昔語りを大正14年から書き起こしながら、明治の写真を載せてややこしくしてしまいました。大正昭和の写真も沢山あるのですが、天袋の奥に有って今私には出すことが出来ません。
どうせなら父という、私にとって永遠の謎である人物の生い立ちから、いいえもっと前、祖父の17歳から語ってしまおうと思います。
いきなり時は幕末。元治元年(1864年 元治は1年だけ、翌年はもう慶応元年)3月、水戸の天狗党が筑波山で挙兵します。武士と農民、神官なども加わっての大部隊。
水戸天狗党の悲劇参照
水戸藩は、勤皇派の天狗党と佐幕派の諸生党に二分対立していました。天狗党は天皇に政治を返せといい、諸生党は幕府に忠誠を尽くすという。
天狗党がせめてあと1~2年時勢を待って挙兵したなら、世の中に大きく貢献したかもしれないのに、明治になる4年前に挙兵してしまった彼らは3月から12月まで辛い進軍を続けた挙句、敦賀で降伏し大量処刑に遭うという悲劇を招きます。
3年後には全く別のところで、坂本竜馬らにより大政奉還がなされて、4年後には明治維新を迎えるのに、急ぎすぎた彼らは幕府によって処刑されてしまいました。
このとき17歳の祖父は19歳の兄と天狗党に加わっていました。それより5年前、安政の大獄で兄弟の父は獄死したという説もあります。しかし祖父の本名も身分も全くわかりません。彼は一人生き延びたことを恥じて誰にも語らなかったようです。
天狗党が千人ほどの隊列で整然と行軍する中で、信州辺りで病に倒れたか、和田峠の戦で負傷したのか、とにかく歩くことが出来なくなってひとり脱落。やがて落人の隠れやすい甲州に身をひそめます。
明治の代になり彼は甲府の在の農家に婿入りします。身分を隠し名前も総て変えて。
しかし、明治政府に対し物申したいことの多かった彼は、百姓をせず新聞創りに熱中します。
それによって農家の家運を傾けてしまったのかもしれません。その挙句明治20年 40歳の若さで急死します。酒に命を奪われたようです。(祖父と二人で新聞を作っていた友人は、その後立派な地方紙に育て上げ、その新聞は今も続いています)
残された子は長男金太郎10歳(後に改名、私の父)と 妹二人、末の妹はまだ1歳でした。
未亡人になった母親に言い寄る男を、12~3歳の金太郎は刀を振り回して追い払ったそうです。
母に再婚の意思があったなら気の毒なことでした。薄幸な母親は5年後に病死してしまいます。
孤児になった妹達は、表向き養女に出すということで、機織娘として売り飛ばされてしまいます。
15歳の金太郎は一人上京、うまく書生になります。書生とは金持ちの家に住み込み、雑用をしながら学校に通わせてもらう青年のことです。
そうして働くうち、婿になれといわれて飛び出し、今度は女子小学校の首席訓導(教頭先生)で婦人会長も勤める独身女性の家の書生となります。その女性が私の母の叔母で、幼い日に疱瘡を患って薄いあばたが残った為、生涯独身で教育に身をささげた人でした。
私の父と母は9歳違いの幼馴染だったのです。
神田の母の家はというと、代々幕府御用達の花屋で華道の師匠。苗字帯刀を許されていました。
西南戦争のときは物資の輸送に当たる人夫を束ねて、船で鹿児島に行ったそうです。皆船酔いで何も出来ず、一人元気な祖父はこき使われるのが嫌さに酔ったふりをして鰹節をかじってひもじさに耐えたそうです。祖父はかなり遊んだ人のようで、三十代半ば過ぎまで独身でした。再婚の女性と結婚。『嫁して三年、子無きは去る』という時代。祖母は子供が出来ずに婚家を追い出されていました。でも古い戸籍謄本によると、彼らは出来ちゃった結婚なのです。ということは恋愛結婚だったのでしょうね?
私の母が2月に生まれて、大喜びの祖父は絵師にお雛様の掛け軸を描かせました。それは今も従姉の家にあります。私にくれるといわれたけれど、家を相続したのは叔母なので断りました。写真にだけは写してきましたが。
小学校を出ると母は町内で一人だけ高等女学校に進学しました。東京府立第二高等女学校。現在の都立竹早高校の第一期生だったのです。
今日はここまでにいたします。

上は 明治35年の戸籍謄本。母方の祖父の職業は『挿花指南』と記載されています。
これは母が父に嫁ぐ1年前の戸籍謄本らしいです。母が16歳だから。色々と訂正が入っていて
面白いです。達筆な人が書き写して、間違えても訂正で済ましたり紙を貼ったりしてあります。

祖父の書いた母の臍の緒書。臍の緒と一緒にしまわれていました。生まれた時間をくわしく記し
生まれ年を 明治19年、紀元2546年、旧暦丙戌年、西暦1886年、迄克明に書いていて、
長女誕生の喜びがわかります。