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戦中戦後の子供の暮らし・・・②
戦中戦後の子供の暮らし・・・②

【隣り組と配給】

隣組制度はいつ始まったのでしょうか。 我が家のあたりは、一つのブロックが二組になっていて、7~8 軒ずつの集まりでした。 組長は輪番制で、配給や回覧板の世話をしました。

町内会は隣組の集まりで、役員は退役軍人などでした。 回覧板は戦意高揚の檄を飛ばし、後に紙切れと化す戦時国債を買うことを勧めたりしました。 かなり無理やり買わされたようです。

八軒分の仕切りをつけた木箱に、家ごとの人数を書いたものを組長が保管していて、「お魚の配給! チリンチリン」という合図を聞くと皆組長宅前に集まります。 魚屋さんは人数分ずつ、小分けして入れ、みんな文句も言わずに買います。 何日に一回配給があったでしょうか ・・・、それはいつの間にか全く無くなりました。 たんぱく質から先ず不足して行ったように思います。

特に印象深いのは鰯の配給でした。 あれは戦時中だったのか、戦後だったのか? 戦後のような気もするのですが ・・・、鰯だけは一度にどっさり届いたので、仕切り箱は使わず、めいめい鍋に入れてもらいました。 たまに、決まって夜の 9 時半ごろ、「鰯の配給!」と、起こされるのです。 (当時は早寝でした) みんな喜んで飛び出します。

小型トラックから、一人に 5~6 匹づつ配給されました。 凄いご馳走です。 今よりはるかに漁獲量の多かった鰯。 大漁だと倉庫はないし、何しろ氷が足りませんから、すぐに売らなければ腐ってしまうのです。 そこで、漁港から真っ直ぐ消費地へ運んで、目黒にはいつも夜の 9 時半に着くのでした。

一人 6 匹は嬉しいけれど、冷蔵庫がないので、母と私は先ず一匹ずつ生でむさぼります。 夜だってお腹はすいていますから。 それから七輪に火をおこして焼きます。 明日のご馳走です。 翌朝はご飯がなくても鰯のご馳走というわけでした。

骨は焼きなおして食べました。頭は焼いて乾燥させて粉にして食べました。 鰯には感謝していて、いまだに大好きです。 漁獲量が減って、高級魚になってしまいましたが、昔は一番安くて豊富な魚だったのです。

【馬鹿げた命令】

我が家のあたりは駅まで 7 分の住宅街でした。 総て木造。 コンクリートの家は有りません。 駅に近いほうは大きいお屋敷が多く、家の近くは敷地が 30 坪から 50 坪あるかないかの家並みでした。 (今と違って当時の敷地としては狭いほうなのです。)

各家の門前には、防火用水とブリキのアサガオバケツ、火叩き(棒の先にはたきのように、縄を付けたもので、ぬらして火を叩き消すとされた道具)、鳶口(とびぐち、破壊消防で、家を崩す??)が必ず置かれていました。 いかに物資がないとは言え、こんな江戸時代の火消し道具を、各家に常備せよと命じた人は、何を考えていたやら ・・・

焼夷弾はナイアガラ花火のようにざあざあ降ってきます。 一発の焼夷弾は、落とされると空で火がつき、ハガネのバンドがはずれて38発に分かれてはじけ飛びます。 そんな焼夷弾をまとめて落としてゆくのですから、火を消そうなんて思ったら逃げ遅れます。 でも、家々には役に立たない江戸火消しの道具が、並んでいたのです。

もっととんでもなく馬鹿げた命令は、「空襲警報が鳴ったら防空壕に入れ」という事でした。 一家に一つ防空壕を掘る事を命じられ、庭が無ければ畳を上げて床下に掘れといわれました。 お嬢様育ちの母には無理なので、12~3 歳の私が掘ったのです。

当時軍需工場で「元気が出る薬」だ、といって配られた、覚せい剤の「ヒロポン」を 2 錠もらって飲んだ勢いで、一日で掘りました。 庭が狭いから、半分は家の縁の下に掘ったのです、命令だから。

でも私は、自分が掘った防空壕に決して入りませんでした。 木造住宅ばかりの山の手には焼夷弾ばかりで、爆弾は落とされなかったからです。 爆風の起きる爆弾なら、穴にもぐっている方が安全ですが、焼夷弾は日本の住宅を研究し尽くして作られたそうで、瓦屋根を破って畳の上に留まって燃え上がるのです。 当時そこまでは知りませんでしたが、落ちれば火災になることは知っていました。

防空壕に入っていたら、落ちてくる焼夷弾は見えず、いきなり頭の上で家が燃え出したら、逃げ道がありません。 蒸し焼きになるのはなんとも恐ろしくて、町会の役員が「空襲警報発令 !! 防空壕に退避 ! タイヒー !」とヒステリックに叫んで歩いても、こっそり庭で南の空を睨んでいました。

我が家から 800 メートルほど南に、同級生の家がありました。 商店街の酒屋さんで、男手が有ったのでしっかり屋根のある防空壕を作りました。 でも、防空壕の中で、彼女のお父さんは、不発の焼夷弾の直撃を受けて死にました。 もし不発弾でなかったら、一家全員防空壕の中で焼け死ぬところでした。 お父さんも店も無くした彼女の一家は、田舎に引き揚げて行き、やがて便りも途絶えました。

防空壕に入るのは危険すぎることなのに、「お上」はそれを命令し続けたのです。

【黒煙に追われて】

昭和 20 年春は、毎晩のように空襲警報が鳴り響きました。 寝間着になんか着替えてはいられません。 昼も夜も同じもんぺ姿。 毎晩まどろむ頃に空襲です。 昼間疲れ切っているし、栄養状態は最悪だし、眠くてたまりません。 空襲警報の大音響に気付かずに、ぐっすり眠っていた事さえ有りました。

でも5月25日の夜は、B29 の爆音は間近でした。 頭の上を編隊が通り過ぎたと思ったら、南の方から煙が上がりました。 油屋が燃えたとかで、炎は見えずに黒煙が辺りを包みました。 むせっかえるほど煙くて居たたまれず、母と二人で西の世田谷方向へ逃げました。 南風だったからです。

そのとき、隣組組織は一切機能していませんでした。 一緒に逃げようと言う暇もなく散り散りに逃げたのです。 坂を下りるともう煙は追ってきませんでしたし、辺りには畑もあって、安全な場所でした。 ほかに逃げてゆく人が居たのかどうか、暗がりでも有り記憶に有りません。

その辺に居ればよかったのですが、逃げ始めると足が止まらなくなるのですね。 何故か 3 キロ先の練兵場(軍隊が訓練する広い原っぱ)まで行ってしまいました。 そこには兵舎がありましたから、より危険なはずなのに、煙から逃げる心理は、ただただ広い原っぱに行きたかったようです。

塹壕(竪穴)の中にへたり込んで、辺りを見回すと、360 度どちらを見ても赤々と炎に映える空でした。 いずれも遠くでしたけれど。 絨毯爆撃ではなく、点々とあちこちが燃えたようで、3 月 10 日のような物凄い人的被害は起きなかったと思います。 死者が何人と発表される時代では有りません。 近隣の被害でさえ、死者数は知り合い以外わかりませんでした。

翌朝、『ああ、とうとう焼け出されてしまったわね』といいながら戻ってみたら、隣組の家並みはちゃんと残っていました。 数区画先まで焼けてきて、いきなり風向きが逆になったとのことでした。 でもそのとき、それほど喜ばなかったのは、どうせ明日には焼かれるだろうと思って居たからで、ただ、今夜はとにかく布団に寝られると、ほっとしました。

庭の防空壕(ただの穴)を見たら。 ピカピカ青光りするハガネのバンドが落ちていました。 バネのようで、端に引っかかる止め金がついていました。 後にそれが、焼夷弾を19発ずつ束ねていたバンドである事がわかりました。 これが当たっても死んだかも知れません。

日本では、金属がなくて、鍋釜から指輪まで供出させられていたのに、アメリカは、焼夷弾を束ねるだけのバンドに、ピカピカ新品の鋼(はがね)を使っていたのかとあらためて驚いたものです。 それからも毎晩警報は鳴りましたが、近所に焼夷弾が落ちることは有りませんでした。

私たちは煙に追われただけで、火に追われたこともなく、死者の姿を見ることもなく、家も焼かれず敗戦を迎えることが出来ました。 東京の人間としては実に幸運だったと思います。 家族は誰も戦死しなかった。 そんな大幸運に恵まれながら、しかし戦後のインフレで、以後、学校には行かれなくなったのです。 それは私には大変なことで、学歴なしの大きなハンデを背負って、生活と戦うことになったのでした。

練兵場脇の兵舎は、最後まで焼かれず、敗戦後暫く『引揚者住宅』になっていました。

【機銃掃射の恐怖】

私たち女学校 2 年生は、家から 4 キロ先の工場の焼け跡で、毎日灰の中から貴重な部品を探していました。 山の手の焼夷弾火災の熱は金属を溶かすほどではなかったようで、真鍮の部品は変わりなく光っていました。 灰が舞い上がるのに、マスクもないし、物陰一つない炎天下の辛い作業でした。 (工場は完全に焼け落ちて瓦礫の山だけでした。)

通勤も、電車は空襲警報が鳴れば止まりますから、あてにならず、歩くことが多かったように思います。 日曜日は休みでした。 からからに乾燥した感じのある日曜日(だったと思うのですが)、昼下がりに私は駅の方から家に向かって歩いていました。 空襲警報は出ていませんでした。 出ていれば勝手に歩いていられなかったはずですから。

そのとき西のほうから、ちいさい飛行機が一機迫ってきました。 私は西にむいて歩いていたのですが、いきなりバリバリバリッと機銃掃射の音がしました。 一本南の道路を狙ったようです。

私は人けのないお屋敷町の、長い塀の外を歩いていたので、もしこの道を機銃掃射されたら、逃げ場は有りませんでした。 ぞぞっと全身総毛立ったのを覚えています。 その敵機は、ほんの冗談だったのでしょう。 何しろただの住宅街で、女子供と年寄りしか居ないはずでしたから。 機銃掃射は一瞬で、そのまま東へ飛び去りました。 悠々と。 迎撃するものは有りませんから。

後年、イラク戦争で、チグリス川に逃げ込んだイラク兵に、執拗に浴びせられた機銃掃射が恐ろしくて、背中がぞくぞくしたことを覚えています。 思わずやめてーッと叫んでいました。

【飢餓との戦い】

焼夷弾や機銃掃射の恐怖より前に、飢餓の恐怖が有りました。 戦争中も配給は遅れたし大変でしたが、戦後の方がもっとひもじかったように思います。 「お米の通帳」を初め色々な配給品の券がありました。 衣料切符も割り当てられたけれど、その券で衣類を買うお金もないから、券をお醤油に換えてもらったりしました。

タバコをすわない男の人も、いちいち配給を買ってきて、食料と交換していましたが、女性にはタバコの配給はありませんでした。 お米の通帳は、初めのうち、おとな一人一日二合三勺(2 カップ強)買えました。

すごく多いでしょう? 今と違って、米で蛋白質まで総ての栄養を摂取しなければならなかった時代なのです。 もともとおかずはほんのわずかで、時には梅干だけで、米のご飯を山盛り食べていた日本人なので、一日に一升飯(米で 1.8 リットル)を食う人さえいたのです。

米の配給がどんどん少なくなると、たちまち栄養失調になりました。 戦争中から米屋で精米することが出来なくなって、玄米の配給でした。 玄米のままでは、圧力釜もないからマトモに食べられません。

乏しい燃料で、お粥になるまで煮るわけにもいかない。 だからみんな一升瓶に玄米を入れて、竹の棒で突っつきました。 子供もおとなも手のあいている間中、辛抱強くビンの中の米をつきました。 その玄米の配給さえほとんどなくなって、遅配欠配、米の通帳に何日も前の分が記入されていない事態になりました。

米の代わりに買わされた、大豆の絞りかす(油を絞ってぺちゃんこに干からびた硬い大豆)はまだましで、憎らしかったのはフスマです。 小麦粉を作った後の皮の部分。 今ではその食物繊維が珍重されていますが、当時は粉にひく事も出来ず、お粥に混ぜても消化できないでそのまま胃腸を通過してしまうから栄養にはなりません。 そんなものを買わせておいて、米の代わりだから、そのぶん米は減らすというのです。

アメリカ軍が進駐してきて、GI 達の血色の良さが目に付きました。 日本兵はろくなもの食べていなかったけれど、アメリカ兵は栄養満点の食事をしていたんだなあと思いました。 日本人をこれ以上飢えさせては不穏な動きも出てくるだろうし、とにかく食糧援助だということで、アメリカから色々送られてきました。

配給になったとうもろこし粉は、当時流行ったリング型の鋳物の鍋で大きなドーナッツ状のパンに焼き上げて美味しく頂きました。 何故かザラメ(砂糖)が大量に配給され、そのぶん米は減らされました。 砂糖が米の代用になるはずはないのに。

虫が混じっていたりしましたが、とにかくカルメ焼きを上手に焼く競争をしました。 重曹を入れてかき回すタイミングで、ふっくらしたりぺちゃんこになったりしたものです。 でもお砂糖ではお腹は膨らみません。 お腹が空いていない時間は有りませんでした。

買出し列車は有名でした。 でも衣類を持ってゆかないと農家で米は売ってくれません。 着道楽をしたことのない母に、米と交換できる和服など全くなかったし、私の服はぼろぼろで、二、三枚の良いところを集めて、ブラウスを作っていました。 家に大正時代のシンガーミシンがあったから助かりましたが。 自分の着るものも足りないから、米の買出しにはいかれません。

新座辺りの農家に行って、サツマイモを一貫目 (3.75kg) 買って帰るのがやっとでした。 体重 40 キロ足らずだった私が、農家から駅まで 4 キロの道を芋を背負って歩くのはしんどい事で、電車 3 本乗り継いでの一日仕事でした。

【野草とかぼちゃとイナゴ】

配給は当てにならず、常にお腹がすいていたので、皆食べられるもの探しに懸命でした。

土の道だから雑草も生えてはいましたが、ハコベやタンポポはご馳走で、アカザやギシギシはあまり美味しくない。 それでも生えるそばから食べつくしてしまいました。 ツクシやノビルのような美味しい草は街にはありません。 いつも、食べられる草は生えていないかと、下を見て歩きました。

畑にするほどの庭はなかったけれど、サツマイモとじゃが芋を 2 本ずつ位植えました。 縁先にかぼちゃを 4 本ぐらい蒔いたのですが、つるを這わせる地面がないので、竹竿で屋根に誘導しました。

逞しい栗かぼちゃは、どんどん屋根に上って花をつけました。 私は毎朝早く、はしごをかけて屋根に上り、咲いたばかりの雌花にオシベの花粉をつけて、花びらを閉じて結びました。 屋根の上に大きなかぼちゃが 6 - 7 個出来たでしょうか、一番大きいのは一貫三百匁(5 キロ弱)有りました。 (ウチには大きな台秤が有ったのです。)

毎日屋根の上を歩き回ったので、後に酷い雨漏りを引き起こしてしまいました。 瓦屋根の棟の上を手放しで歩くのを得意にしていたオテンバな私だったのです。

かぼちゃの茎は蕗のように煮て食べました。 葉っぱは焼いてもんで、まずいけれどふりかけに。 サツマイモの茎はご馳走でした。 きんぴらにする油はなかったし、マトモな醤油も無かったけれど、でも結構な食べ物で、今でも好きで、見つけると買います。 皆さんご存知ですか? 『わさびの茎の佃煮』には、サツマイモの茎がわさびより多く入っていると、ちゃんと表示されている事を。

子供同士で電車に乗って、イナゴ捕りに行ったのは、敗戦後だと思います。 たんぱく質に飢えていたので、横浜の綱島辺り(今では高級住宅地)の田んぼに行って、イナゴを捕って来ては、佃煮にして食べました。 形が気味悪いなどと言っていられず、長い足が硬くて上あごを刺しても、そのままバリバリむさぼるのでした。

佃煮を煮たくても、ろくな醤油はありませんでした。 代用醤油というのは、色だけが似ていて、味は似ても似つかないヘンなものでした。 塩の配給も遅れてばかり、本気で海まで水汲みに行きたいと思いましたが、遠すぎて無理でした。

【人心の荒廃、そして激しいインフレ】

『特攻隊くずれ』という言葉を良く聞きました。 酷いと思ったものです。 国の為に死ねと言われて、辛い訓練を受けていたのに、何もかもが無駄になっての敗戦。q

仲間は何のために死んだのか分からなくなってしまった。 死ぬつもりになっていた十代の少年達は、もう用は無い、帰れといわれても、納得できるわけがない。 一部には荒れ狂って犯罪に走る者も居ましたし、ヒロポン中毒で廃人になった例も聞きました。 『特攻隊崩れ』だなんて、ひどすぎる言い方でした。 彼らをそこに追いやった軍首脳こそが、糾弾されるべきなのに。

町では粕取り焼酎なるものがはやりました。 本当のカストリなら良いのでしょうが、バクダンというのが有りました。 当たれば死ぬ、毒性の強い「メチルアルコール」です。 飲んで失明したり死んだりした例を良く聞きました。 殺人酒が出回っているのを百も承知で、呑んだくれている人の気持ちは全く理解できない私たちでした。 うちには酒好きが居ませんでしたから。

当時の生活格差は今よりはるかに酷いものでした。 ヤミ商売で大儲けをした成金は焼け残った豪邸を買い、焼け跡の防空壕には、焼けトタンで雨をしのいで住んでいる人々が居る。 焼け跡にバラックを作る能力のある家族はまだましですが、どうにもならず立ち尽くす人々も居たでしょう。 明日の米をどう工面するか、先の見えない中で、酒におぼれるおじさんたちが居たわけです。

第三国人の横暴も話題になりました。 それまでいじめ抜かれていた中国や朝鮮の一部の人々が、ここぞとばかり知恵を絞って、ヤミ商売をやりたい放題で、大儲けしたと聞きます。 彼らはあまり取り締まられなかったようです。 ヤミ商売をする才覚のない庶民は、どんどん価値の下がってしまうお金で、今買える物をとにかく買っておこうと血眼になり、インフレはどんどん加速しました。

私の母は、昭和 13 年に夫を亡くしたとき、家を売って、自分が一生暮らせるだけの、一時払い郵便年金に加入しました。 毎月必要な生活費を下ろせるはずでしたが、猛烈すぎたインフレによりその一か月分で、パン一個しか買えなくなっていました。

郵便局から通知が来て、わずかな金が一回下りてその年金は消滅しました。 つまりそこで父の遺産はなくなったわけです。 買わされていた戦時国債は、全く支払われる事なく、紙くずと化したようでした。

【パンパンガール】

盛り場には、からだを売る娘達がたむろしていました。 何故かパンパンと呼ばれて軽蔑されていました。 でもあの当時、売春をする人を軽蔑できないと思っていました。 何人もの弟妹を抱えたお姉ちゃんは、自分を犠牲にしない限り全員を飢えから救う道はなかったのですから。

焼けトタン小屋や、防空壕に住みながら、明日の食料を稼いでくるには、女の子に良い仕事なんか有りませんでしたよ。 復員したお父さんが病弱で働けないという話も良く聞きました。 心身ともにぼろぼろになって命からがら復員した人が多かったのです。

一方では、軍の物資をごっそりせしめて帰宅した軍人も居ました。 軍の食料や毛布などをトラックで持ち出してヤミで売ったと得意げに語る人も居ました。 ごく一部の人間は儲けたけれど、大多数が飢えていた時代でした。

昭和の初期には、疲弊した農村から娘達が売られた・・・。 戦争に負けたら、働き手を失った家族のお姉ちゃんが犠牲になった。 いつも辛い目に遭うのは娘達でした。

進駐軍兵士の腕にぶら下がって歩く女性も目立ちました。 みんな背が低くて痩せていました。 フレアーのロングスカートをハイヒールでなびかせて、真っ赤な唇の女性たち。 米軍将校のお妾になって「オンリーさん」と言われた女性たちは、実家に豊富な食料を届けました。

米兵と恋をして、結婚して日本で暮らしていた間は豊かだったのに、除隊になってアメリカの夫の実家に着いた時、自分が極貧の家庭に嫁いだ事に気付く人もかなり有ったそうです。 軍隊の給料がなくなり、仕事もなくて、酒におぼれ暴力を振るうようになった夫と、ようやく離婚出来ても、日本へ帰ることは出来ないまま、厳しい人生を送った話もしばしば聞きました。

私には母が居て、家もあって、どうにかあの食糧難を乗り切れた。 恵まれた方なのに、それでも学校にだけは行かれなかったのです。






ーーー
by hisako-baaba | 2015-08-05 12:39 | 愚かな戦争 | Comments(2)
Commented by marsha at 2015-08-06 07:18 x
全く酷い時代でした。 名古屋の家は空襲で焼かれ、田舎に疎開してからは 全く違った暮らしになりました。 疎開しても町から来た人に優しい社会ではなく、庭の一角を耕して 早速畑にしました。 馬鈴薯、サツマイモ、落花生等色々植えていました。
ニワトリも飼って卵を生むようにしました。 これは総て子供の仕事でした。

子供でも家の大変なことは分かっていたので、食料調達には一所懸命でした。イナゴも毎日獲りに行きました。 川や林では食べられそうな物は何でもカゴいっぱい撮ってきました。 セリやタニシは今でも時々食べたいと思います。 

薪を焼べてお釜でご飯を炊きました。薪割りの仕事もありました。土間に下りるとヒンヤリしていました。 井戸は土間に一つ、屋外に一つありました。台所で使う水も井戸から汲むのは大仕事でした。家の中で使うバケツにお水を汲んで土間に並べておきました。
お風呂だって井戸水ですから ミズを溜めるのは大変な仕事でした。

時代に翻弄された子供時代でした。 いろいろ経験できて楽しかったこともあります。 世の中どこも貧しかったですねー。

 
Commented by hisako-baaba at 2015-08-06 13:07
marshaさま
焼け出されて、田舎に行っても親切にしてはもらえなかった話は色々聞きました。子供も働かないと、家事が間に合いませんものたいへんでぢたね。
今の子にはできない経験をさせてもらったわけですね。
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