私の思い出の中に住む父はいつも和服姿でした。(アメリカ帰りで洋館に住みながら)
『ダイニング』と呼んでいながら食卓は北の和室に移してしまって、居間兼書斎にしていた部屋。
その絨毯の陽だまりで母と遊ぶ私を、大きなデスクから振り向いて見ていた父。
私を抱いて、長い廊下を行きつ戻りつなにやら語りかけながら寝かしつけてくれた父。廊下の天井の二箇所から下がっていたペンダント型電灯。物心つくかつかないかの頃の鮮やかな記憶です。後年発見した建築契約の書類の中に、電気屋さんが電灯の絵を丁寧に描いたものがあって、『ペンダント』と書かれた廊下の電灯は私の記憶の通りでした。
でもある朝父が起きて来なくて・・・夜中に突然死したことから始まった大混乱は何一つ記憶にありません。葬儀も多摩墓地への埋葬も翌年の辛い引越しも・・・嫌だったことは総て7歳の記憶から欠落しています。父の死は私にとってそれほどのショックだったのです。
父は晩年、元気だった頃もほとんど外出しませんでした。酒タバコ一切やらなくても運動不足と精神的ストレスが体に悪かったのでしょう。散歩に出ることもなくデスクに向かっていました。世の中は大恐慌で、農村も疲弊し娘たちが家のために身売りする時代でした。
父も株式の先行きが読めず、収入はほとんどなかったけれど、預金から家計に毎月200円の支出をしていました。起死回生の自信があったからでしょう。
滅多に来客もない家に、二人だけ義理堅く訪ねてくださる方がありました。一人は村田さんと言う大会社の役員さん、ハンサムで長身の上品な老紳士でした。お土産はいつも私への高級なおもちゃで、籐椅子の応接セットの精巧なミニチュアを一番懐かしく思い出します。
もう一人は私が「坪内のおじちゃん」となついていた下町のご隠居風のお年寄りでした。その方の娘さんが有名な人形店店主の奥さまなので、市松人形や羽子板をいつも頂いていました。
父の予言は当たらなくなっていたのでしょうが、このお二人はかつて父の予言で大きく儲けたことを忘れず、季節の挨拶に訪ねてきてくださったようでした。我が家は駅から1キロも離れていて坂の上にあったのですけれど。
茅場町に住んだ頃は電話がまだ不便でも、近所の株屋さんからは小僧さんが駆けてくれば用が足りたのに、だんだん山の手に住みたくなった父。でも麻布の次に目黒に土地を買ったとき、そこはまだ東京市内ではなかったのです。地名は 東京府下荏原郡目黒町大字宿山字東山。(やがて東京市が広がって目黒区上目黒となり、今は目黒区東山)当時そんな田舎に引っ込んだら株屋さんとは遠くなりすぎるのに、麻布に引っ込んでからも会員制の会報発行だけで商売が成り立っていたからでしょうか?
東山の家の前は練兵場の広っぱで、富士山が見えました。美しい姿の大山から丹沢山系、秩父山系と、まるでパノラマでした。きっとこのせいせいする風景の中に暮らしたかったのでしょうね。それは私の原風景となりました。だから今も私は山なみを眺めるのが大好きです。
戦後練兵場あとには公務員団地が建って、又それを壊して建て替えてより高層になっているようです。富士も大山も屋上でないと見えないのでしょう。
そして父の建てた家は戦後何十年経ってもしっかりと建っていました。私たちから買い取った方が長年住み続け、庭にもう一軒別棟を建てて、変わらぬ表札で住み続けられました。家を眺めに行った事が何回もあります。けれど代も変わったことでしょう。数年前行って見たら跡形なく、敷地いっぱいに安っぽい紫色のマンションが建っていました。胡桃の大木もなくなって、私の原風景は総て失われましたが、心の中の絵だけは鮮やかに残っています。両親の和服姿とともに。
当時の写真がいま出せないので、相変わらず百年前の写真を載せます。父31歳、母22歳です。