見に戻ったそうで、暗闇の中で母と離れる恐怖に三兄は泣き叫んだことをはっきり覚えているそうです。津波は来なかったものの、北の横浜、東の横須賀の大火災は空を真っ赤に染めていました。ひときわ大きい火柱が立って轟音が聞こえました。海軍の燃料タンクが過熱して爆発したのだと後で知ります。
父は庭に仮小屋を建てました。その翌日未明から歩いて東京に向かいました。直線で50キロほどですが、被災地を避けて歩くので一日中かかったそうです。麻布市兵衛町1丁目は焼けましたが2丁目の家は無事でした。留守番をしていた長兄は、鎌倉は全滅したと聞かされ、近所の奥さん達と道端で呆然としていたところに父が戻ったので、幽霊でも見るような顔をしたそうです。
麻布の家の被害は予想外に少なく、米も充分にあったので、女中のていさんに命じて通りかかる避難民のために個人で炊き出しをしました。
鎌倉の家が女子供ばかりなので長兄を歩いて鎌倉に向かわせたようです。
何日後でしょうか、東海道線復旧に遅れて横須賀線も動き出すと、すぐ全員で東京に向かいました。大船で乗り換える東海道線が超満員で子供達は潰されそうになりました。周りの乗客たちが『ここに子供が二人居るんだ。これ以上詰め込むな』と叫んで守ってくれたそうです。鎌倉の家の修理代が翌月の家計簿に載っています。そんなに早く職人さんの手配がついたのは余程のコネがあったのでしょうか。修理が済むと家はすぐに売ってしまいました。(その頃から上目黒東山に土地を買う計画が始まったようです)

その当時の出納帳が出てきました。母は家計簿をちゃんとつける気は全然ない人で、毎日の支出金額だけ記入し、収入も書かず残高の計算もしません。そのノートに父が毎月総額を計算し日記風に書き込みを続けています。母の記帳がひどくいいかげんでも、父は文句を言わず自分で計算し、月々の収支に一喜一憂していたようです。支出の多い月は詳しく理由を書き、少ない月は喜んでいます。大正12年9月の終わりに父はこう書いています。【嗚呼(ああ)この九月は実に未曾有(みぞう)の大地震なり。われらは17年前桑港(サンフランシスコ)にて大地震に遭い、今回は又鎌倉別邸ともに更なる大地震にあう。しかしながら恐れず驚かず、損害は他家に比して最も僅少、かえって人命および他を救助し得たるを悦び、天に感謝す。地震直後より商品買い入れ悉く不可能となりしも、幸い現金も多く所有し、食料品も十分ありたる際にて10日ごろまでは費用もいらざりしが、250円と暴利のトタン屋根支出ありて、結局427円44銭の総支出となる。】この時代『百円取り』(月給100円)が憧れの的で、百円あれば一家5~6人暮らせたようです。父は住み込みの女中さん二人にそれぞれ月10円づつ支払っています。そんな時代にしては高額な出費です。 翌月は鎌倉の家の瓦屋根修理に116円、左官屋に50円60銭、土管屋に22円の支払いをしています。それにメガネが20円です。母の記帳は本当にいいかげんで、「7日 肉と散髪1円66銭」・・・肉と床屋の払いをごっちゃに書いているのがなんともおかしいですが、地震一週間後、もう肉屋と床屋が営業していたことがわかります。

地震の混乱の中で、罪も無い朝鮮人の虐殺が横行しました。このとき町工場を経営していた叔母(母の妹)夫婦は雇っていた朝鮮の人を帰宅させず自分の家の奥に匿っていました。外に出たら危ない状況でしたので。世情が安定するには時間がかかったことでしょう。その後台風など自然災害は多かったけれど、我が家は一度も被害を受けませんでした。最大の幸運は身内に戦死者が一人も無く、空襲被害も受けなかったことです。兄二人と従兄は戦場から無事帰還して長生きしました。アメリカの叔母のところも息子二人とも無事で長生き。すこし早めに亡くなったのは父と長兄だけでした。父が私たち兄妹3人を大幸運児と書き残したことは或る面当たっています。幸運と言うより強運ですね。どんな時もちゃんと生き延びましたから。私は父が望んだとおりの理由では有りませんが、結婚しても実家の姓のままなのです。子供達もそうです。我が家がご先祖様に守られているのならば、いずれ来る東京の大地震からも皆生き延びられるのではないかと少々期待しております。もちろん防災には気を配りながら。


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 市長邸で撮ったこれらの写真はサンフランシスコ大地震の2年後かと思われます。
 市長邸は地震の被害が少なかったのでしょうか。
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# by hisako-baaba | 2005-12-14 16:50 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(4)

父のなんとも不条理な子育て・・・ルーツ・・・⑦

もう一度話を明治に戻します。

父は金太郎という親に貰った名前が嫌いでした。日本に居た時は戸籍上の改名が出来なかったので、アメリカで申請しました。『近所に、K Nakataniと言う人物がいて、郵便物が間違って配達されるので困っています。』と言うウソで『亨』(とおる)と改名することがあっさり許可されたそうです。役人が嘘を真に受けたと言うよりは、金太郎ではかわいそうだと言う粋な計らいだったかも知れません?サンフランシスコに住む人間を調査するのも面倒だったでしょうし。

母がサンフランシスコで暮らしたのは明治36年(1903)に嫁いでから大正3年(1914)までの11年間です。
明治37年に長男が生まれています。父はいずれ帰国することを決めており、初めから日本で教育を受けさせたいと思っていました。
丁度帰国する友人が居り、その人に託して幼い長男を日本の祖父母に預けました。母もずいぶんドライな人だと思うのですが、父に逆らわず息子を手放します。祖父母と叔母は喜んで大事に育ててくれました。叔母の縁談に支障をきたしたほどだったと言います。

しかし、長男にはこれが大変なダメージとなります。3歳ぐらいから10歳まで預けられ、総領の甚六と言う感じの人だったので帰国した両親には妙に愛されなかったのです。帰国翌年の大正4年次男が生まれます。今度はとても賢い子だったので父は次男だけを溺愛します。
自らが孤児として育った父は、子育てにでたらめなところがありました。親としてどう対応すればよいかが全く分からない人で、占い師でありながら子供の個性を伸ばすことなど考えもしなかったのです。
次男誕生の5年後三男が生まれました。女の子でなかったので失望したのと、あまり目立たない子だったので、家の中での天下は依然として次男でした。次男が16歳、三男が11歳のとき女の子が生まれました。私です。父54歳母45歳で思いがけず待望の女の子ですから家の中心は私に変わってしまいました。
もう昭和の大恐慌真っ只中、満州事変が勃発した年です。父の仕事はどんどん悪くなる一方でした。
16歳の次男は突然天下を奪われて、混乱したでしょう。父にしてみれば16歳は立派に自立すべき年齢、もう甘やかす必要はない。しかし次兄にしてみれば15歳まで女中さんにかしずかれてお坊ちゃま暮らし、風向きが急に変わって厳しく自立を迫られたって対応できないはずです。
そうしたことに気付く母ではないし、第一家の資産が増えても減っても全く気付かない呑気な母でした。父は株の研究で頭が一杯で常に機嫌が悪い。娘を溺愛することに、癒しを求めていたのでしょう。
母は常に父の言いなりでした。反抗期の次兄は母のお上品な暮らしかたを酷く嫌って、貧しい友人の家に遊びに行くのが好きでした。彼は大学に進学しないで大会社に就職します。(父の資力が衰えたからと言うよりは、自立しなければというあせりがあったのかもしれません)彼は家の中で只一人のコツコツ型努力家でした。定年までその会社で勤め上げたのですから。大学を出ていない差別にあいながら、戦争に行く前も、復員してからも、ずーっと一つの会社で働き、三人の子供を育て上げた。それは“やまっけ”の強い我が家の誰にも出来なかった偉業だと思います。私がこの兄と気が合わなかったのは仕方のないことでした。
長兄は仕事に行くこともなく家にいました。父が外に出すことをはばかったようです。父の要求は高くて、長兄は到底それに応えられない人でした。幼い日一緒に暮らさなかったことも大きなマイナスになったと思います。次兄も反抗するし、三兄はまだ子供。その三兄の中学進学も父の命令で志望校の受験は許されませんでした。兄は工業学校に進みたいのに、そこは程度が低く入学が易しくて、一方第一商業は合格率7人に一人と厳しかったので、「お前なら商業に受かるのだから受験しろ」と命じられます。父の命令は絶対でした。結果三兄はエンジニアになるまでにえらく回り道することになってしまいました。
父の子育てがなんともはちゃめちゃだったことで三人の兄たちはそれぞれかなりの被害をこうむりました。私もその結果で妙なしわ寄せをこうむって、19歳から母の生活のかなりの部分を経済的に支えなければならなくなるのでした。
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 東京の祖父母と叔母と、そこに預けられた長兄。サンフランシスコに送るための記念写真。
 七五三なのでしょうか?海軍みたいな服を着ています。
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# by hisako-baaba | 2005-12-13 11:06 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(4)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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