戦中戦後の自分史がつい長くなりました。学歴が無いばっかりに、困難が長引いたのです。
いよいよ今回で終わりにします。
私が言いたかったのは、空襲で焼かれもせず、殺されもしなくても、
戦争は弱者に極端なひもじさと、長い苦労を強いるという事です
大変恵まれていた私でさえ、これだけ長い間、戦後を引きずりました。
ですから、家を焼かれ家族を殺された人々の苦悩は、私の何百倍、何千倍も大きかったはずです。
戦争だけはしてはいけません。
敵を作らないこと以外、国防の道はありません。憲法九条を護るべきだと思います。
(ドアなしのバスで、停留所毎に降りていた車掌は、雨の日合羽を着たのか?というご質問が有りました。
合羽は有りませんでした。濡れていました。濡れた記憶はありますが、傘をさした記憶は無いのです)
【結婚したら、まわりにびっくりされて】
30才過ぎて結婚し、35歳で娘を初出産。
目黒の保護司さんたちは「あの娘が結婚して子育てするなんて考えられなかった」とびっくりして噂し合ったそうです。
バス時代の見習いさんたちも「びっくりした。オネエサンが結婚するなんて考えられない」というのです。
そこまで変人に見えたのかなあ・・・? 何しろ、男に頼ろうなんて気持ちが全く無い娘でしたからね。
「君を頼りに私は生きる・・・」という歌が大っ嫌いでした。ぞっとするほど嫌いだったのです。
長女は、私に輪をかけて自立心旺盛な子で、24歳のとき自分の貯金だけ持ってスペインに渡って早17年。
今ではあちらで3歳の坊やを育てながら、社長秘書をしています。孫は二重国籍で、目下二つの言語を特訓中です。
一昨年親子三人で来日しましたが、次に来る日が楽しみです。今年か来年の夏・・・
43歳で産んだ息子も世帯を持ち(孫娘が二人)私たち夫婦だけになって、それでも68歳まで私は清掃請負の仕事をしました。
七十歳の時、雑誌で通信制中学を発見しました。
私はすぐ入学し、スクーリングを一日も休まず、皆勤賞を頂いて卒業しました。
七十代の中学生生活の楽しかったことといったら、本当に幸せでした。今でも連立方程式が好きです。
来月、母校の卒業式に参列した後、同年代の数人でクラス会をします。
埼玉に引っ越したので高校進学は出来ませんでしたが、移住したこの町で昔語りの語り手になって楽しんでいます。
忙しい忙しいと、今までで一番幸せな時を過ごしている私です。
年金は少なくて暮らし向きはなかなか厳しいのだけれど、まあでも、終わりよければ総て良しと致しましょう。
長々お読みいただいて有難うございました。