りんご箱の上で鏡を売った話より少し前のことです。
学生連盟の事務所はとんでもなく不便な場所にありました。
新小岩から、なかなか来ないバスで20分ほど、バス通りの傍に蓮田が点在する場末の町。
蓮田(レンコン畑)にバキュームカーが新しい糞尿を流し込んでいるのを見て驚いたことがあります。
蓮田の主は知っているのだろうかと・・・当時のトイレは汲み取り式ぼっちゃん便所。ヴァキュームカーが各家庭をまわって汲むのです。肥料にするなら肥溜めで熟成させなければなりません
汲みたてでは黴菌も寄生虫卵も活きたままです。それを蓮田にどっさり入れていました。
あそこの蓮根(レンコン)はいつ収穫するのやら?なんとも汚い話でした。
まあそんな町の寂びれた商店街に事務所はありました。折りたたみの台だけは新小岩に預けてありましたが、仕入れと清算にはいちいち顔を出さなければなりませんでした。
(その町を2~3年前に通ってみたら、道幅は5倍ぐらいに広がり、地下鉄の駅まであって、ビルが林立、昔の面影は何一つ残っていませんでした)
当時のバスは7時半ごろに終わってしまったように思います。バスが無くなると小さい都電で小松川橋の手前まで行き、橋を歩いて渡って、また都電で錦糸町に出ます。あとは国鉄で新宿乗換え渋谷に出て今度は私鉄で上目黒に帰るのです。電車はどれも本数が少なく夜まで満員でした。
長い長い小松川橋を夜に歩いて渡る人はほとんどありません。冬の川風は容赦なく吹き付けます。
それでもみんなで歌を歌ったりしゃべったりしながら歩くのがなんか楽しくて、わざと最終バスに乗り遅れたりしました。
(小松川橋は、幹線の京葉道路が荒川放水路と中川放水路をまたぐ大きな橋です。今ではすぐ脇に新小松川橋が並んでかかっています。今はそれほど交通量が多いのです。)
ノートと飴を売りに行ったのは船橋や千葉など。国鉄より京成の駅前の方が売れました。
秋刀魚が大漁だと船橋の闇市に流れます。一匹10円。見つけると急いで2匹買います。冬だから夜まで腐りません。隣組単位の配給にはなかなかまわってこない貴重な蛋白源でした。
道路の舗装は空襲で壊れたまま、でこぼこでした。一度、台をひっくり返して水溜りにノートをぶちまけたことがあります。もともと汚い色のノートなので少しの水濡れなら乾かして売れましたが、
汚れたものは卸値で自分が買うしかありません。そんなノートに書いた日記が今も沢山残っています。ボールペンなんて存在しませんから、壊れた万年筆をインクビンにひたしては書いたり、ガラスペンを大事に使ったり、鳥の羽の軸を斜めに切ってペンにしたり・・・ブルーブラックのインクの文字は今もちゃんと読めます。
事務所の場所が不便すぎるので連盟に通ってくる学生は12~3人でした。女の子はほかに二人だけ。一人では何にも出来ない人と、口は達者だけどちゃらんぽらんで男にしか興味のなさそうな先輩。見習い当時彼女がいつ何処に売りに行きましょうというので待って居れば、連絡もなくすっぽかしてくれます。平気ですっぽかされることが続き、彼女とは約束しないで一人で行動することにしました。男子の見習いについたこともありますが、収入を半分わけしては商売にならないから遠慮しました。
当時の大学生達はとても言葉が綺麗でした。男子もきちんと敬語を使って居ました。仲間内でふざけることはあっても、汚い言葉は聞きませんでした。
売れない日は長居をしても駄目なので早々に引き上げます。
或る日6時頃新小岩に戻ったら、一番良く売り上げる青年が『今日は駄目だった』と戻ってきました。
『夜に売れる場所があるんですが、これから行きませんか』と彼、
上野は浮浪者があふれ街娼がたむろし、やくざが仕切っている恐いところと思って、敗戦後行ったことがなかったけれど、好奇心が湧きました。
西郷さんの山から大きい階段を下りた反対側正面の歩道で、みかん売りのおじさんと並んで店を出しました。
商品を揃えると彼は『君一人のほうが売れますから』といって古本屋に立ち読みに行ってしまいました。
確かにそうでした。私の顔と体はアンバランスで、栄養失調でも頬はこけないし目はくぼまない。丸ぽちゃの童顔で身長147.5センチ、体重39キロ。17歳なのに15歳ぐらいにしか見えない。女性の魅力なんて縁がないから、酔っ払いにからかわれることもない。みかん売りのおじさんからみかんを何個も貰っちゃうし、ノートも飴も次々売れる。町の様子を見るのも面白い。
当時パンパンとよばれた街娼のお姉さん達は濃い化粧でフレヤーのロングスカートの裾を寒そうに押さえている。あの頃は、親を失って弟妹を守らなければならない人は、身を売るしか手段のない時代だったから、彼女達を軽蔑する気持ちは微塵もありませんでした。
9時半近く相棒は戻ってきて『やっぱり売れましたね。さすがー』といって計算を始めました。
そのときそっと私をつついて『あれ、おかまですよ』と教えました。そこには和服姿の綺麗なお姉さんしか居ないのでびっくり!?初めて見たおかまさんがいったい何なのかまるで見当もつかないままぽかんと見ていました。
相棒は計算した儲けの半分を私に渡し、『手ぶらで帰っていいですよ僕が全部清算してきますから』と二人の売れ残り全部と、台を担いで帰ってしまいました。お蔭で私は手ぶらで楽に帰宅し遅い夕飯(たぶん雑炊)にありつくことができました。
その後、鏡を売ることにならなかったら、私は夜毎上野で商売をしたでしょう。やくざに『しょば代』(不当な場所代)を請求されることもなく、意外に平穏な京成上野駅前でした。
(日暮里に昼間行ったら、売れない上に、やくざのチンピラに『しょば代』を巻き上げられて一度でこりごりしました)
鏡は男子二人と私だけで売りました。ほかの人は(上野の彼も)誘わなかったようです。
りんご箱を借りて台にしたのは私だけ。地べたに商品を並べる気はなかったので、たまたま目に付いた果物屋さんに頼んだわけです。なんでも工夫してしまう一風変わった女の子でした。
今日は息子一家が来てくれました。