小学校入学前、『メンタルテストを行います』と、なぜか英語交じりの案内で学校に集められました。
母にすがり付いて隠れるようにしていた私は、恐い試験官の前で何もせず、一言も口をききませんでした。
中年男性の試験官は不機嫌な顔で、吐き捨てるように『低脳ですな!』と断定しました。
”テイノウ”とは知恵遅れのことです。母は抗議しましたが聞き入れません。あからさまに「又厄介な生徒が入学してくる、迷惑だなあ」と言う嫌な顔をされました。
テストの答えが全部わかっていたことと、へんなおじさんに、とっても嫌な顔をされたことを私は鮮明に覚えています。
入学してからも大変でした。今の幼稚園の3歳児より酷くて、母がついていないと学校に居られない状態、そういう仲間がクラスに4人居ました。でも私が一番早く聞き分けて、母の付き添いは数日で終わりました。
サイタサイタ、サクラガサイタ・・・授業が始まれば私は全部読み書きが出来ましたから、勉強は楽でした。(当時はカタカナから教えました。私は入学前にカタカナひらがな、漢字だって『屋上庭園』と書けました。なんで屋上庭園から覚えたか、それはたまにデパートに行くといつも屋上で遊ばせて貰ったからです。母は家計簿のつけ方は下手でしたが、浪費はしません。おそらくお歳暮やお中元の時期だけデパートに行ったのでしょう。交際範囲も狭かったから買い物はすぐ終わります。屋上はミニ遊園地になっていました。それであそこは何と言う場所かと父に訊いたら漢字で書いてくれたのです)
学校で友達を作る気は無かったけれど、東山に帰る子がもう一人居て、或る日「うちのほうへ一緒に来て」と無理矢理方向の違う坂に引っ張ってゆかれ、警視庁住宅の玄関で「さよなら」と言われました。彼女はおまわりさんの子供だったのです。
そこから家までの道は知っているけれど、練兵場の縁は雨上がりで物凄いぬかるみなのです。重いランドセルを背負って、泥だらけで泣きながら帰りました。
そこで母は彼女に遊びに来てもらうようにしました。ウチには人形やおもちゃが沢山あるので友達は大喜びで自由に遊んでいますが、私はちっとも仲間に入りません。人の指図で遊ぶことには慣れていないし好きではなかったのです。それでも彼女が来ることは嫌ではありませんでした。それぞれ別々のことをしていても小さいときは一向に苦にしないものですね。
一年の2学期に父が突然死してしまい、そこから十ケ月ほど私の記憶は完全に消えてしまうのですが、三月の終了式で、『努力賞』を貰ったことと、通信簿の成績が良かったことだけは覚えています。「テイノウ」の烙印を押されて始まった学校生活だから、努力を認められる結果になったのでしょう。
久々の雨が止んで半日以上たっているのに、おかめ南天にはまだ雫がのっていました。
昨日又”振り込め詐欺電話”がかかって来ました。面白かったのが、去年の場合とせりふが全く同じだったこと。
息子の名前を名乗って、似たような声で(これが気持ち悪い)『友人の保証人になったら、友人が消えて、借金取りがここに来ている・・・』マニアルが出来ているのね。
男の声でどやしてもらう方が良いと思って『又詐欺電話よ』と夫にバトンタッチ。
去年どやされたら名簿に×でも付けそうなものを、マニアル込みで名簿を別のグループに売ったのかしら???