このところ、眼科と整形外科通いが忙しくて、どこへも語りに行っていませんでした。
地震以来、お話が頭に入らない時期が続いたしで、語りを忘れそうでしたが、久しぶりに「なごみサロン」で語って来ました。
去年ここで何を語ったか解らなくなったので、新しいお話しと思い、ほんの数日練習しただけで、「竹一本と 塩一升」を語りました。
【あらすじ】
ある金持ちの男が、町からの帰りが遅れて、村の神様のお堂に泊まった夜、山の神様が、「今晩お産があるから産声を聴きに行きましょう」と村の神様を誘いに来た。村の神様は、「泊り客があるで、行かれんから、一人で行ってきてくだされ」と言う。
やがて戻ってきた山の神様が、「今夜は二つのお産があって、金持ちのかかさんには男の子、その家の下女には女の子が生まれた」と言う。村の神様に「福運はどうかの」と訊かれると、
「男の子は“竹一本の運”で、まるでダメだが、女の子は“塩一升の運”で、これは大したもんじゃ」と言う。
神様の会話を聞いていた金持ちの男が「ウチのおかかも、下女も、臨月だが・・・」と気になって、夜明けに帰ってみると、神様たちが話していた通りに赤ん坊が生まれていた。
男は「ウチの息子に福運が無いなら、将来下女の娘と夫婦にしよう」と心に決める。
やがて大きくなった二人を結婚させたら、家業はますます繁盛して、大金持ちになり、かいがいしく働く嫁に父親は大満足だったが、まもなくぽっくり死んでしまった。
するとたちまち「下女の娘なんかいやなこった」と息子は牛一頭やって嫁を追い出してしまった。
牛は、娘を乗せて山奥の小屋に連れて行った。そこの炭焼きの若者と娘は夫婦になる。
ある日炭焼きが、山から綺麗な石粒を持って帰った。嫁に「これは金だ」と教えられ、翌朝二人で行って見ると、滝の両側に沢山の金が光っていて、二人は長者になった。多くの雇い人を置いて、塩を、毎日一升使う暮らしぶりになったのだ。
そこへ、元の夫が竹の杖を突いて、物乞いに現れた。
元夫は自分が追い出した女だとは気づかないまま、甕に入った味噌を貰って帰り、上のほうだけ食べて、甕を古道具屋に売ってしまった。
道具屋が甕を洗うと、底から小判が何枚も出てきて、道具屋が金持ちになった。
と言うお話し。
語っていて思うのですが、福運とは、誠実に努力できる性格、機転の利く頭、を授かることではないかと・・・
生まれつき金持ちだった男は、何の努力もしないで、才能を磨きもせず、困難に対処する能力を持てない運命を貰ったのだなと・・・
昔、20歳頃、渋谷駅前で、滔々と喋っている占い師がいて、人垣から覗き込んだ私をいきなり指して「あなたは一生お金に困らない」と断言したのです。毎日お金で悩んでいた私は苦笑してその場を離れましたが、なぜかそれが忘れられませんでした。
何十年も、ぎりぎりの生活があったけど、足りない分は自分の才覚で、風変わりな働き方もして、必ず稼ぎ出していました。
「贅沢が出来ない」ってことは、イコール貧乏だってことにはならないのかも。
身の丈に合った暮らししかしないで、「月賦で物を買わない、借金をしない」と言う方針は貫いた。「知足第一富」負け惜しみも含めて好きな言葉です。この程度は貧乏とは言えないのかもと、このごろ思うようになりました。
私は神様を敬うけど、願い事はしません。頭は下げても、ご利益は頼まない。幸せは自己責任だと思っちゃう人だから。ある意味傲慢なのかもしれないが。
なんとも理屈のつかない妙な自信があって、「私は大丈夫、上手く行くに決まってる」と常に思ってるのはなんでだろう?まあ、これはトクな性分だから、合理的でなくても気にしません。
この先も贅沢なご馳走は食べられないでしょうけど、まあ良しとしましょう。
昔語りを聴いてもらえさえすれば、幸福感に浸れる私です。これお金かからないし・・・