今日は6年生2クラスなので3時限目と4時限目に、3人で語って来ました。
最初のクラスは、じっと食い入るように見つめて聴いてくれましたが、いまいち反響がわかりづらい感じでした。しかし微動だにしないで緊張して聞いてくれました。
次のクラスは、動きもあって、楽しんでくれている感じがしました。
6年生でも「蓑は藁で出来てる雨合羽よ」と説明しなければなりませんでしたが、毎年1時間ずつお話を聞いて来ているおなじみの子達なので、マナーはバッチリでした。
超ベテランお二人と行って、最初のお話は「不思議なオルガン」 次「森の中」という、紙芝居ではないけれど絵を組み立てる短いお話。次私が「河童の詫び状」次は「儂の家の儂の木に、鷲が一羽止まった。儂が、鷲を鉄砲で撃ったら、儂も鷲も驚いた」という手遊びをみんなに教えました。
最後に北方のネイティヴアメリカンの民話、冬は南に移住しないと暮らせない土地に、一人移住を拒んで残った娘が、冬用の家を作って北風に勝ち、冬もそこでくらせる知恵をみんなに伝える話。
いつもながら語り手も楽しんで、良い授業になりました。
学校を出るとき霧雨が降りだしましたが、レインコートを着るほどでなく帰れました。
午後はヘルパーさんがしっかり掃除してくれました。今月はこの超ベテランさんが4回とも来てくださるので嬉しいです。
先週教えていただいた観賞魚屋さんでメダカも買えることを報告しました。安売りのお店にポイントカード作ったことも。彼女からもたらされた情報は大変役に立ちました。
河童の詫び状をまた載せましょう。
河童の詫び状 ふじみ野風景物語 富田竹雄著、より、中谷再話 (7分半)
おとやんは福岡村の百姓だ。
おとやんが子供だった明治の頃は、この辺りの農家から大宮の市場まで青物を運ぶには歩いて行ったものだ。途中新河岸川と、荒川を、渡し船で渡るしかなく、リヤカーや手車を渡し船から降ろして高い高い土手を越えるのに、車を押し上げる人手が要る。だからどの家も二人連れで行かなければならなかった。
大正3年に東上鉄道が開通すると、上福岡駅前に青物市場が出来て、そこに売りに行けるようになった。それでも、大宮の市場の方がが高く売れたので、苦労して大宮まで運ぶことがあった。
昭和になると河川が改修され、次々に橋が架かって、おとやんたちも自転車にリヤカーをつけて、一人で大宮まで往復出来るようになった。
そんなある年の8月のお盆前のことだった。
おとやんは、夜明け前からスイカやマクワ瓜や、きゅうりや菜っ葉などを収穫して、リヤカーに満載し自転車につけて大宮へ出かけた。
市場では、お盆前の為野菜も果物も予想外の高値で売れた。そこでおとやんは昼飯を食べに入った店で軽く一杯引っ掛けた。(子供さんには「お酒を一杯だけ飲んだ」と言います。
帰り道、ジリジリ照りつける日差しの下で、夜明け前から働きづめだった疲れがどっと出て、眠くてたまらなくなった。
欅の木陰に自転車を止めて、リヤカーに敷いたむしろの上にごろりと横になるとたちまち眠り込んでしまった。
激しい雷鳴に目を覚ました時にはもう日が暮れていた。慌てて蓑と菅笠をつけたが、自転車につけた懐中電灯では、先が見えないほど激しい雨になった。
突然目もくらむ光が轟音とともに冲天から落ちてきた。目の前の大木がバリバリと音を立てて裂け、火を噴いた。あまりの恐ろしさにおとやんが立ちすくんだのはびん沼川の小さな橋の上だった
目の前に小さな子供くらいの奇妙なものが両手を広げて通せんぼうをしていた。稲妻の光に見えた姿は裸で青白い体、これは話に聞く河童の子供だなとおとやんは思った。
河童小僧は、奇妙な甲高い声で
「置いてけ〜、それを置いてけー」とさけんでいる。
おとやんは思わず胴巻きを抑えた。夜明け前から働きづめで手に入れた今日の稼ぎをこんな河童小僧に取られてなるものか、そこで自転車から外した懐中電灯を河童の顔に向けて近づいていった。
すると河童は怯まず飛びかかってきてオトやんの蓑の襟首をつかんだ、河童の方が力が強くて、おとやんはのけぞってしまった。おとやんが踏ん張った途端蓑の縄が切れてスポンと脱げたはずみに河童は蓑を掴んだまま川に落ちて行った。そのとき橋の杭に頭のお皿をぶつけたらしく、「痛いよ〜痛いよ〜」と泣き叫んでいる。
「河童が欲しかったのは銭ではなくて蓑だったのか、そんなら始めっからそう言えばいいのに 」とオトやんは思った。それにしても川で暮らす河童が何故蓑を欲しがるのか不思議だった。
雨が小止みになった。おとやんはなんだか可哀想になって「笠もなければ頭が濡れるだろう」と、菅笠を脱いで橋の下に放ってやった。河童小僧は「ごめんなさい、有難う。御恩は忘れません」と謝った。
おとやんは真っ暗な道をゆっくり走ってようやく家に帰り着いた。
女房や 子供には今しがたの怖かった話をする気になれず、「酒を飲んで遅くなっちまった」とだけ言った。
おとやんが床に就くと、河童の親子が訪ねてきた。河童の父親が「蓑はお百姓さんの大事な仕事着だから、お返しに上がりました」と言って、息子のいたずらを詫び、深々と頭を下げた。おとやんは面白い夢を見たと思った。
夜が明けるとオトやんは近くの畑で野菜を収穫しようと外に出た。すると戸口に、昨日河童小僧に剥ぎ取られた蓑と、投げてやった菅笠が、きちんと置いてあった。手紙も添えられていて「おとやんごめんなさい。お百姓さんの大事な蓑と笠を、河童小僧が取り上げまして、申し訳ありません。親の責任を感じて、お返しに上がりました」と書いてあった。
夢ではなかったんだと気になって、おとやんは畑に行くのを止め、物置から自転車を出すと、びん沼川の橋に急いだ。すると、橋のたもとの柳の枝に木の札が下がっていた、近づいて見ると「河童はこの辺りの川から引っ越しました」と書いてあった。
それ以来、この辺りで河童の噂を聞くことはまったくなくなった。
昭和になってもびん沼川に河童がいたというお話でした。
Junkoさんの記事。まだ読みきれないが考えさせられています。
放射能汚染の地にオリンピックなんて、開催中にもしまた地震が起きたなら?
朝日新聞の記事だそうです。↓