今日は忙しいので・・・・・約一年前、一橋中学通信課程に提出した作文を載せます。
12月23日24日が安政の大地震の起きた日なのです。
151年前、ヤマサ醤油七代当主のお話です。
『稲むらの火』の史実を読んで 2005.1.21 記
インド洋沿岸の大津波の悲惨さに驚かされ続けている折しも、テレビで安政の東南海、南海大地震津波から紀州広村の村民を救った浜口梧陵のことを知りました。昔小学校で習った『稲むらの火』(高台に居て津波に気づいた庄屋が自分の稲に火をかけて村人を救った話)のモデルですが、教科書の話は主人公の年齢も内容も事実とはかけ離れています。そこで浜口梧陵の日記や二、三の文献を読んでみました。
現在の暦で12月23日に東南海地震、翌日に南海地震と続いたのですから『稲むらの火』の物語のように脱穀前の稲が積んである筈はありません。彼が犠牲にしたのは稲ではなく、その後永年にわたって村民の生活を支えるために投じた莫大な私財でした。
江戸開府から42年後の1645年、醤油発祥の地紀州から房州の銚子に進出した醤油メーカーがありました。(現在も続いています)江戸と銚子に店をもち創業から二百年余り経ったころ、浜口梧陵(儀兵衛)は七代当主になりました。彼は34歳の年(1854年)の旧暦11月4日、たまたま故郷に帰っていました。4日朝の東南海大地震で梧陵は津波を予想し、若者を指図して村人を高台の八幡神社に避難させました。翌日には海も穏やかになり、人々がほっとして家に戻った夕方、今度はもっと近くで南海大地震が起きたのです。前日よりはるかに高い大津波が四度押し寄せました。梧陵は若者たちを引き連れ村内を駆け巡って村人を避難誘導していて、自分は津波に呑まれ奇跡的に陸に打ち上げられました。いったん神社に避難しますが、すぐ又逃げ遅れた者を探しに松明をかざして駆け降ります。先に進めなくなると路傍の稲むら(藁の山)十数個に火を放ち松明を振り回して合図を送りました。彼の日記に『この計空しからず、これによりて万死に一生を得たるもの少なからず』とあります。暗闇の中その火を頼りに沢山の人々が辛うじて逃げおおせました。皆を神社に避難させた直後最大の津波が襲って、稲むらは燃えながら流されてゆきました。『火を点ぜし稲むら波に漂い流るるの状、観るものをしてうたた天災の恐るべきを感ぜしむ。』と彼は書いています。危機一髪でした。
ほとんどの村民の命は助かったものの、惨状はなはだしい村は生活の術を失いました。梧陵は私財をなげうって村人の家を建て農具や漁船を作って与え、防災と失業対策をかねて堤防建設のために多数の村人を雇いました。
翌年の秋、今度は江戸の大地震で店を失います。店の再建のために堤防建設は中止してほしいと番頭に言われても、梧陵は店の再建を諦めて堤防に資金を注ぎ込みます。銚子の醤油工場で働く広村出身の人々も村のために奮闘し、4年足らずで大堤防は完成。高さ5m 幅20m 全長600m、当時としては世界一の規模でした。そのお蔭で88年後の昭和21年、昭和南海地震津波が襲ったとき広村の中心は浸水を免れたのです。今もしっかり残る技術的にも優れた美しい堤防です。
浜口梧陵はこれより前32歳のとき村に耐久舎という学校を作りました。今も耐久高校として続いています。勝海舟、福沢諭吉などと親交のあった学者肌の彼は、明治になって初代和歌山県議会議長を勤め、政府の高官にもなりました。実業家として、政治家として世のために働き、65歳でようやく機会を得て世界一周の旅に出ましたが、翌年ニューヨークで病死しました。常に人のために生き、海外に行きたいという長年の望みをようやくかなえて客死したとは、悔いの無い生涯だったことでしょう。凄い人だと思います。
昨年日本を再三襲った台風や中越地震。回復までには神戸のように長い時間がかかることでしょう。優れたリーダーがほしいものです。そしてインド洋沿岸の国々の地震、津波の惨状。これを繰り返させないために、地震津波の知識の豊富な日本が予報システム構築に貢献するだろうと期待しています。
浜口梧陵、150年前の偉業に学ぶべきものは多いと思いました。
(一橋中学通信課程 平成16年度 文集 掲載)