(1)入社したころ
むかしむかし、昭和30年代が終わるころまで、路線バスの車掌という職業が有りました。40年代になってワンマンバスに仕事を奪われるまで、少女たちはかなり過酷な労働に耐えていたのです。
冷房も暖房もない超満員のバスで、乗客も、乗務員も、我慢、ガマンを重ねていたころ。
そう、これは、日本に、我慢することがいっぱいあった頃のお話です。
今も仲良しのハルエさんと私が、東急バス不動前営業所の車掌になったのは、朝鮮戦争がまだ止まない昭和26年の春でした。私の方が少しだけ早かったけれど、まあ同期と言えるでしょう。(ハルエさんは結婚しても子供が無かったので、そのまま45年間東急に勤続したのでした)
彼女は、不動前営業所(車庫と言っていました)の近くの中学を卒業したばかりの15歳。私はそれまで5年間様々な仕事を転々として19歳になっていました。
昭和13年に死別した父の遺産を一時払いの郵便年金などにして、国に預けていたのですが、敗戦後の激しいインフレで、1ヶ月暮せたはずの金額が、コッペパン一個になってしまい、あっという間に消滅していました。
朝に夕に物の値段が上がる恐ろしさを、今の人は知りませんね。世の中は今の不況とは比べ物にならない激しさで流動していました。物資の流通は、正規のルートと闇ルートに分かれており、正規のものは値上がりが遅い代わりに、わずかづつしか配給されません。米も小麦粉も、遅配欠配、足りない分はアメリカからの援助物資のトウモロコシ粉ならまだしも、砂糖を米の代わりに配給されたりしました。米の代わりに買わされた、油を絞った後の大豆カスと、小麦粉を作った後のフスマ(小麦の皮)などは食べても消化できないしろものでした。昭和26年に食糧事情がどの程度好転していたかはっきり覚えていませんが。
戦前は百円で一家が一ヶ月暮せたのに、戦後には妙なデザインの十円札が出来て、それがたちまちパン一個も買えない紙切れ同然になりました。
朝鮮戦争特需で息を吹き返した日本経済。労働組合の賃上げ闘争が激しさを増して、物価手当が少しついても、生活必需物資が極度に不足したまま、朝に夕に値上がりするので、働いても働いても暮らしは苦しいままでした。
上手に闇商売をする人々と、朝鮮戦争に使う武器や物資を作る会社は大儲けできたでしょうが、庶民には何の恩恵も実感できていませんでした。
月給は月二回に分けて、10日と25日に支払われました。手にした給料で早く物を買わないと、明日は値段が上がるありさまでした。
私の初任給は月4000円ぐらいだったと思います。昭和23年に外人家庭の住み込みのハウスメイドが、4000円でしたから、インフレの進んだ26年に同額では良い給料とは言えなかったけれど、他がもっと安かったから、応募者は多かったのです。(9年後に退職する頃の月給は、2万円ちょっとだったと思います)
15歳が一家の主要な稼ぎ手だった時代です。男たちの多くが、太平洋戦争で死にましたから、母子家庭が多かったし、国の援助も全くなかった。戦争犠牲者への補償なんて全然ありませんでしたし、空襲で家を焼かれても、誰も補償などしてくれません。一つの家に何所帯も間借りして、それはそれはひどい住宅事情でした。
だから、義務教育を終えれば働くのが当たり前、高校に進学できる子はクラスに数人しかいませんでした。
当時バスの車掌は少女たちの憧れでした。制服は有るし町工場より賃金は上でしたから。それが15歳には過酷な労働だと気付くのに時間はかかりませんでしたが。
(2)見習いは2週間だけ
入社すると2週間先輩について見習いをします。そのあとは出来てもできなくても独り立ちさせられます。
揺れる車内で切符を切りに歩きまわるのに、歩き方など教わらないから、慣れないうちはみんな乗客の膝の上に尻もちをついたりするのですが、私はウエイトレスを(胸を病むまで)半年間やった経験が有って、「腰を入れて歩く」ことが身についていました。(当時のウエイトレスはお盆を片手の上に載せて、気取って歩いたものです)
つかまらずに立って切符を切るには、片足のつま先を前方または後方に向け、もう片方を90度開いて横に向け、両方のつま先を常に内側に向けようとし続けると、体が床に貼り着きますし、揺れに柔軟に対処できます。これは忍者の立ち方でもあるそうですが、私は自然に会得しました。(今でも電車の中で掴まらずに立っていられます)それでも急ブレーキで一番前まで吹っ飛ぶことは有りましたが。
見習い中のことはあまり覚えていません。
指導車掌は、教え方の訓練などうけていませんから、すべて自己流で教えるのでした。様々な性格の指導車掌がいて、教え方の下手な人は意地悪くしごくので、見かねて乗客が怒り出すようなことも有ったそうですが、たいていは親切に教えました。私も嫌な思いをせずに教えて頂くことが出来ました。