私たち兄弟の「戦争体験」「戦場体験」をしばらく書き連ねます。あちこちで語ったり、書いたものを時間とページ数にとらわれず、一つにしてまとめてみます。数日間隔で20回を超えると思います。
私は、戦争体験、戦場体験を語り継ぐいくつかの運動に参加していますが、戦争体験の中でも、戦場体験は今消え去ろうとしています。敗戦の時、入隊して間もない初年兵だった兵士が82歳です。志願した少年兵の一番年少者でも78歳です。しかも元兵士たちはなかなか口を開きません。語らないまま亡くなっています。忌まわしく、思い出したくもない体験を語りたくないのは当然でしょう。
戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いにほかなりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地に於ける体験であります。軍隊では戦闘が目前になくとも、日常不断に人殺しのための訓練が行われていました。日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。兵士たちが優秀な兵士となることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。
戦地に於ける兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替えることとの葛藤の日々だであったとも言えます。内地でのいわゆる「戦争体験」も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的違いはここにあるのです。
私たちは元兵士たちに説得します。あの悲惨な戦争をくりかえさないために口を開こう。語り継ごう。語ることの出来ない戦死した戦友のためにも、悲しみ、怒り、口惜しさ、無念の思いを語ろうではないか。
戦場体験を後世に語り継ぐための私たちの呼びかけの言葉です。「生きているうちに語ろう」「語らないうちに死ぬことは止めよう」
私は、このMLでまだ語っていませんでした。語ることにします。折に触れ、感想、質問をよろしくお願いします。また、「戦争体験」や「戦場体験」を語るとき、必ずその人の生き方や、戦争に対する考え方が反映されます。私の参加している運動は、「不戦兵士・市民の会」「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」「戦場体験放映保存の会」「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」です。
「少年兵兄弟の無念」(1) はじめに 猪熊得郎
私は一九二八年(昭和三)九月生まれで現在79歳です。
本籍は東京中央区日本橋浜町三丁目、小学生時代は牛込区(現新宿区)市ヶ谷富久町で育ちました。新宿の伊勢丹裏から市ヶ谷の士官学校、九段の靖国神社に通じるじる当時は6メートル幅の靖国通りに面して私の家がありました。
子供の頃は、毎日のように戸山が原の射撃場や、代々木の練兵場に行き来する軍装した兵隊たちの行進を眺め、勇ましい軍歌を聞きながら育ったのでした。休みの日には、斜め前のカフエに、沢山の兵隊がたむろしていました。
私は一九四四年(昭和十九年)十五歳で少年兵を志願し、一九四七年(昭和二二)十二月にシベリアでの抑留生活を終え復員したのは十九歳でした。十六歳の初めての戦闘体験で、アメリカ軍戦闘機の攻撃で壕の入口に爆弾を落とされ、切れ切れになった同期生の戦友の死体を集めて五体を揃え、十一名を確認したとき、戦争とは格好良いものではない、まさに人と人との殺し合いなのだと肝に銘じたのでした。
旧満州公主嶺飛行場で敗戦のとき、「歩いてでも日本に帰るのだ」と別れた十七歳の戦友の、とぼとぼと飛行場から消える影を見送ったことも忘れません。殺されたのか、飢え死にしたのか、彼は未だに日本に帰っていません。
シベリアの収容所で、夜中にふと起き上がって、「帰れるんだ、汽車が出る。味噌汁が飲める、お母さん」そう言ってバタッと倒れ、そのまま亡くなった戦友の声が、今でも耳に残っています。
二歳上の兄は人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として沖縄出撃途中、一九四五年(昭和二〇年)三月、十八歳で戦死しました。喧嘩をしたことなど一度もない、真面目で、温和しく、芯があり、家族思いの兄が出撃直前、次の遺詠を残していました。
身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人 殺し殺すも なほ あきたらじ
身体はは一つしかないが、千にも砕いて、アメリカ兵千人を殺すのだ。それでもなお飽き足らない。
十八歳の、あの温和しい優男の兄が、こんな歌を残して出撃をしたのでした。当時の人間魚雷回天特攻隊の搭乗員は、半数以上が予科練(少年兵)出身で、回天が正確に敵艦をとらえれば、一人の搭乗員、一隻の回天で、確実に敵艦を沈めることが出来る。戦艦、航空母艦なら四千名のアメリカ兵が乗っている。巡洋艦なら一千人以上、駆逐艦なら数百人だ。
回天搭乗員が一人で一千人宛のアメリカ兵を殺せば、家族を、愛する人達を、そして祖国日本を守ることが出来るのだ、そう真剣に思っていたのでした。
しかし、旧軍部、厚生労働省の杜撰な記録で、兄の正確な戦没場所も、戦没日時もいまだに分かっていません。
戦後六十年以上経った今も、私は毎年沖縄を訪れ、兄の足跡を探し求めています。少年たちの純真な心を利用し死に追いやった戦争指導者の謝罪を一度も聞いたことはありません。
私は、私や兄など、当時の少年がどのようにして戦場に赴くようになったのか、そしてどのような戦場体験をしたのか、そして42万名を超える少年兵についてこの機会に語ることと致します。
【「戦争しか知らない子供」として】
十五年戦争といわれるアジア・太平洋戦争は一九三一年(昭和六)九月十八日の柳条湖事件を発端とする満州事変で始まりましたが、私が小学三年のとき、一九三七年(昭和十二)七月七日には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的戦争となりました。そして中学一年の時、一九四一年(昭和一六年)十二月には、日本軍のマレー半島上陸、真珠湾奇襲攻撃とアメリカ、イギリス、オランダへの宣戦布告によってアジア・、太平洋戦争が全面的に繰り広げられ、一九四五年(昭和二〇年)八月十五日の「ポツダム宣言」の受諾による日本の無条件降伏によって戦争は終わりました。
七〇年代に「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがヒットしましたが、私たち兄弟は、「戦争しか知らない子供」として育ち私たちの「青春」はまさに戦争の中の青春だったのでした。特攻隊員として十八歳で戦死した兄は、戦争のためにだけ生き、そして平和の時代を知ることなく、短い生涯を沖縄の海に散っていったのでした。