昭和13年秋、私が7歳のとき父が急死して、翌年2月、18歳の兄は中国にわたりました。
兄は特務機関員として特異な体験を重ねながら、21年夏帰還しました。この間の話は、
『日中戦争の中の青春』に載せました。
中国に残留するつもりが果たせず、心ならずも離れ離れになった恋人と、文通ができたのは(当時国交がなく郵便は不通でした)兄が中国代表団に中国名前で運転手をしていたからですが、しかし国交回復の兆しもなく二人が会う手段もないまま、昭和23年別れを告げる手紙が届きました。ショックを受けたのでしょう、兄は安定していた住み込みの仕事を辞めました。
その後も家を離れたままでしたので、2~3年前に訊いて見ました。『私が偽学生アルバイトをしていた頃、兄さんは何をしていたの?』と。飛び出した話には仰天しました。闇屋の手伝いをして船で遭難したとのこと・・・
当時は価格統制があって、配給にまわる食品などは公定価格が決められていましたが、闇値はどんどん上がります。漁師さんは港に水揚げすると、公定価格で買い取られてしまいますが、沖でヤミ屋に横流しすれば高く売れます。だから沖にヤミ船が買い付けに行くのです。
兄達はいつものようにヤミ船で魚を買い付けたあと、エンジン故障で漂流。氷のない時代だから魚は全部腐ってしまい、千葉県の船橋から、横浜の三渓園辺りまで流されて座礁。船は大破。命からがら上陸したものの、ヤミ商売は駄目になったそうです。
兄の波乱万丈はまだ続いていたのでした。
ヤミは違反ですがヤミ商品が出回らないと、配給だけでは餓死者が出る状況でした。
ある判事さんが、自分は一切法律違反のヤミ物資は口にしないと言って、飢え死にしてしまいました。命をかけて法を守ったのはご立派でしたが・・・・・・
庶民は何とかして食料を手に入れて命を繋いでおりました。
今日は寒い曇天でした
つわぶきがまだ咲いていました。
名残惜しい花たち