安藤美姫選手トップでしたね。
ママは強いね。応援したいです。
gakis-roomさんのところを覗いたら、大型で強い台風26号が、水曜日にこっちの方に来るそうです。
語りグループの大事な例会なのですけどね。
火曜日は、歯科と、リハビリとなんですけど~ 台風の当たり年ですね。
台風には強烈な思い出があります。
小学校1年生の時、我が家は学校から目黒川を越えて、長い坂を上って、一番遠かったので、一緒に帰る人はいませんでした。
何台風だったか、雨風が激しくなって、授業は打ち切り。「いつも通る橋は、危ないから、目黒橋から帰りなさい」中年の女の先生に言われて、一人で帰りましたが、ずぶ濡れのドロドロになって、泣きながら家にたどり着きました。
昭和13年の事です。昔は、保護者に迎えに来させたりはしなかったのです。うちには電話が有ったけれど、一般家庭に電話なんてない時代でしたからね。
この日目黒川の木の橋は、殆ど流されてしまいました。一年生が一人で帰るのは、かなり危険だったと思うのですが。
それから20年後、昭和33年9月26日狩野川台風の夜、私が車掌として乗務していた、野沢竜雲寺行きの東急バス(終車)は、中目黒の手前、「正覚寺」の橋の上で立ち往生していました。正覚寺交差点から、中目黒駅一帯の道路が冠水していてい乗用車などが動けなくなっていたのです。
バスがいる橋の際で、地面が崩れ、4軒の家が、流されました。(上流の木の橋がいくつも流れたため、支流蛇崩川の水が、突き当りの護岸をえぐったのです)最後の一軒がもんどりうって落ち、橋の下を(バスの真下を)くぐって、下流に出たときは、バラバラの古材木になっていて、ほこりが立ち上っていました。
バスは何とか終点まで行き高台を回って車庫に帰りましたが、電車は不通、運転手さんたちは車庫に泊まり、私は友達を連れて、4キロ歩いて家に帰りました。二人ともずぶ濡れで、母が作ってくれた茶碗蒸しが美味しかったと、後年彼女から聞きました。
あの日組んだ運転手さんの家は、鶴見川の氾濫で、床上浸水していたのに、彼は帰宅できませんでした。
今ではきれいになった目黒川、おしゃれな街になった中目黒も、昔は暴れ川に脅かされていたのです。
其の後、私は、海抜30メートルより低い土地には住んでいません。今のマンションは、海抜37メートル以上の土地にあります。浸水被害だけは心配しなくて良いのです。