10歳で父を15歳で母を亡くし、妹達は機織りの労働力として別々の機屋に養女にやられてしまって、一人上京した金太郎(私の父)が母の叔母の家の書生になったことを前回書きました。
苦学生として、『東京高等商業学校』(後の商大、現在の一橋大学)に通っていた父は、周囲に妹のことを打ち明けました。一人は病死しましたが別の機屋(はたや)に下の妹がいるのですと・・・『面倒見るから取り返して来なさい』と勧められ交渉に行きましたが、『養女として8年も育ててきた者を、いまさら返せるか』と断られます。
父は友人の助けを借りて妹を連れ出し、峠を越えて逃げました。友人は『追っ手を阻止してやる』と言って抜き身を引っさげ(日本刀を抜いて)峠に仁王立ちしていてくれたそうです。追っ手が来たかどうかは解りません。
こうして父の妹 寿美(すみ)は無事神田の私の母の家に着きました。ここで生まれて初めて鶏卵を食べてびっくりしていたそうです。玉子など触ったこともなく、殻もぶよぶよ柔らかいものと思っていたのだそうです。6歳から機織りをさせられ、足が届かないので織機に足の台をつけて無理やり働かされていたそうです。
その後交渉して養家から戸籍も取り戻しました。
学校に行っていないので女学校の先生のお宅に預けて、学校に通わせてもらいました。
叔母は後に渡米して日系一世同士で結婚、ロスアンジェルス郊外で百歳を超えるまで幸せに生きました。戦後私に食品や衣類や化粧品まで度々送ってくれたものです。長男は弁護士になり東京裁判に来日、一度会いました。その後叔母夫婦も戦後の故郷を見に一度来日しました。
人の運って面白いものですね。終わり良ければ総て良しです。