ふと、樋口季一郎将軍の話を思い出しました。
イスラエルやアメリカのユダヤ人には、杉原千畝氏のような有名人で、記念碑にゼネラルヒグチの名が刻まれているそうです。日本では彼が軍人であったがために話題にされにくく、あまり知られていませんけれど。
一方、日本を美化したがる人達は「2万人のユダヤ人を救った樋口季一郎」と書き立てていますが、それは嘘。樋口が、2万人と書いたというのも真っ赤な嘘。本人はそんなこと書いていません。
2万人がオトポール駅に押し寄せたなんてありえません。初めは数人から、そして数十人と、次々にやってきたそうです。それでも日本の関係者は、ひどく忙しい思いをして、世話をしたそうです。一時に2万人なんて不可能ですし、ありえません。
又、この件に疑問を持つ人は、当時の現地の新聞に一言も載っていないと言いますが、当たり前です。同盟国ドイツに怒られることをしているときに、報道管制するのは当然でしょう。だから記録がないのです。
それでもドイツには知られて、「樋口を処罰せよ」と要求してきましたが、処罰はされませんでした。
バンプウ特務機関で、兄の上官であった、松谷少佐が、かつてハルピン特務機関にいた頃、機関長だったのが、樋口中将なので、私は95歳になる兄からいろいろ聴きました。
昭和13年春の事です。日本は既にドイツと防共協定を結んでいました。そのドイツに迫害されたユダヤ人難民が、ソ連、満州を通ってアメリカに逃れるしか生きる道がなくなりました。シベリア鉄道で満州国境の、オトポール駅まで来たけれど、満州国が通過を許可しない為、足止めを食い、飢えや凍えで、死者も出ていました。
ヨーロッパに駐在した経験のある樋口は、ユダヤ人との交流もあり、彼らの窮状を理解していました。
人道的に彼らを助ければ、ドイツとの関係が悪化する。自分には権限もない。それでも彼は自分の地位をなげうっても難民を助ける覚悟を固めます。この日樋口の妻は娘に「お父様はクビになるから」と言って、荷物をまとめていたそうです。
樋口は満州国に通過ビザを出させ、ユダヤ難民に食料と医療を提供し、満鉄総裁に頼んで列車を出させて、難民を次々に上海に運びました。日米開戦の3年前なので、ユダヤ人たちは、かなりの数、船でアメリカへ逃れることができたのです。正確な人数は不明です。それでも、このとき救われて、のちにアメリカで活躍されたユダヤ人が多いので、かなりの数ではあったのでしょう。
樋口はその後北部軍参謀長に転任。アッツ島玉砕直後、キスカ島の日本兵救出に向かわせ、「武器は海に捨てて、身一つで素早く乗船せよ」と命じ、アメリカ軍に気づかれないうちに、撤退完了。多くの兵を救いました。
アメリカはキスカ島に爆撃と艦砲射撃を浴びせてから上陸してみたら、誰もいなかったので、びっくりし、敵ながらあっぱれと褒めたそうです。
8月15日に降伏してもソ連とは未だ停戦していなかったので、千島列島シュムシュ島に上陸してきたソ連兵を殲滅させてしまいます。北海道を守る為に。
戦後、ソ連は、樋口中将を戦犯とし引き渡しを求め、シベリアに送ろうとしました。
しかし、ユダヤ人たちが救出運動を展開、マッカーサーが彼を守ってくれました。樋口自身はずっと後になってその事実を知ったそうです。
樋口季一郎氏は、戦後はひっそりと穏やかに暮らして82歳で生涯を閉じられたそうです。
Facebookを開くと、空き領域がありませんと表示されて、読めますけどシェアも出来ません。
空き領域を作れるらしいけど、私にはわかりません。息子は忙しいし、当分、Facebookはできません。増えすぎた画像を、片っ端から捨てているところです。
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