今日の午後、長尾さんと、おけいさんの留守宅に伺って、お嫁さんやお孫さんひ孫君にも会って来ました。
お嫁さんが「今朝見つけたの」と見せてくださった4個の勲章。小さな布袋に無造作にいれてあって、保存状態は良くありませんが、たくさんの賞状の中に符合するものがありました。
一つは、金色は剥げてしまったけど、紛れもなく金鵄勲章でした。(左から二番目が金鵄勲章。その右は青色桐葉賞。右端は、満州国建国功労賞。 白色桐葉賞は、賞状だけあって、勲章は見つかっていません)
春吉さんはとにかくかっこいい青年でした。馬に乗って結婚の申し込みにきた?おけいさんのご両親がすぐに結婚を承諾したわけですよ。かっこ良くて真面目で几帳面な人だもの。おけいさんは恋愛結婚じゃないと私には言ったけど、どう見ても、美男美女の熱烈な恋愛結婚でしょう。
最初の赤紙で、満州事変に行った時、すでに優秀だったようで、帰還後の24歳の巡査姿の写真にもう勲章が3個ついています。
(結婚前年の巡査姿)
その頃すでに、勲八等で、支那事変で勲七等、金鵄勲章で勲六等と目覚ましい出世ぶり。得意だった乗馬と射撃にも賞状がどっさり。あの時代の最高にかっこ良い青年だったのです。
だから、空襲の業火の中、おけいさんは、我が子と、夫の遺品を、命がけで守り抜いたのですね。
春吉さんは、32歳で亡くなられたけれど、二十代に名誉も恋も得られて、たいそう幸せな時代があったのですね。今の世では、勲章などたいしたものには思えないけれど、あの軍国主義の中で 、天皇陛下から勲章をもらうのは大変なことだったでしょうね。
命が短か過ぎた春吉さんにも、幸せを味わう素敵な日々があったことにホッとしました。
今とは価値観の全く違う時代に、数々の武勇伝を遺した春吉さんは立派です。
「金鵄勲章なんかもらったって、病気になっちゃあどうしようも無いさ」とおけいさんはいうけれど、春吉さんの手柄を証明する賞状の数々を、大切にしまっていたことが、春吉さんへの思いの深さを物語っています。「再婚なんて考えもしなかった」のは、確かなことでした。
様々な遺品を拝見して、私の語りも聞いていただきました。
「山んばの錦」と「貧乏神と福の神」を聞いていただいた後で、2年生のひ孫君が現れたので、「水のたね」も聞いてもらいました。
4時を過ぎてから、病院におけいさんを訪ねましたが、昨日以上に弱々しくなられていました。酸素を吸い、細い電線が胸にあって、呼吸は楽になっているようですが、もう氷が欲しいとは言われません。
私たちの呼びかけにも、あまり反応なさいませんでした。このまま眠り続けるのでしょうか。
空襲の大火災の中で、奇跡的に助かったのは、春吉さんが守っていたからかも。
ご苦労が続いても、逞しく生き延びられたのは、春吉さんが寿命を分けてくれたからかも。
そろそろこっちに来てもいいよと春吉さんが言っておられるのでしょうか?穏やかに目を閉じておられました。
もう苦しいことがありませんように。
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