一昨日、「96歳の遺言」を、書き直して、再度掲載したので、少し追加しようと思います。
お銈さんと私は戦後の船橋駅前で、行き逢って居たかもしれないのです。
彼女は埼玉の畑から人参5貫目匁(20キロ)を担いで船橋に売りに行っていた。
私は、学生でもないのに、学生連盟に入れてもらって、売り台を借り、ノートや飴を背負って行き、総武線沿線の駅前で、メガホンで叫んで売っていた。
だから私には、5貫匁の人参を担いで駅の階段を上がり降りする大変さが解るし、おけいさんにも、当時の苦学生たちの様子が解るのです。私は学生ではなく失業中の少女だったけど、叫んで物を売るのは普通のことでした。
お銈さんは、浅草の道端に茣蓙を敷いてものを売るとき、惨めに思えてならなかったと言います。それは彼女が30歳近い未亡人だったからでしょうね。
まだ十代の私は、「学生連盟のノートです。10円から有ります」と、メガホンの大声で叫んで売るのが、むしろ面白かったのです。
惨めに感じるか否かは、彼女と私の生活の困難さに大きな差があったからでしょう。彼女には3人の扶養家族が有ったし、安心して住める家もなかったのですからね。
14歳の年齢差は有るけれど、お互い戦後のあの混沌とした時代を生きた記憶は鮮明です。だから、彼女のお話を、聞き書き出来たのだと思います。
娘一家は、昨日は昔の同僚と会ったり、今日は、川越見物に行きました。
明日は、成田に行ってしまいます。成田を見物して一泊するのです。
私は成田までついて行くつもりだったから、成田一泊を決めたのに、目下体調不良で、ついて行かれません。
明日の朝でお別れです。
猛暑で、森の公園にいかれなかったのが何とも心残り。
老人には外出不能の暑さが続いたおかげで、留守番しながら、洗濯婆さんを勤めるだけの毎日でした。
さあ今夜は、どんな料理にしようかな。
[追記]
ここ一連の、
junkoさんの記事に、ぜひ行ってみてください。みんなで声を上げましょう。
豪雨被害の視察に行って、ゴルフ???本当なの、安倍お坊っちゃま。
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