強風です。お陰で空は真っ青。
今日なら、昨日より綺麗な写真が撮れたでしょうが、でもこの強風よりは昨日の花曇りの方が外出には良かったです。
寒い北風ですから。
リハトレでは普通に運動して、「ある殺人事件と比丘尼橋」富田さんの本から語りました。実話です。
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或る殺人事件と比丘尼橋
富田竹雄著 ふじみ野風景物語 より 中谷久子再話
旧駒林村(明治時代に福岡村に吸収合併された村)の名主、十兵衛という人の持っていた古文書に、ある殺人事件に関しての助命嘆願記録があった。
聖徳元年(1711年)百姓甚五兵衛と倅の四郎兵衛は、末娘のムメさんを、江戸に住む伊兵衛さんという商人に嫁がせて間もない頃、儲け話で伊兵衛さんを呼び出して殺害し 、ムメさんには「お前の夫は旅に出た」と偽って実家に戻らせた。
ところが、伊兵衛さんの死体が、ガマと呼ばれる湧き水の中から、大雨で川に流れ出して殺人事件が発覚。ムメさんは下手人を処罰してほしいと訴え出た。
ところが思いもよらないことに、下手人は父と兄であって 二人は断罪された。
しかも目上の者の犯罪を暴いたものは不忠不孝と見なされムメさんは捕らえられて幕府の評定所送りとなってしまった。
村人達はあまりにも可哀想なムメさんの為に助命嘆願をしたという。
彼女の裁きに、儒学者で政治家であった新井白石が、無罪を主張。ムメさんに尼になるよう勧めた。
ムメさんは鎌倉の東慶寺で、仏門に入り、殺された夫と、処刑された父と兄の霊を弔ったとのことである。
さて時代は少し下った頃、福岡村の築地っ原あたりを流れる細い用水堀があった。上田(かみだ)地区の田に水を引く「上田用水堀」で、いつの頃からか比丘尼川と呼ばれていた。
今では跡形なく埋め立てられて住宅が密集しているが、比丘尼橋という石柱が4本出土したことで、比丘尼川と比丘尼橋の跡が判明した。
なぜ比丘尼川と名がついたかというと、上田用水堀の近くにいつの頃からか、一人の中年の尼さんが小さな庵を結んでいたからのようだ。
尼さんは子供らに手習いや裁縫を教えて暮らしておった。
この尼さんがある夏の朝、堀の水を汲もうとした時、橋に引っかかっている人形を見つけた。トウモロコシの皮で丁寧に作られた1尺あまりの人形で、浴衣が着せてあった。
この堀の上流には墓地が二箇所ある。子をなくした母親が手作りして供えたものが風で飛ばされたのかと尼さんは思って、丁寧に乾かし、仏前に供えておいた。
その夜、尼さんは赤ん坊の泣き声にびっくりして目を覚ました。
仏壇に供えて供養していた人形が、女の赤ん坊に変わっていたのである。
尼さんは何かの因縁で自らに授けられた赤子であると思い、貰い乳をしたりして大事に育てた。
村人達もこの素性の知れない尼様は、東慶寺に入ったあのムメさんではないかと噂して、尼さんが赤ん坊を育てることに協力を惜しまなかったという話だ。

風が強すぎるので買い物は控えます。
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