68年前のあの暑い日。ようやく戦争が終わって、これで生きられると思いました。焼夷弾に追いかけられなくなったとホッとしたのです。
でもそのあとの暮らしのひどかったこと。
私は一度だけ夜の上野で、ノートと飴を売ったことがあります。昼間他の駅であまりにも売れなかったので帰るわけにもいかず、上野に行ってやっと売れたのでした。
駅の周辺には、当時パンパンガールと蔑まれた街娼の人たちが多勢いました。
遠目では男娼と見分けがつきませんでした。
当時食べるものもない中で、子供達や弟妹を飢えさせないために、街娼に身を落とした人は多かったと聞きます。
娼婦にならないまでも、夜の商売で苦労した人は多かったでしょう。
お銈さんや私は、プライドが高くて、水商売には向かないし、飲み屋で働く才覚も有りませんでした。だから地道に物売りだけをして、わずかな利益を得ていたのです。
闇成金の家に女中奉公しようと思ったこともありましたが、「ねんねの嬢ちゃんに務まる仕事じゃないよ」と女中頭に断られました。彼女は人を見る目があったのです。
敗戦後のインフレで、父の遺産が消滅しなかったら、ネンネの嬢ちゃんで、いられた私です。広い家で生まれ育った誇りが忘れられませんでした。
戦争で世の中引っくり返されなかったら、多くの子供は楽に育てて貰えた筈です。私だって、女学校を辞めないで済んだ筈です。
もっと辛い思いをしたのは、戦災孤児たちです。
浮浪児から、後に教師になった方が、話していました。街にたむろして、食べ物は罪悪感なしに盗んだ。生きるためになんでもしたが、仲間は何人も死んだ。
役人は浮浪児を捕まえるが、保護するつもりはなく、この子らをどう育てるかなんて考えちゃいなかった。
野良犬は街の迷惑だから、狩りこんで檻に入れ餌を少し与え、農作業を強いたりしただけ。
だから子供たちは逃げだして、街に戻り、又狩込で捕まってくる、繰り返しだった。3年経ってやっと長野の仏教団体に引き取られたが、土地の小学校は受け入れない。そこでみんな猛勉強をし、3年間の遅れを取り戻して周囲にも認めさせた。
誰のせいで、浮浪児になったのか?戦争のせいに決まっているのに、彼らは長いこと野良犬扱いされたそうです。
お銈さんは、お墓参りに行く時、上野を通るので、自分も大変な時だったけれど、必ずふかし芋を持って行って、浮浪児にあげたそうです。
浮浪児のグループには年かさのリーダーがいて、ちゃんとお礼を言って、みんなに分けていたそうです。
闇成金と、飢えにさらされていた庶民と、貧富の差は開くばかりの混乱期でした。
戦争ってそういうことよ。
飽食の時代に、飢えた経験のない政治家ばかりになっちゃって、大丈夫なわけないじゃない?
戦争の歴史をちゃんと理解しようとしないで、空々しいことを言っている。
体験がなくても、ちゃんと理解してよね、戦争の実像を。
とにかく、お腹が空くんだよ~
健志たち今朝帰っちゃいました。
駅まで2台のタクシーで送って、それ以上ついていけませんでした。
私はその足で病院に行って、郵便局の用事も済ませて歩いて帰ったから、ヘトヘトです。
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