お昼過ぎにおけいさんを訪ねました。
8月5日とは、全く別人でした。あの日、初対面の木村さんに、とめどなく語った元気はもうありません。お孫さんたちも、訪ねるたびに弱ってゆく姿を悲しんでいるそうです。私もショックでした。
訪問看護師さんが、床ずれ予防などのケアをして、お嫁さんとさまざま話し合って帰られました。
尿はカテーテルで取るのだけれど、食べないし、お水を飲む量も少ないので、排泄も少ない。
腎臓がひどく弱っているけれど、足の酷い浮腫みは引いていました。
目を開かないで、発音も聞き取りにくい。昼夜逆転して、昼間うとうと、夜中はひっきりなしに姿勢を変えてくれと家族を起こす。
昼間も眠っていない時は、ベッドに腰掛ける姿勢を要求。でも、3分ともたずに横になってしまう。
またすぐに、腰掛けの姿勢にしてと要求。
8月初めに行った頃は、お嫁さんに、いちいち「ありがとう」と言う余裕が有った。
今は、どの姿勢もじきしんどくなり、身の置き所がないのでしょう。要求が通るまで、言い続けます。
そんな中で、私の質問に、はっきり答えてくれました。お嫁さんもビックリ、今日の奇跡!?
Q 引き手茶屋のおばさんの髪型は?= 丸髷
Q 女学校の服装は? = 柄は自由。着物に袴。紺の袴は各自自分で縫った。
Q 結婚式は何処でどんなふうでしたか? = 巣鴨の家。持っていた着物の中で、一番良いのを着て、お下げ髪のまま。のちに丸髷は結った。
こんな具合に、ちゃんと聞こえる声で答えてくれました。びっくりしていたら、また目をつむって、ぐったり。
さて、もっとびっくりしたのは、焦げた子供の着物。
火の中を逃げ惑って、「ねんねこ脱げーっ」と言われて脱ぎ捨てたときには、坊やの背中はやけどしていた。水をかけて貰って助かったのでしょう。端切れを集めて作った、薄い綿入れの着物が、焼け焦げた穴もあらわに、保存されていました。
もっともっと驚いたのは、そんな生きるか死ぬかの瀬戸際で、彼女が重たい鞄を守っていたこと。
ご主人春吉さんの貴重な遺品の数々。荷物疎開に出してあって助かったのかと思ったら、これらの一部が焼け焦げているのです。
お銈さん自身の写真は一枚もなくて、ハンサムな春吉さんのアルバムと、数々の賞状。
金鵄勲章、青色桐葉賞。白色桐葉賞、勲章そのものは行方不明だけれど、その賞状の束。
数々の大手柄が書かれている。すごい兵隊さんだったのですね。騎兵伍長と有るのに、日本刀を持って戦った。サーベルではなく日本刀です。伍長が日本刀を持てたとは知りませんでした。