戦中戦後の子供の暮らし
年寄りの思い出話は、あっちこっちにすっ飛びますがお許しください。
ご近所の方が出征されるたびに、旗を振って見送りました。
出征した軍人軍属の家庭は、初めのうちは少し大事にされました。
家族に戦地に行っている人がいる子供には、講堂で何か演芸を見せてくれたことが有りました。私も兄が軍属だと聞いていたから、出席しましたが、現地で採用された人は把握されておらず、一人呼ばれて「誰が戦争に行っているのか」と訊かれました。「お兄さんが中支の、バンプウ特務機関にいます」と答えたら、小さな飾り人形を呉れました。員数外だった私が貰っちゃって、あのお人形は足りなくならなかったかしらと後で心配したものです。昭和15年ごろだったでしょうか・・・
そのうち何処の家庭も誰かしら戦争に行かされるようになって、特別扱いはなくなりました。
兄は結局民間人扱いのまま、軍属にもしてもらえず、6年戦って軍人恩給もないのです。
昭和16年ごろから毎年夏休みに、お隣の田舎に行かせていただいていました。
同級生の敏子ちゃんの親戚は農家で、茨木の、今はない「真壁駅」から歩いて行かれるところでした。敏子ちゃんの仲良しというだけで、そのお宅でとっても良くしていただき、
数日泊めて頂いて、野山を駆け巡った楽しさは忘れられません。
はだしで走っていて、土踏まずの辺りで蛇を踏みつけてしまったことが有ります。ぬるりと抜けて、小さな蛇は逃げてゆきました。
運動靴の配給は少なく、裸足で済むところははだしでいました。ズック靴が破れると、自分でタコ糸と布団針でつくろったり、ゴム糊で布を貼り付けたりしました。かかとを踏んで穿くなどというもったいないことは絶対にしません、大事なそれしかない靴なのですから。
その真壁の田舎に、私たちは昭和19年の夏休みにも行っているのです。
空襲の始まっている中で、13歳になるかならないかの女の子二人を、旅に出した親たちの度胸の良さには驚きます。
田舎のほうが安全だからでしょう。それに農家では、お芋が入っていても、米粒のあるご飯がいただけました。これは最高に有難いことでした。
その帰り、列車の切符が買えませんでした。下りは何処まででも買えますが、東京に人間を入れたくないため、上りの切符は近距離しか売らないといいます。仕方なく土浦から常磐線で切符が買えた駅まで行って降り、又切符を買いましたが今度は取手まででした。そのたびに次の列車を一時間以上待たねばなりません。何回も繰り返したら日が暮れてしまいます。
二人は困り果てて「キセルしちゃおうか?」と相談しました。二人とも渋谷乗り換えの山手線の定期券を持っていました。さんざん迷って「2時間以上遅くなって日が暮れたら親たちが心配するから」(電話なんてない時代です)という理屈で、こわごわキセルしました。
検札が来ないかとヒヤヒヤ、満員だから車掌さんはまわってこられませんけれど・・・
二人はそのまま定期券で降りてしまいました。
敏子ちゃん一家は間もなく真壁に疎開しました。女学校も転校して。
朋子ちゃんもお隣さんで、一級上の女の子でした。
戦争が終わる頃になってから、彼女の一家は満州に行ってしまいました。お父さんの仕事でというのですが、日本にいては生活できないほど困っていたのでしょうか。肺病のお姉さんを近所の薬局の二階に預けて、行ってしまいました。
お姉さんはひとり寂しく亡くなって、朋子ちゃん一家が帰国したという話は聞かれませんでした。なんとも悲しい思い出です。