就職につまずき続けて昭和23年11月になり、兄から「知り合いの区議会議員さんが、学生連盟を作って道端でノート売りをさせているから、参加してみないか」といわれました。
当時兄は中国代表団の運転手を辞めて、千葉の海でヤミ舟に乗っていました。沖で漁船から魚を買うのです。
漁船は、港に入れば魚を公定価格で売らなければならなりません。(その魚は配給に回る)しかし沖でヤミ屋に売ればもっと高く売れます。小さなヤミ舟は、夜陰に乗じてどこかに魚を下ろし闇市で売る。配給が少ないから闇値でも飛ぶように売れる。闇では、さんまが一匹10円くらいでした。
しかし兄が手伝っていた船はエンジン故障で漂流、船橋から横浜三景園の傍まで流されて座礁しました。魚は腐り船は壊れ、兄は職を失ったのです。彼らはヤミ成金になり損ねたのでした。但しこの話を私が聞いたのはつい数年前のことです。昭和23年当時、兄が命がけのヤミ商売に参加していたとは全く気がつきませんでした。
とにかくマトモな職を得難い時代だったのです。
兄の勧めで、家から2時間もかかる町に、区会議員を訪ねたところから、日記が残っています。
電話がほとんど無くて、すれ違い行き違いが『君の名は』と言う超有名ドラマになるような時代。もてなかった女の子のきりきり舞いの青春物語です。携帯なんてとんでもない。家庭の電話さえほとんど普及していなかった時代。公衆電話も少なくて、行列してかけたものです。連絡は手紙で何日もかかる、電報だって郵便局に行かなければ送れない・・・そんな不便な時代だったのです。
(昭和23年11月13日から偽学生になって、街頭で物売りをした話・・・日記の抜粋・・・昔字と旧仮名遣いは、今の表記に変えました)
ニセ学生アルバイト日記・・・No1
11月13日 兄の知り合いY氏を訪ねて一之江に行く。不在だったが学生アルバイト連盟本部でY子さんに紹介され、明日K子さんについて仕事を始めるようにとのこと。
14日(日) 約束の1時に本部に行ったが、K子さんは来られない由。何も始まらず、夕方までY氏を待つ。
初対面のY氏、なんだかあまり感じがよくない。ウチの兄から譲り受けると言う自転車の名前を苦労して書き換えていた。「再建勤労学生連盟」ものものしい名前だ。2日も無駄足して、向こうを4時に出たが家についたら6時だった。電車賃がもったいない。
15日(月)初めてK子さんとノート売りの仕事に出る。彼女は凄く雄弁なので、口下手の私はたじたじ。
二人でノートを担いでバスに乗り、新小岩駅前に預けてある折りたたみ式の台を持って市川に行った。道端に台を置きノートを並べて売る。K子さんの大声に釣られて私も声を出す。じき慣れそうだ。お客が来ないので、もっと駅の近くに移ることにしたが、K子さんは交番に断りに行くのが嫌だと言う。私はそういうことは平気なたちだから、交番と駅に『再建学生連盟です。そこでノートを売らせていただきます』と断りに行って、ポストの傍に店を出したがやっぱり売れない。5時半までに1300円しか売れず、寒いので引き上げた。収入二人で215円也。110円いただく。連盟でおしゃべりして終バスに乗り遅れ、都電の特別区間の小さい電車に乗って小松川橋の手前まで行く。女3人男3人、夜更けの小松川橋を歩いて渡る。川風は冷たいけれど、中川、荒川両放水路の夜景は良いものだ。情緒たっぷりだと話し合う。また都電で錦糸町、中央線で代々木まではY君、Y子さんと一緒だから良かったが、満員の東横線ではいやらしい男にぎゅうぎゅうドアに押し付けられて困った。家について10時半。こんなに遅くなるのでは駄目だと思う。
17日(水)連盟でノートを補充して、K子さんと武蔵小山に出た。人通り少なく見込みがないので自由が丘に引っ越す。大分時間の無駄をした。長いマーケットのはずれの交番まで断りに行くのは遠くて大変だった。お昼を食べていないので25円のパンを買った。(連盟事務所の方の15円のコッペパンが買えると思ってお弁当持って行かなかったのだが、自由が丘には25円のしかなかった)風が強くて、せっかく書いていった紙の看板が破れそうになる。道路とロータリーの間のドブの角に引っ越した。何処にいっても、切符売り場の長い行列に邪魔される。(当時電車の切符を駅の窓口で買うのに長蛇の列が当たり前だった)今日は大分なれて大声で怒鳴ると人は振り向くが、たいして恥ずかしくない。暗くなると街灯が無いので、駅の階段下に移動したら、親切な駅員さんが「そこは暗いから階段の上でやりなさい」と言ってくれた。上にあがって6時半までやって売れなくなったので帰った。(当時は日が暮れると人通りが無くなる)駅の中で何処かの療養所の何かの資金を作るために竹細工を売っておられたが、それを知らずにメガホンで大声を出して大分妨害したらしい。申し訳ないことをしてしまった。残品は私が持ち、台をK子さんに頼んで、直接家に帰ったのが7時。この位の時間なら良いと思う。
18日(木)昨日の残品を担いで新小岩に行ったら、何隊か出発する人達に会う。「Y子さんが並んでいるから」と教えられ、バスの列に割り込んで一台前に乗ってしまう。(当時のバスは何時来るかわからず、超満員が当たり前で、しがみついても乗れなくて、次を待たされることはしばしばだったから、割り込みは悪いと思いつつ、必死だった)K子さん一時半に来て、支度して2時船橋に出かけたが、そこは出してはいけないと早合点して本八幡に行った。ぜんぜん売れないので下総中山に行く。再学連では初めての場所。K子さんの友達に出会い買ってもらう。悪い子供がいて大きな石を耳にぶつけられ痛くて困った。日蓮宗のお寺の何かの日で、人通りは多いが少しも売れない。6時過ぎまでに1200円売れたところで10円のが売り切れたため、売れ行きが止まったから帰った。連盟に戻るといつもぐずぐずしてしまう。K子さんがお友達に貰った飴をみんなに配った。私は自分で作った切りイカのポンせんべい(当時ポン菓子を自分で作る器具が流行っていた)を出すと八方から手が出て私のはほとんど無くなってしまった。飴も出したらY君とHさんとK子さんで食べた。みんな遠慮がなくて面白い。K子さんとY君は口喧嘩ばかりしている。とうとうまた終バスに遅れてしまう。がたがた電車を待ちながら、男の人たちは「怪談をやろうか」といったが私たちが平気なので「Y子さんと違って恐がらないから張り合いがない」と言ってやめた。男子大学生3人と私とK子さんで小松川橋を渡る間、Y君とK子さんはひっきりなしに喧嘩?している。S君達二人は口笛と歌で「アロハオエ」を歌っている。私は喧嘩が面白くて大声で笑ってばかり。通行人にはさぞヘンな連中に見えたことだろう。秋葉原からはY君と二人だ。明日の会食会(Y氏が毎月催す飲み会。未成年にかまわず飲ませた)で大いに意見を述べる由。Y氏を皆が先生と呼ぶのが気に食わないらしい。「君とY氏はどんな関係?」と訊くから兄さんの知り合いだと答えると「彼は、スパイみたいなもんだな」と言う。そんなことは絶対にないのに。君というべきところを、彼というのがY君のおかしな癖だ。
夜の東横線は混むし変な男(痴漢)が多くて困る。家の方は人通りが全くないので気味が悪い。10時帰宅。(続く)
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今日は、ショッピングカートを特注しに、同じ町内の工場までバスで行ってきました。
このメーカーのを長年使っていて、去年買い換えようと探して見つからず、中国製の安物を買ったら4ヶ月で車輪が壊れました。
その後この工場が同じ町内にあるのを発見、買いに行って、私にはハンドルが高すぎるからと改造を頼んできたのです。
帰りのバスまで20分、小雨が降ってきましたが写真を撮って歩きました。
ここの阿弥陀堂も新築されたばかり。豊かな檀家が多いようです。
九人のお地蔵様が、ここでもとても大切にされていました。
お稲荷さんなのに、狐が居なくて、新しい狛犬さんがなぜか鳥居の外に居ました。