8月15日。敗戦の日。14歳になったばかりだった私にとって、先ず思い出すのはひもじさ。
それからの五年十年はは生活との大戦争の思い出ばかり。
同じころ2歳半ぐらい年上の少年兵、猪熊得郎さんは満州で武装解除、ソ連軍に拉致されシベリアに送られたのでした。
今日は、猪熊徳郎さんのお話を転載させていただきます。
ソ連軍侵攻
「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は、公主嶺飛行場の第二分隊応援のため、無線機材と共に出発せよ」八月九日昼過ぎの命令でした。
少年兵の私は当時十六歳、旧満州の首都新京(現中国吉林省長春)満幅街に中隊本部を置く第二航空軍第二二対空無線隊に配属されていました。私は、早速、新京から南約五〇キロの公主嶺飛行場に無線機とともにトラックで駆けつけました。、
関東軍の作戦計画 満州国の四分の三を放棄
七月五日に策定された関東軍の作戦計画は、ソ連が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して持久戦に持ち込む。主力は戦いつつ後退し、満州国の四分の三を放棄し、大連、新京、図門を結ぶ線を防衛ラインとする。関東軍司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。最後の抗戦を通化を中心とする複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を守る。準備は九月末まで。ソ連侵攻はその後であろうというものでした。
根こそぎ動員
七月十日には在満の適齢の男子約四十万人のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員十五万人ほどを除いた残り約二十五万人が根こそぎ動員されました。
これによって関東軍は七十万に達しました。しかし、根こそぎ動員兵は老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいたと思はれます。竹筒の水筒、革靴がなく地下足袋と言った有様でした。そしてこの作戦計画は、開拓団や、在満居留民を置き去りにし、悲惨な結果を生み出したのでした。
○「国体護持」「棄兵・棄民」
兵士たちや一般居留民の知らない所で大きな変化が起こっていました。「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を十日朝行っていました。一方大本営は「対ソ全面作戦」を発動し「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされました。満州国の放棄、皇土朝鮮防衛の戦略のもと、十一日には「総司令部は通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続すべし」の命令を発して関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。事実上の逃亡です。また同じ十一日、関東軍総司令部は満州国政府をとおして「政府および一般人の新京よりの避難は許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家庭において待機すべし」の命令を発し一般居留民を置き去りにしての軍部とその家族優先の南下輸送を始めました。ラジオで「関東軍は盤石である。居留民は安心せよ」と放送されました。
新京帰着
私は、二日後「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。すべての分隊は中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で再び新京に戻りました。
八月十二日、新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり重要書類を焼却する黒煙が立ちのぼっていました。公園や広い道路には防御陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。
七月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たち、45才以上の壮年男子が「防衛隊」に動員されていました。日の丸の襷に、開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。
日の丸鉢巻き・水杯
十二日夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、全満各地の飛行場に展開していた、第2航空軍第22対空無線隊の各分隊は、新たな戦闘配置に付くため 新京満福街の中隊本部で先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞を聞いていました。「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹底すること。戦闘中の戦死、戦傷にもいささかも揺るぎのない体制を作ること」、「暗号書保管の担当者を定め、また焼却処分方法も周知徹底し、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、暗号書類は対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいていました。 出撃隊員全員日の丸鉢巻きです。水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。
杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。
「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点に遊撃戦を展開しよう。)」父のこと,家族のこと、故郷東京での思い出が、走馬燈のように頭をよぎりました。「いよいよだな、どうなるかな」、水杯を飲み干しました。
東部方面のソ連軍は牡丹江、ジャムスを陥し、敦化に迫っていました。西北部は大興安嶺山脈を突破し白城子、奉天、チチハルを目指していました。また朝鮮北部の雄基、清津等の港から上陸したソ連軍は北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。
私たちの分隊は、朝満国境近くの梅花口飛行場に派遣されることになり、十四日夜、新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。
棄兵・棄民
しかしこの頃、日本政府と大本営は、ポツダム宣言の受諾と「国体護持」の条件の明確化などの対応に大童で、無条件降伏に伴い関東軍をどう収束するのか、在満居留民の保護をどうするかなどの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのでした。
事実、旧満州・中国東北部にいた開拓団の三分一の八万人が、戦禍の中で、望郷の想いむなしく命を落とし、取り残された残留婦人・残留孤児は一万五千人以上でした。
第十三錬成飛行隊 最後の一兵まで戦う
十四日夜、私たちの分隊は新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていましたが、深夜の命令変更で、梅花口飛行場ではなく再び公主嶺飛行場に行き、第十三錬成飛行隊との協力となりました。
8月15日
貨車は十五日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。駅の様子がおかしいのです。天皇のラジオ放送があり戦争が終わったというのです。私たちはとにかく飛行場に向かいました。 十三錬成飛行隊長は「命令など何もない。我が飛行部隊は最後の一兵まで戦う」と言うことでした。分隊は早速ピスト(戦闘指揮所)にはいり送受信所を開設し対空無線隊として戦闘行動に参加しました。戦闘機がソ連戦車群攻撃のため次々と出撃して行きました。
停戦命令 高級将校の逃亡
8月17日夕刻、関東軍の命令を傍受しました。「『兵員名簿』、『兵器台帳』、『食糧台帳』を除いて書類すべて焼却せよ」というものです。 十八日夕刻、関東軍の停戦命令を傍受しました。停戦命令は部隊に伝達されました。
八月十五日から三日遅れの停戦でした。
ところが高級将校が「ソ連戦車の攻撃に行く」と乗り込みました。沈みかかっていた兵隊たちがみんな元気になり、一斉に帽子を振り出撃を見送りました。戦闘機は上空で旋回すると機首を東に向け、日本に向かって飛び去りました。この時、日本は敗けたのだ、と涙がこみ上げて来ました。送受信機のぶち壊しが始まりました。頑丈です。2階に上げて、階段を転げ落としたり、下のコンクリートめがけて叩きつけました。 武装解除までの混乱が始まりました。八路軍ゲリラの決起、満州国軍の反乱、日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人の日本人への襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。武装した中国人と食糧の争奪。兵舎の中も全くの無秩序で、痛めつけられた上官への仕返し、兵士同士の撃ち合い、前途を見失った古参下士官たちの自決、死体の焼却。
私たちの分隊もどう生きるか、行動を決めなければなりません。分隊の意見は二つに分かれました。十人が「大きな部隊につけば日本に帰れる確率が高い」と主張し、残り五人は「それは捕虜になる。生きて虜囚の辱めを受けず、歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。激論は平行線のまま結論が出ず十七歳の特幹同期の戦友とともに彼らは飛行場を出て行きました。明け方とぼとぼと立ち去る彼らを見送くりましたが、彼らは未だに日本に還っていません。ソ連兵に殺されたのか、中国人に殺されたのか。それとも飢え死にでしょうか。
収拾のつかなくなった部隊長は「自分の身は自分で処せ」と通達し、脱走が始まりましたた。脱走者たちは銃を突きつけ貨物列車を走らせましたが、ソ連機の銃撃、武装中国人の襲撃で大部分が命からがら部隊に戻ってきました。慌てた部隊長は「一丸となって帰り、祖国再建のために尽くす」と命令しました。
武装解除
8月末(日にちは正確に覚えでいない。) ソ連軍がはいってくる、武装解除をされるということになりました。飛行場の真ん中に武器、弾薬、飛行機を並べ、隊伍を組んで飛行場を離れました。自衛のためと3人に1挺の銃の携行と将校の帯刀は許されました。日本軍の部隊が出て行くのと入れ違いにソ連軍の部隊が入ってきました。街道上で双方の部隊がすれ違うのです。ソ連兵はマンドリンのような回転式の機関銃を抱え、汚れきった軍服に、泥だらけの長靴を履き、目をぎらぎらさせてやってきました。一触即発の危機というのはこういう時のことでしょうか。どのくらいの時間がたったでしょうか。彼らが離れていったとき、全身から力が抜けるようでした。
私たちは、山の上の高射砲部隊の空き兵舎に移りましたが、食糧はありません。 私たちの兵舎と糧秣倉庫との間には街道があって、ソ連兵がマンドリン型機関銃を持って警戒に当たっていました。夜になると特攻隊が組織され私は若いので、いつも指名され特攻班長でした。
真っ暗な夜、夜中に「山」と「川」の合い言葉でソ連兵の警戒線を突破します。倉庫から味噌樽や醤油樽、米袋を担いで、ぬかるみに足を取られながら、兵舎に戻ります。見つかれば射殺されるのですが、ただただ生きることに必死の毎日でした。
そしてシベリア抑留と続くのです。
私の16歳の夏の思い出です。