昨日今日暑くて参りました。
昨日はやたら眠くて、夕食後は何も出来ず、CDを聞くことも止めて早く寝ました。そのお蔭で、珍しく2日連続で午前4時台の深夜便を聴けました。
児童文学作家 漆原智良さんの「黒潮の瞳を見つめて」というお話でした。
東京大空襲の少し前、小学生だった漆原さんの疎開先に会いに来たお父さんが、笑顔を残して別れたまま、3月10日の大空襲で亡くなられ、彼は戦災孤児になりました。地方都市に住むお祖父さんに引き取られたけれど、インフレで預金を失い、困窮します。彼は新制中学に入っていたが、まだ義務教育は小学校までだったので、14歳で退学して働きに出ます。
しかし何処も重労働の仕事ばかりで、東京のお坊ちゃんだった彼の体力は続きません。
そんな時、横松電気という店のご主人が雇ってくれました。空襲で焼けたモーターを再生して売る仕事で、毎日店先でコイルを巻いていると、同級生だった連中が覗きに来てからかいます。店主は「辛かろう。あいつら追っ払うのは簡単だが、そうすれば明日はもっと大勢でやってくる。ここは逃げるが勝ちだ。奥で坊やと遊んでおいで」そうして漆原少年は同級生が居なくなるまで坊やの子守りをした。その坊やがなんと、作家、立松和平さんなのでした。あの優しい喋り方の立松和平さんは、父上からしてこんなにも優しい人だったのだと納得。
でもその商売はやがて駄目になり、店主の身内の店に世話してもらいます。定時制高校が出来ると中学の勉強を自力でやって、18才で入学。通学しやすい会社を世話してもらって4年間で卒業します。彼が「教師になりたいので大学に進学したい」というと、社長は賛成してくれて、それから1年間懸命に働いて入学金をため、翌年東京の大学(夜間)に奨学金を受けて入学。片道2時間かけて働きながら通う毎日。やがて希望通り教師として離島の小学校に赴任します。電気もない八丈小島。教師は生徒の散髪もする、村のお年寄りに薬を配って歩く。そんな暮らしの中で児童文学の作家になったそうです。
私より2~3歳お若いが、インフレで困窮して14才から働いたのは私も同じ、でも立松和平さんの父上にめぐり会えた為に、次々と優しい人に雇われて、進学の道が開ける。それは漆原さんの育ちの良さ、気立ての良さが幸いしたものでしょう。
私はたまたま、バスの車掌で暮らしを立てなくちゃならなかったから、定時制高校に進学できなかった。学校に行きたい思いは、七十歳で中学に入るまでお預けとなったのです。
でも同時代の空気を吸った者として、当時の苦学生がどんなに大変だったか、想像がつきます。良いお話を聴くことが出来て嬉しかったです。
漆原さんの作品を是非読んでみようと思います。
畑の端にある冷蔵庫。最近見つけた無人の野菜販売所です。
採れ立てのお野菜が冷やして有ります。
昨日はトマト3個150円、トウモロコシ2本200円どちらも美味しかったです。