お断り
この記事は、書き加えまして、
2014年1月22日に掲載し直しております。新しい方の記事をお読みください。
なお、解説は
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あと書きは、
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96歳の遺言 久米 銈(けい) 聞き書き 中谷(なかたに)久子
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」と言う遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっと酷くなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。
私は大正6年3月17日生まれ、平成25年の今、満96歳になりました。
目は見えないし、耳もひどく遠いけど、アパートで一人暮らしをしています。次男には先立たれたけれど、遠くないところに嫁も孫もひ孫もいて、時々来てもらえるし、昼食と、夕食の時に、ヘルパーさんが1時間くらいずつきて、ご飯作ってくれる。
他は昼も夜も一人の時間が長いけど、最近自分で、死に支度を済ませたから、血圧も下がって元気が出た。
うちにはちゃんと檀那寺があってね、あたしが死んだら、和尚さんが来てこの部屋で枕経上げてもらえるように頼んであるの。そのお布施も準備してある。
その檀那寺の末寺にお墓も作ってある。遠いんだけどね。
市役所の人が来た時、死んだ後はどうすりゃ良いか聞いたら、12万円用意しておけば、柩も焼き場の費用も全て賄ってもらえるそうで、安心しちゃった。だからもう何の心配も無いの。
だけどね、昭和の戦争で、酷い目に遭った、あの辛い時代を、話せる相手が居なくなった。
友達はみんな死んじゃったもの。
あの時代をいま、話して置かないと、またバカな戦争を始めちゃいそうで恐ろしい。ひ孫やその子孫が、兵隊に取られたら大変だ。戦争だけは絶対やっちゃダメ!
目も耳も脚も不自由だが、口は達者だ。記憶が確かなうちに、聞いて置いてもらいたかった。
たまたま病院で、82歳の人と友達になった。東京の人で、焼夷弾の火の雨を知っているから、話が通じるんだ。私の話を、書いといてくれるというから、じっくり話して記録して頂くことにしたのよ。
では,おばあちゃんの一代記を読んで頂戴ね。
96歳の遺言 戦争だけはやっちゃダメ 久米 銈
生まれは浅草、観音様の後ろの方。浅草警察の近所。当時は「象潟」(きさがた)と言った。
母校は富士小学校、今もある。
近くにお富士さんのお灸を据えるので有名な浅間神社があった。
富士小学校の運動会の応援歌はきまっていた。(花咲か爺さんの曲で歌うんだ)
オーフジサンノ 神主が、
おみくじ引いて申すには、
フージはいつでも カーチ カーチ カッチカチ
父親は、建築の方の鍛冶職の親方。鉄の柵とか門扉とか、上野動物園の檻などを作っていた。
北に500mほどいけば吉原遊郭の大門だ。中で、引き手茶屋をやっている親戚のおばさんがいた。
吉原の中に公園があって、午の日が縁日で、夜店が出た。遊郭だけど、子供は自由に出入りができたんだ。
10歳くらいのころ、午の日に、引き手茶屋のおばさんを訪ねると、決まって小遣いを呉れた。
穴あきの十銭玉10個(1円)を、こよりでまあるく繋いだものを、長火鉢の引き出しにたくさん入れてあって、行けば、お友達にまで1束ずつ呉れた。当時の一円はたいしたもので、お年玉にもなかなかもらえない金額だったが、引き手茶屋のおばさんは、気前良くくれるのだった。それを持って、夜店に行っても使いきれる額じゃあなかった。
吉原の格式の高い大店には、引き手茶屋を通さないと上がれなかった。金持ちの客は、引き手茶屋に寄ってから、格式の高い大店の一流の花魁のところへくりこんでゆく。
引き手茶屋は、金持ち相手の商売だから、おばさんは景気が良かったのだろう。
吉原は、お金で買われたお女郎さん達を逃がさないために、堀で囲み出入口は大門nひとつだった。だから火事の度に、逃げ場がなくて多くの女性が焼け死んだ。
関東大震災の時も、ずいぶん多勢死んだと思うよ。
私が6歳の大正12年9月1日、関東大震災で、浅草は火の海になった。
両親と、兄と、弟の、5人家族は、急いで観音様の境内に逃げた。そこへ花やしきの人が一人で、足に鎖を付けた象を連れてやってきた。象の足の太さに初めてびっくりした。
母親は「象がもし暴れたら大変だ」と、今度は上野の山に向かった。しかし、「焼け野原の東京にいてもどうしようも無いから、何処でもいい、田舎に逃げよう」母親の決断は早かった。夫婦とも江戸っ子で、田舎はないのに、父親を急き立てて一家5人で日暮里駅を目指した。途中、橋の落ちた川では、赤羽工兵隊の兵隊さんたちが、船を並べて、上に板を渡してみんなを通してくれた。
上野は燃えてしまったから、列車は日暮里から出た。
私らは逃げるのが早かったので、駅に停まっていた列車に座ることができた。向き合った4人がけの座席に親子5人で座っていたが、この時、ホーム側に席をとったことが、幸運を呼んだ。
列車はなかなか発車せず、人々の波が押し寄せ、もう乗り切れなくなっていた時、知り合いの人が窓を叩いた。「親方どこに行くの?」と聞かれて、「田舎はないから、何処か壊れてないとこまで行こうと思って」とこたえると、「そんなら桐生に連れてくから、俺たち3人を窓から乗せてくれ」そこで窓からお婆ちゃんを引っ張り込んで、夫婦を入らせ4人の席に8人以上が重なり合って、桐生まで行った。その人の実家の離れの6畳にしばらく置いてもらい、父親は東京に往復して、家の焼け跡に小さなバラックを建ててみんなで戻った。4年後ぐらいにやっと家を新築できたっけ。
関東大震災で焼けても、親たちがいたから、子供は苦労しなかった。
私は浅草高等家政女学校で、和裁を習い、どんな着物でも仕立てられるようになっていた。
本当は子供が好きだから幼稚園の先生になる学校に進学したかったんだ。それがダメなら、杉野ドレスメーカーって洋裁学校に行きたかった。
親にいうと「何でそんなに外で働きたがるんだ」と反対された。女は家庭にはいれば良いという時代だったんだよ。仕方なく諦めたが、和裁の腕だけでは、後年暮らしは立たなかった。
もしもあの時、幼稚園の先生か、洋裁の先生の資格をとっていたら、戦後の苦労は半減しただろう。私の方が先見の明があったんだよ。
利口だった弟が、9歳で病気で死んでから、両親の運はだんだん悪くなって行った。
大正から昭和になって、世の中はひどく不景気になった。
私が14歳の昭和6年には満州事変が始まった。
始めちゃった戦争を、終わらせる知恵が日本にはなかったんだね。ボロボロになるまで、14年間も戦争ばっかりしてたんだから。
酷い目に遭ったのは兵隊さんだけじゃないよ。女子供や年寄りが、どんな辛い目に遭ったか、ちゃんと言っておかないと、またバカな戦争始めたら大変だ。あんた達が、兵隊に取られるようなことがあったら、それこそ酷いことになるんだからね。
満州事変の頃、近所に可愛い坊やがいて、女学生の私がその子を可愛がっていた。その子の母親の弟で、春吉という人が、私を見染めて将来嫁にしたいとひそかに思っていたんだそうだ。
その時彼に最初の赤紙がきて、満州事変に出征して行った。
無事帰還した彼は、板橋に移転していた私の家を探し当てて、嫁に欲しいと言ってきた。親も気に入って結婚が決まったが、彼は巡査だったので、嫁になる者の身元調査は厳しく、親戚まで調べられた。それにもパスして20歳の時25歳の彼と結婚した。
親は「何で一人娘を、危険な職業の人にやるんだ」と呆れられたりしたそうだ。
その頃の結婚だ、親が気に入れば、好きも嫌いもあったもんじゃあないさ。
以前から知っていたから、結婚してもにいさんと呼んでいた。子供が出来てからは、父さんと呼んだ。
夫は私を大切にして、自由にさせてくれた。優しい人だったよ。
夫は、天皇陛下が大好きで、皇宮警察の騎馬警官になりたくて、警視庁に入ったが、その試験に一度落ちて、錦町警察だったかに勤めながら、次の試験を狙っていた。
板橋に住んでいたかったが、巡査は、勤務先の近くに住むことが義務付けられていたので、巣鴨の借家に引っ越した。
けどじきに支那事変が起きたんだ。
昭和11年5月に結婚して、12年7月支那事変が起きると同時に、夫に2度目の赤紙がきた。長男が生まれて半年。結婚生活1年2ヶ月で、夫を兵隊に取られちゃった。もう一度、皇宮警察の試験を受けようという時だったのに。
兵隊に行った人の給与が、留守家族に全額渡されるようになったのは、ずっとあとのことで、私たちには10円しか支給されなかった。ひと月10円で暮らせるわけがなくって、親の援助に頼る日々だった。
中国の戦場で夫は、部隊を救う大手柄を立てたそうだが、酷いマラリアになって、3年ほどで帰還した。
昭和15年4月29日、天長節の日に夫は金鵄勲章を貰った。東京では一人だけだったので新聞報道でも目立った。16年夏の読売新聞に私ら一家の写真と記事が大きく載った。
主婦の友の、昭和17年1月号の、総理大臣 東条英機夫人を囲む妻たちの座談会に、私も出たんだよ。金鵄勲章の妻として呼ばれたらしい。
その読売新聞も主婦の友もとって置いたが、引越しを重ねるうちに、新聞はなくしてしまった。
金鵄勲章なんかもらったって、病気になって帰されたんじゃあどうしようも無いやね。
マラリアってひどいんだよ。夕方の決まった時間になると、高熱が出て、寒い寒いとガタガタ震えて、暴れ出す。布団かぶせて大の男が馬乗りになっても、振り落としてしまうほどなんだ。
帰ってはきても、マラリアで弱った身体に肺結核を発症、警察の仕事が務まらなくなって、退職しなけりゃならなかった。戦場で病気になって帰っても、何の保証もなかったんだよね。
工場に再就職はしたものの、昭和18年5月19日に、32歳の若さで死んじゃった。可哀想だよ。子供達の可愛いさかりも見られないでさ。
夫の告別式は、実家の父親の百か日の法要の日と重なって忙しかった。逆でなかったのはせめてもの幸いだったけれど。
戦争で病気になったんだから戦病死と認められ、九州の部隊に書類を出した。その部隊が沖縄で玉砕しちゃって、戦争が終わったら、提出した死亡診断書が見つからなくなっていた。それっきりうやむやにされて、結果戦病死とは認めてくれなかったよ。
長男が生まれて半年で、夫は戦争に行っちゃった。
次男が生まれて半年で、今度は帰れないあの世に行っちゃった。
結局私は、いつも誰も頼れないまま一人で頑張るしかなかったんだ。
父親も戦争中六十代で死んじゃったしね、男を頼ることのできない運命なんだろうね。
夫が死んだ時、あ人の姉さんはひどかったよ。「あんたたち親子の面倒までは見られないから」と言って、お骨を勝手に九州に持って帰ってお墓に入れちゃった。姉さん一家は九州に疎開しちゃったし、それっきり、どこのお寺に葬ったのかも知らない。(筆者注 ― 夫のお姉さんは、27歳のお銈さんが、再婚しやすいように、遺骨を引き取ったのかもしれませんね)
後になって、「あの時は何にもしてやれなくて済まなかった。親子で九州へ遊びにきてください」と手紙がきたけど、食うや食わずの最中に、九州まで行く汽車賃が出せるわけないじゃないか。切符でも送ってくれるんならともかく。
結局夫のお墓参りは一度もしたことがない。仏壇でだけ、供養して居る。
父も夫も死んじゃって、母と子供2人と巣鴨の借家で暮らしていた。
空襲が激しくなって、上の子は1年生だったが、田舎がないので、集団疎開に出した。
やがて東京の空襲が激しくなり、3月10日だけじゃなく、毎晩毎晩空襲警報のサイレンで起こされた。
そして、昭和20年4月13日夜、豊島区の殆んどが火の海になったんだ。
330機のB29が豊島区を中心に火の雨を降らせた。
焼夷弾ってやつは一個のさやの中に38発も入ってて、空の上で38倍にはじけ飛んで、燃えながら落ちてくるんだ。何万の火の玉が降ってくるんだから、下に居る者は生きた心地はしないよ。
巣鴨は周り中が火だったから、逃げ道がまるでなかった。
2歳半の次男をおぶって、ねんねこ(子供を負ぶって着られる綿入れの半纏)着て、掛け布団一枚持って、どっちに逃げればいいかわからない状態だった。隣組の組織なんてなんの役にも立ちゃあしなかったよ。
火の雨の中逃げ惑って、水のある所へ行った。貯水槽の水を、バケツで何杯も何杯も掛けてもらって、布団をぐっしょり濡らして被って、火の中を逃げ回ったら、布団が乾いて燃え出した。それを捨てて、走ったら、誰かが「ねんねこ脱げ~っ」て叫んだ。背中が燃え出していたんだ。ねんねこは捨てたが、子供は着ていた着物まで焼け焦げて、火傷をして泣き叫んでいた。
東西南北どっちを見ても、火が燃えてるんだからもう地獄だったね。
その後はどうなったかわかんない。焼夷弾の雨に当たらなかったのが不思議だった。そこら中の地面に筍のように突き刺さってるものを、なんですかって聞いたら、焼夷弾だって言われた。
爆弾も落ちて、吹っ飛ばされた。朝になって、爆弾の落ちた丸い穴の近くに居たら、「ここで死ななかったなんて、奇跡だ」と驚かれた。
幸いにも空襲の晩 母親は、府中の叔父さんの家に泊まっていて助かった。私らも府中に行ったが、長く泊めて貰える状態ではなかった。叔父さんだけはとことん面倒見てくれようとしたんだが、他の家族の嫌がらせに耐えられず、当てもなく飛び出した。親戚にだって、無一文の焼け出されは、いい顔されるわけがないからね。みんな自分たちが食べるにも不自由してたんだから。
それからの、住まいの苦労はひどかったよ。落ち着く暇もなかった。立て続けに引っ越したこともある。
あの頃はね、家が広くたって、焼け出されの一文無しを泊めてやろうなんて家は一軒もなかったよ。みんな冷たかった。
終戦の前の日に、疎開しようと埼玉へ引っ越してしまった。その途端戦争が終わったので、引っ越し荷物を運んできた牛車に、そのまま東京へ戻ってもらった。無駄なことをしたわけだが、でも嬉しかった。日本が負けたんだが、もう焼夷弾に追っかけられないんだから、ただただほっとした。
それからも東京で焼け残った家を借りるのは大変だった。物価はどんどん上がったしね。
出征中の軍医さんが借りていた大きな家があって、奥さんが疎開して空き家にしてあるから、しばらくは住んで良いと言われたが、空き家になってからガラス戸も障子も全部盗まれちゃっていて、雨戸しかない。閉めれば真っ暗だし開ければ寒風が吹き抜ける。屋根があるってだけの家に、家賃払って一冬住んだ。
そんな時、所得税払えって税務署が言ってきたから、私は怒鳴り込んで行ったよ。
偉い人を出してくれって言って、談判した。「焼け出されに、何で税金をかけるんだ」って。そしたら、「今、暮らしに、一人当たり年4000円かかる。お宅は4人だから16000円の収入があったとみなし、その税金だ」という。「そんな収入があったら、こんな苦労はしてないわよ。払わなかったらどうするんですか」って聞いたら「差し押さえだ」って。次の日、税務署から調べにきた人が、家ん中一目見て「奥さん、税金なんかほっときな。鍋釜布団も仏壇も差し押さえにはならないから」と言って帰った。
家にも困ったが、配給はろくそっぽ無いし、闇で食料買うにも、買い出しにいくにもお金がいる。女所帯で子供抱えて、何をどれだけやって稼いだか、覚えきれないさ。
朝霞の畑に行って、人参を5貫匁(20キロ弱)400円で買って,電車乗り継いで船橋まで担いで行って、500円で売った。百円儲けても電車賃は高いし、乗り換え駅は階段だらけだし、割りの合わない仕事だったよ。
死んだ父親が鍛冶屋の親方で、テキ屋の親分と知り合いだった。テキ屋から浅草においでと言われて、道端にゴザ敷いて、いろんなものを売ったよ。惨めでさ、涙が出た。そのうち、テキ屋の子分に結婚しようと言われ、親分にいうと「そいつはまずい、浅草にこない方が良いから」と、板橋のテキ屋の親分に紹介してくれた。
やれることは何でもしたよ。何しろ家族に頼れる男は居ないんだから。
だが、再婚なんて全く考えなかった。二十代で再婚したら、子供が生まれるだろう。そのとき上の二人が切ない思いをする。子供たちを泣かせるようなことは絶対できないからね。
住まいも転々としたが仕事も転々とした。女に勤め先なんてほとんど無い時代だった。
テキ屋のよしず張りの売り場が一つ空いていた時、常盤台の八百屋が、キュウリを売りなと、品物を回してくれた。毎日仕入れに行って、安く売ったら飛ぶように売れた。けど町育ちだから、キュウリが夏だけだって知らなかったね。(今みたいにハウス栽培はないから夏野菜は夏だけだった)キュウリやナスが終わったら、冬野菜はうちに回してくれる余裕が無くなり、自分でほうれん草の産地まで毎日何度も買い出しに行ったよ。配給じゃあ足りないから、闇の食品はどんどん売れた。でも、運ぶ途中で警察に捕まれば、全部没収された。運び屋から没収した米や野菜は、一体誰の口に入ったんだろうね?
下駄を、栃木県まで買いに行って売ったこともある。当時は下駄履きの人が多かったから、売れたよ。鼻緒のすげ方も覚えた。(靴なんか高くて滅多に買えない時代だった)「東京で下駄の問屋になれ。そうすれば買出しに来なくても送ってやる」っていわれたけど、住む家さえ安定してないのに、問屋をやる力はなかった。
勤め口も有ったけどね、月給だと、給料もらうまでのお金がない。日銭が入らなきゃ、今日のご飯がないという自転車操業だから、良い仕事があっても行かれなかった。食べるだけで精一杯の時代が長かったよ。
四畳半ひと間を4500円で借りていた頃、都営住宅に申し込んだが抽選に当たらないから入れなかった。都営の家賃は月1500円、ひどく困ってる者から入れてくれりゃ良いのに、議員や役所の者にコネのある、困ってもいないやつが入れるのだった。
公団住宅は、収入の少ないものは申し込むことさえできなかった。金のないものは安い家に入れて貰えない変な仕組みだったよ。
家賃が払えず二ヶ月溜めたら、いついっかまでに立ち退きますと、誓約書を取られた。それでも行き場がなかったら、大家が踏み込んで来て、縫っていた仕立物をほうりだされた。
いつもいつも住まいに困っていて、19年間で10回以上引っ越しを繰り返した。
貧乏人は蔑まれる。身内からさえ疎まれる。けど、私が怠けて貧乏になった訳じゃないよ。
国が起こした戦争で、夫も財産もすべて奪われたから、貧乏してるんじゃないか。
今なら、津波で家をなくしても、仮設住宅に住める。空襲で焼け出された者は、仮設住宅の半分もない、四畳半一間だって、法外な家賃を取られてたんだ。国は何も助けちゃあ呉れなかった。何の保障もしなかった。
貧乏は恥ではないが、切なかったさ。
家が無くて困っていた時、池袋の街を歩いていて、ハンコ屋の店先に親友を見つけた。幼馴染がハンコ屋の奥さんになっていた。彼女のご主人は良い人でね、「お金貸すから家探しなさい」と言ってくれた。昭和39年のことだ。地獄で仏とはこのことだったね。
都内は高いので、埼玉の、鶴瀬の駅から遠い畑の中の貸家に入った。近所に風呂屋がない。自分で風呂桶を買うしかなくて、鶴瀬の燃料屋さんが、月賦ですぐに取付けてくれた時は恩に着たね。風呂はついたが、薪も、石炭も、薪を割る鉈も買わなくちゃならなくって、大変だった。
鶴瀬から池袋のハンコ屋に通勤して、給料では足りないから、夜なべで着物の仕立てをしていた。
そこに2年住んだところで、家主が住むからと追い出された。近くに家を見つけたが、自分で買った2万円の風呂桶を、そのまま置いて出てしまった。勿体無かったよ。あれは買い取らせるべきだった。
今度の家には10年以上住んだが、やはり売るので出てくれと言われ、その後みずほ台に25年住み、今のアパートにきて10年になる。ここもどうなるか分からない古いアパートだ。
病院の付添婦を長年やった。完全看護じゃない時代、付添婦は病人の傍に泊まり込んで世話をしたんだ。最期まで付き添った時、遺族が葬式の手配がわからず、お寺との付き合いもなく、右往左往するので、いろいろ教えたりしたものだ。
書道師範の資格をとって、子供達に書道と一緒にお行儀を教えていた楽しい時期もあった。
次男一家が近くにいて、心丈夫だったのに、私の77歳の誕生日に次男が突然死んだ。事故だった。あまりのことに、何も考えられなくなった。我が家の男はみんな運が弱いんだね。女ばかりしっかりしていてさ。
私は、派出婦などで無理を重ねたから糖尿病を悪化させて、心臓も悪くなり、近頃はほとんど目が見えない。耳も遠い。急に歩けなくなっちゃって、不自由だが、寝たきりでオムツばっかりになるのは真っ平だから、意地を張って起き上がる。
今が一番楽かもしれないね。
私は何にも頼んでないのに、家族や、いろんな介護の人たちが、みんなで相談して良いようにしてくれる。ありがたいよ。
朝は一人でパンを食べるが、昼と夕方にヘルパーさんが来てご飯作ってくれる。座って自分で食べられる。手はしっかりしているから、箸も使える。これ以上世話をかけないよう頑張っているんだ。
寿命は解らない、死に支度は、できるとこまでやってある。あとはお任せ。
ただ、子孫の代に、また徴兵なんてことがないように、みんなで気をつけて欲しいもんだ。
あたし等は国に騙されたんだ。踊らされたんだ。昭和初期のように、右向け右、右へ倣えなんて踊らされていたら、酷いことになるよ。歴史は繰り返しちゃあいけない。
原発だって同じだ。福島でどれ程の人が泣かされてるか、ちゃんと助けてもいないのに、再稼働したいとか、外国に売ろうだなんて、国は何考えてるんだ?信用しちゃダメだ。
とにかく戦争をする国にしちゃあダメなんだからね。
戦争だけはしちゃあならないんだよ。
戦争で良いことなんか何にもないんだからね。これがおばあちゃんの遺言です。
2013年5月 久米 銈(けい) 【 聞き書き 中谷 久子 】