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市長にも気にいられていた父・・・ルーツ・・・⑤
今日は話を私の両親に戻しましょう.

13年くらいのアメリカ生活で、父がどうしてあれ程羽振りが良かったのか、実にに不思議です。最初の渡米は23歳より後の筈、明治33年、23歳の時14歳の妹を取り戻したのですから。

アメリカから嫁を迎えに一時戻ったのが明治36年26歳頃です。叔母を取り戻してすぐ渡米しても、この間3年しかありません。渡米して三年以内に嫁を迎えるほどの経済力をどうやって持てたのでしょうか?
当時サンフランシスコに渡るには客船で十数日かかったはず、(もっとかしら?)往復の船賃もかなりなものだったでしょう。それを三年足らずで結婚するために一時帰国し、その翌年くらいに妹を呼び寄せています。借金は嫌いだし、なんでそんなに早く船賃を捻出出来たのでしょうか?

カリフォルニアではある一時期に、中国人排斥運動があって農場労働者が不足し、働き者の日本人は大歓迎されたそうです。その頃の出稼ぎ日本人は大儲けをして仲間をどんどん呼び寄せた、と言う話がありますが、父が農村で働いた様子はありません。
母の話では一時期中国人のコックを雇って大衆食堂を経営していたと言いますが、労働者の多い街なので、お代わり自由のパンばかり大量に食べられたと言っていました。そんな商売で大儲けは出来ないでしょう。

結婚の4年後明治40年ころから沢山の写真を撮っています。自分の大きなカメラを持ち三脚も、現像焼付けの機械も皆買い揃えて、かなりの技術で写真を残しています。それが百年経っても全く色あせていないのです。(印画紙をとても丁寧に洗ったのだそうです)キャビネ版のガラスの原版まで残っていて戦後印画してみたら鮮明に写りました。

母は自分に合う既製服が無いため、ミシンを買って服は総て手作りしていました。洋裁の心得はなかったのに。
でもなんで最新のカメラやミシンを買えるほどリッチだったのでしょうか。
貿易商を目指して渡米したのですから、おそらく何かの貿易で一山当てたのでしょう。
母は何事も父任せで、仕事のことは全然覚えていないのでした。

写真に写っている豪邸は元サンフランシスコ市長のお宅で、バカンスの間だけ留守番を頼まれて夫婦で住んでいたそうです。但し使用人ではなく、留守番しながら自分の仕事をしていたようで、自分の邸みたいな顔をして写真を撮りまくっています。
元市長にえらく気に入られていたそうで、その子息と令嬢の写真も撮っています。
なんでそんなに人脈が豊かだったのか?本当に不思議な父なのです。


この写真は傷みが酷いですが…父の足からコードが出ているのはこの写真だけなので。
実は足でシャッターを押しているのです。
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サンフランシスコ市長。この豪邸の主です。
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市長の令嬢と令息。カッコイイですね。
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市長邸で働く看護婦さんも美人です。市長夫人が病気だったのかもしれません。
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by hisako-baaba | 2005-12-11 17:27 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(3)

叔母夫婦の金婚式記念写真・・・ルーツ・・・④
叔母夫婦の金婚式記念写真・・・ルーツ・・・④_a0050728_15175961.jpg
 
 叔母夫婦の金婚式の写真が見つかり、1957年とあるので 逆算して結婚は明治40年だった
 ことが判明しました。叔母は21歳で結婚したのでした。
 向かって右端が長男、左端が次男です。
 ふえるアルバムの糊が線状についていて、綺麗には撮れませんでした
叔母夫婦の金婚式記念写真・・・ルーツ・・・④_a0050728_15222976.jpg

 この写真は明治末期でしょうか、長男と三人で日系人の写真館で撮ったセピア色の写真です。
 『イトウ アート スタディオ サンフランシスコ』と台紙に書いてあります。
 おそらく七五三の記念写真だろうと思います。

 叔母の帽子飾りは一体どうなっているのでしょうね?当時のファッションは面白いです。
  
 叔母夫婦は部屋の高いところに、明治天皇と皇后の写真を額に入れて掲げていました。
 日本人であることを強く意識して暮らしていたと思います。
by hisako-baaba | 2005-12-10 15:46 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(3)

アメリカで生きた叔母一家・・・ルーツ・・・③
昨日は 父が叔母を養家から取り戻したいきさつを書きました。
そこで叔母の話を先にまとめておこうと思います。

私の父が渡米して、一度嫁を迎えに帰って、サンフランシスコで新婚1年の頃に、妹も呼び寄せます。明治40年に私の叔母は日系人に嫁ぎました。何の商売かはよく知りませんが、ウチの両親が帰国した後もロス郊外で暮らし、日本人排斥の時代にも耐え、根強い差別にもめげずにがんばっていました。息子二人をアメリカの大学に入れて、晩年は夫の故郷で暮らすつもりだったのでしょう、淡路島に農地をかなり手に入れていました。小作人に耕作させて小作料収入も有りました。ところが日米開戦で何もかもめちゃめちゃになったのです。日系人は家を追われ店も手離し内陸の砂漠地帯に作られた収容所の鉄条網の中に押し込められました。若者は両親の立場をよくするために、軍隊に志願しなければならなくなり、次男はヨーロッパ戦線に向かいました。叔母夫婦にとって戦争の頃が一番辛い時期だった事でしょう。
囚人のような暮らしの中、日本人会は団結して助け合ったと言います。砂嵐が吹きつけ、寒暖の差の激しい過酷な砂漠で、戦争が終わるのをじっと待ち続けました。戦争が済んでもとの家に戻れた人ばかりではなく、色々な混乱があったようです。ずっと後になってアメリカ政府は、戦時中日系人を砂漠に押し込めたのは誤りだったと認めて、賠償を支払いました。
叔母達は息子が二人とも無事でしたから稀に見る幸運な家族でした。
しかし今度は日本の農地改革です。地主から農地を取り上げて耕作している小作人に安く与える大改革でした。地元に住む地主には一定量の土地を残すことが許されましたが、“不在地主”の農地は総て安く没収されました。故郷の土地が農地であった為に、叔父は総ての土地を失い老後の夢は空しくついえました。それでも長男は弁護士になったし、次男も順調で、それぞれに家族を持ちました。
叔母は叔父が高齢で亡くなったあとも息子達とは別棟でひとり暮らして、日本人の女の子をホームステイさせたりしておりました。

戦争直後は叔母達も元の暮らしを取り戻すのに苦労していた時代だと思いますが、私にはチーズやキャンデーや綺麗な古着や化粧品まで度々送ってくれました。私だけが学校へも行かれないでいるのを心配してくれたのです。

その後70歳近くなって夫婦で来日したときは、ゆっくり話す暇もありませんでしたが、私の父への感謝は深く、母には複雑な思いが残っているようでした。『いじめられたのよ』叔母がポツリと漏らした一言で私には察しがつきました。同じ歳である私の母とその2歳違いの妹がいる家に、田舎からいきなり連れてこられて、何もかも違う暮らしに彼女は大混乱に陥ったようです。私の母はのほほんとしたお嬢様育ち、人の痛みなど気付きません。その妹はずけずけものを言う江戸っ子。二人は自分の着物を知らない子に着られることで親に文句も言ったでしょうし、いじめる気は毛頭なくても、二人の物言いが棘として14歳の叔母の心に突き刺さって抜けなくなっていたようです。
でも私のことは一番心配して、精一杯援助してくれました。

その昔父が14歳の叔母を奪還してくれたお蔭で、敗戦後、私は暖かいセーターなどを着ることが出来たのです。新品の浴衣を2反、日本に注文して送ってくれたこともあります。
しかし従兄の世代とは交流がないまま縁は切れてしまいました。
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  叔母夫婦と母。帽子にベールを下げているのが叔母、真ん中が私の母です。
by hisako-baaba | 2005-12-09 16:57 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(4)

苦学生だった父が末の妹を奪還した話・・・ルーツ・・・②
10歳で父を15歳で母を亡くし、妹達は機織りの労働力として別々の機屋に養女にやられてしまって、一人上京した金太郎(私の父)が母の叔母の家の書生になったことを前回書きました。

苦学生として、『東京高等商業学校』(後の商大、現在の一橋大学)に通っていた父は、周囲に妹のことを打ち明けました。一人は病死しましたが別の機屋(はたや)に下の妹がいるのですと・・・『面倒見るから取り返して来なさい』と勧められ交渉に行きましたが、『養女として8年も育ててきた者を、いまさら返せるか』と断られます。
父は友人の助けを借りて妹を連れ出し、峠を越えて逃げました。友人は『追っ手を阻止してやる』と言って抜き身を引っさげ(日本刀を抜いて)峠に仁王立ちしていてくれたそうです。追っ手が来たかどうかは解りません。
こうして父の妹 寿美(すみ)は無事神田の私の母の家に着きました。ここで生まれて初めて鶏卵を食べてびっくりしていたそうです。玉子など触ったこともなく、殻もぶよぶよ柔らかいものと思っていたのだそうです。6歳から機織りをさせられ、足が届かないので織機に足の台をつけて無理やり働かされていたそうです。
その後交渉して養家から戸籍も取り戻しました。
学校に行っていないので女学校の先生のお宅に預けて、学校に通わせてもらいました。

叔母は後に渡米して日系一世同士で結婚、ロスアンジェルス郊外で百歳を超えるまで幸せに生きました。戦後私に食品や衣類や化粧品まで度々送ってくれたものです。長男は弁護士になり東京裁判に来日、一度会いました。その後叔母夫婦も戦後の故郷を見に一度来日しました。

人の運って面白いものですね。終わり良ければ総て良しです。

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by hisako-baaba | 2005-12-08 15:52 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(2)

三井昌志さんの写真展に行ってきました
行ってきました。『たびそら』写真展。

お昼に神保町角の『うみ』という安くて美味しい回転寿司に同級生と、ウチの兄とで行って、
それから一橋中学に9ヶ月ぶり先生に会いに行ってひとしきり楽しいおしゃべり。
半蔵門に出て、麹町の写真展でpasoさんも合流。三井さんに会っておしゃべりして、6時に帰宅したところです。

『たびそら』から出た2冊の本には載っていない写真もたくさんアルバムで見せてもらいました。
モロッコのサハラ砂漠にも・・・端の方には人が住んでいてびっくり。草一本ない見渡す限りの砂漠に子供が立っていたり・・・緑が無くても暮らせるのですねえ。
インド洋大津波の被災者が笑っているのもほっとします。なんでこうもニューオーリンズの被災者と表情が違うのでしょうか?

楽しい一日でした。pasoさんはもうじきトレドに帰ってしまいます。又会える日までお元気で。

昔語りは今日はお休み。


 
前から気になっていたものを撮ってきました。ピンボケですが。
神田錦町学士会館前にある、ボール型の地球を握っている巨大な手の像。どういう意味かな?
三井昌志さんの写真展に行ってきました_a0050728_18151084.jpg

by hisako-baaba | 2005-12-07 18:26 | Comments(6)

実は幕末の志士の末裔なのです・・・ルーツ・・・①
昔語りを大正14年から書き起こしながら、明治の写真を載せてややこしくしてしまいました。大正昭和の写真も沢山あるのですが、天袋の奥に有って今私には出すことが出来ません。
どうせなら父という、私にとって永遠の謎である人物の生い立ちから、いいえもっと前、祖父の17歳から語ってしまおうと思います。

いきなり時は幕末。元治元年(1864年 元治は1年だけ、翌年はもう慶応元年)3月、水戸の天狗党が筑波山で挙兵します。武士と農民、神官なども加わっての大部隊。
水戸天狗党の悲劇参照
水戸藩は、勤皇派の天狗党と佐幕派の諸生党に二分対立していました。天狗党は天皇に政治を返せといい、諸生党は幕府に忠誠を尽くすという。
天狗党がせめてあと1~2年時勢を待って挙兵したなら、世の中に大きく貢献したかもしれないのに、明治になる4年前に挙兵してしまった彼らは3月から12月まで辛い進軍を続けた挙句、敦賀で降伏し大量処刑に遭うという悲劇を招きます。
3年後には全く別のところで、坂本竜馬らにより大政奉還がなされて、4年後には明治維新を迎えるのに、急ぎすぎた彼らは幕府によって処刑されてしまいました。
このとき17歳の祖父は19歳の兄と天狗党に加わっていました。それより5年前、安政の大獄で兄弟の父は獄死したという説もあります。しかし祖父の本名も身分も全くわかりません。彼は一人生き延びたことを恥じて誰にも語らなかったようです。
天狗党が千人ほどの隊列で整然と行軍する中で、信州辺りで病に倒れたか、和田峠の戦で負傷したのか、とにかく歩くことが出来なくなってひとり脱落。やがて落人の隠れやすい甲州に身をひそめます。
明治の代になり彼は甲府の在の農家に婿入りします。身分を隠し名前も総て変えて。
しかし、明治政府に対し物申したいことの多かった彼は、百姓をせず新聞創りに熱中します。
それによって農家の家運を傾けてしまったのかもしれません。その挙句明治20年 40歳の若さで急死します。酒に命を奪われたようです。(祖父と二人で新聞を作っていた友人は、その後立派な地方紙に育て上げ、その新聞は今も続いています)
残された子は長男金太郎10歳(後に改名、私の父)と 妹二人、末の妹はまだ1歳でした。
未亡人になった母親に言い寄る男を、12~3歳の金太郎は刀を振り回して追い払ったそうです。
母に再婚の意思があったなら気の毒なことでした。薄幸な母親は5年後に病死してしまいます。
孤児になった妹達は、表向き養女に出すということで、機織娘として売り飛ばされてしまいます。
15歳の金太郎は一人上京、うまく書生になります。書生とは金持ちの家に住み込み、雑用をしながら学校に通わせてもらう青年のことです。
そうして働くうち、婿になれといわれて飛び出し、今度は女子小学校の首席訓導(教頭先生)で婦人会長も勤める独身女性の家の書生となります。その女性が私の母の叔母で、幼い日に疱瘡を患って薄いあばたが残った為、生涯独身で教育に身をささげた人でした。
私の父と母は9歳違いの幼馴染だったのです。

神田の母の家はというと、代々幕府御用達の花屋で華道の師匠。苗字帯刀を許されていました。
西南戦争のときは物資の輸送に当たる人夫を束ねて、船で鹿児島に行ったそうです。皆船酔いで何も出来ず、一人元気な祖父はこき使われるのが嫌さに酔ったふりをして鰹節をかじってひもじさに耐えたそうです。祖父はかなり遊んだ人のようで、三十代半ば過ぎまで独身でした。再婚の女性と結婚。『嫁して三年、子無きは去る』という時代。祖母は子供が出来ずに婚家を追い出されていました。でも古い戸籍謄本によると、彼らは出来ちゃった結婚なのです。ということは恋愛結婚だったのでしょうね?
私の母が2月に生まれて、大喜びの祖父は絵師にお雛様の掛け軸を描かせました。それは今も従姉の家にあります。私にくれるといわれたけれど、家を相続したのは叔母なので断りました。写真にだけは写してきましたが。
小学校を出ると母は町内で一人だけ高等女学校に進学しました。東京府立第二高等女学校。現在の都立竹早高校の第一期生だったのです。

今日はここまでにいたします。
実は幕末の志士の末裔なのです・・・ルーツ・・・①_a0050728_1736222.jpg

 上は 明治35年の戸籍謄本。母方の祖父の職業は『挿花指南』と記載されています。
 これは母が父に嫁ぐ1年前の戸籍謄本らしいです。母が16歳だから。色々と訂正が入っていて
 面白いです。達筆な人が書き写して、間違えても訂正で済ましたり紙を貼ったりしてあります。


実は幕末の志士の末裔なのです・・・ルーツ・・・①_a0050728_1736355.jpg

 祖父の書いた母の臍の緒書。臍の緒と一緒にしまわれていました。生まれた時間をくわしく記し
 生まれ年を 明治19年、紀元2546年、旧暦丙戌年、西暦1886年、迄克明に書いていて、
 長女誕生の喜びがわかります。
by hisako-baaba | 2005-12-06 17:55 | 幕末からの我が家の歴史 | Comments(5)

いつもラジオが鳴っていた洋館・・・幼い日・・・①
年寄りの思い出話はあっちこっちぶっ飛んで、時間軸と関係なくなってしまいました。
りんご箱見れば”偽学生アルバイト”時代を思い出し、こんにゃくを料理すれば小学校を思い出す・・・これじゃ収拾がつきません。少し時間を追ってみようと思います。

昭和6年に私が生まれたのは目黒の高台。新興住宅地の一番端。前は広いひろい練兵場(陸軍が訓練する広っぱで普段は誰でも自由に入れた)
大正14年に父が建てた家は外見は洋館だけれども、パーラーとダイニング(親たちはそう呼んでいました)以外は畳敷きでした。
パーラー(客間)とダイニングはふかふかの絨毯。そのダイニングを父は食堂にはしないで(隣のキッチンから食事を出すカウンターまで造ったのに)居間兼書斎にしました。一番温かい良い部屋でしたから。大きな木のデスクを置いて、なにやら厚い書物に囲まれていつも勉強していました。
母と私はその部屋で遊んでいました。私が騒いでも怒られることはなく「久子は嫁にはやらん。敷地内に家を建てて婿をとる」と言われ続けていました。
食事を軽視する父は、北向きの和室に食卓を置きました。食事はただ食べればいいという調子、お酒も全く飲まないし・・・孤児として育った為か一家団欒を全く考えない父でした。

今年はNHK放送開始80年ですね。放送が始まったのが大正14年3月で、目黒の家が完成したのは7月。新し物好きの父はすぐラジオを買いました。
私は生まれたときから、付けっ放しのラジオを聴いていたわけです。ラジオの気象通報で、5歳ごろの私は八丈島に興味を持ちました。母と私の寝室が八畳だったので、八丈島に見立てて、周りを海として想像の遊びを繰り広げました。何しろ友達がいませんから。ねえや(お手伝い)さんに『みよちゃんそこは海だからおぼれちゃうわよ」なんて言いながら・・・

アメリカに叔母がいましたので、青い目の大きな人形が幾つも有り、市松人形やら、応接セットの精巧なミニチュアやら、おもちゃはふんだんにありましたが、想像の世界で遊ぶ方が好きでした。

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上の写真なんだかわかりますか。『聴取無線電話私設許可書』第42387号・・・大正14年7月24日。
つまりラジオを聞く許可書で、この紙切れをラジオのそばに置けという命令があるので、これを一時失くした時再発行してもらったものと2枚あります。
東京逓信局長の許可なくしてはラジオは聴けなかったのですね。

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これは明治40年、サンフランシスコに住んでいた頃の両親です。よそのお屋敷で撮っています。
自分のカメラで、父は本の陰でシャッターを押しているのです。原版はキャビネ版ガラスのカンパンです。もっと鮮明なのですが、古い写真をデジカメで撮ったのでぼやけてしまいました。
当時の写真は全部自分で焼き付けたらしく、百年経っても全然色あせていないのです。不思議な気がします。私にとって父は謎です。
by hisako-baaba | 2005-12-05 12:06 | 我が家の歴史 | Comments(5)

繰り返し使える こんにゃくのカイロ・・・小学校時代
さむくもないのに、おへその上に熱いこんにゃくを載せて寝かされていたことが何度もありました。
こんにゃくはぐらぐら煮て、渋紙か何かで包んだ上に手ぬぐいで巻いたものをお腹に載せて、冷めると又母がゆでてくれました。繰り返し使えるカイロの代用品でした。
それはいつも9月で、大腸カタルとか、赤痢とか言われて1週間ぐらい学校を休みました。
転校した小学2年から5年までそれは繰り返されました。体が登校拒否を起こしていたのです。

父の突然死が(朝起きてこなかった)7歳の私には受け止めきれず、父の葬儀も納骨も一切記憶にありません。もっと幼い頃私を抱いて寝かしつけようと長い廊下を行ったり来たりしてくれた父の顔と、廊下のペンダントライトをはっきりおぼえているのですが。
その上小さい家に引っ越して転校したショックも大変なもので、新しい環境になかなかなじめませんでした。

転校先の学校は1学年が4クラスで、1組2組が男子、3組4組が女子でした。生徒のクラス替えは全くないのに、3組は6年間同じ先生で、4組は6年間に担任が7人も代わりました。産休の代用教員が来たり、1年経てばで定年になる先生だったり。私の4組は3組に比べて酷く不公平な扱いでした。勉強にはついてゆけたけれど居心地悪いままでした。だから気管支炎もよくやりました。

そんな私が突然元気になったのは、6年で担任になった宇多先生のお蔭です。色の黒い元気な三十代の女性で、お子さんもいたようです。
薙刀の好きな先生は体操の時間によく薙刀の型を教えました。大きい声を出せるので私は薙刀が大好きでした。木の薙刀は講堂の隅に立てかけてあり太いのと細いのがありました。
みんな軽い方を争ってとりますが私はちびの癖に重い方を選びました。振り回して気合が入りやすいからです。
エイッ! トオーッ! 私が一番大きい声を出しました。先生と相性がよくて学校が急に楽しくなり、一年間風邪も引かず皆勤賞でした。順手懸垂を15回やれてクラス一になったのは、体重が軽いからですが、ブリッジをやってちゃんと起き直れたのはその年だけでした。算数もクラス一になり、女学校の受験も通り、私の短い学校生活の中でたった一年だけ陽の当たった年でした。

女学校からは工場に動員されるし、空襲で工場も学校も焼け落ちる、そんな暗い時代に入る直前、昭和18年度のことでした。
私にとって6年生の楽しい一年間があった事は大きな救いで、宇多先生だけは懐かしく思い出されます。
戦後、同窓会に一度だけ行きましたが、宇多先生には会えず、又女学校に行かれなくなっていたのは私だけなので、恥かしい思いをしてそれっきり二度と参加しませんでした。
宇多先生にはお会いしたいといつも思っていたものです。

そのまま学校には行けず、七十歳になってから入学した一橋中学通信制の楽しさは又格別でした。
こんな楽しい学校があったのかと、とにかく嬉しくて、今年卒業するまで、無欠席でスクーリングに通いました。家庭の都合が難しいけれど、でも何時かはと高校進学を目指しています。



           飲み屋さんの店先にはパンジーやバラが沢山咲いています。
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           他のお宅では「かくれみの」が紅葉していました
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           公園に沢山あるこれは何の木でしょうか???
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           今日はとても冷たい雨です。でもジムにはちゃんと行きました。
by hisako-baaba | 2005-12-04 18:36 | 我が家の歴史 | Comments(5)

サーキットトレーニング
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もう8ヶ月、私はこんなところに通っています。 誰も居ないときに撮らせて貰いました。
フィッツミーという女性専門の”お店”です。

プチフィットネスというか簡単なサーキットトレーニングの”お店”なんです。
近所の商店街の信用金庫が撤退した跡に出来たとっても小さなジム。
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マシンと黒い板が交互に8台ずつ円く並んでいるだけで、あとは更衣室とトイレだけ。
シャワーも何もありません。

近所に大きいスポーツクラブがあって、プールなどさまざま整っていますが、主婦にはそんなに時間がないし、お金もかけられない。
その点この”お店”は1回大体30分。買い物帰りや仕事帰りにちょっと運動して、帰宅してから汗を流す。これだと毎日通えます。値段も大きいスポーツクラブの半分。大きいジムの豪華な設備を思うとちょっと割高な気がしないでもないけど・・・とにかく簡単便利。
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サーキットトレーニングというのは最近はやりなんだそうで、円く並べたマシンを1回30秒やって、アナウンスどおりに、次はクッションのついた板の上で思い思いに足踏みやダンスなど好きな運動を30秒、時計回りに次のマシンに移ります。8台だから1周8分。3周して24分。前後にストレッチと血圧脈拍測定。1周ごとに脈拍を計りますから全部でおおよそ30分。
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会員は20代から70代、若いお母さんもいて小さい子供は囲いの中で、ビデオを見たり遊んだりして待っています。
時間によってはここが満員になりますが、軽快な音楽と30秒毎のアナウンスでスムーズにまわってゆきます。

私は1台だけ医師に止められているマシンがあります。腰掛けて足を上下する機械。私には足腰に負担が大きすぎるので、それを抜かして代わりにアブドミナルという腹筋運動のマシンを2人前やります。

若い方は激しく運動します。私はそれにつられないように用心してマイペースで、脈拍を105以上には上げません。
それでも毎月の測定で、基礎代謝が上がって、脂肪が少し落ちて、筋肉量が少し増えました。
僅かづつ着実に効果が現れてきています。ちゃんとお腹が引っ込むのはどのくらい先かなあ・・・?

若いインストラクターのお嬢さんたちとおしゃべりしながら毎日楽しくやっています。

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by hisako-baaba | 2005-12-03 15:44 | Comments(7)

ヤミ船の遭難・・・偽学生アルバイトの話・・・⑦
昭和13年秋、私が7歳のとき父が急死して、翌年2月、18歳の兄は中国にわたりました。
兄は特務機関員として特異な体験を重ねながら、21年夏帰還しました。この間の話は、『日中戦争の中の青春』に載せました。
中国に残留するつもりが果たせず、心ならずも離れ離れになった恋人と、文通ができたのは(当時国交がなく郵便は不通でした)兄が中国代表団に中国名前で運転手をしていたからですが、しかし国交回復の兆しもなく二人が会う手段もないまま、昭和23年別れを告げる手紙が届きました。ショックを受けたのでしょう、兄は安定していた住み込みの仕事を辞めました。
その後も家を離れたままでしたので、2~3年前に訊いて見ました。『私が偽学生アルバイトをしていた頃、兄さんは何をしていたの?』と。飛び出した話には仰天しました。闇屋の手伝いをして船で遭難したとのこと・・・
当時は価格統制があって、配給にまわる食品などは公定価格が決められていましたが、闇値はどんどん上がります。漁師さんは港に水揚げすると、公定価格で買い取られてしまいますが、沖でヤミ屋に横流しすれば高く売れます。だから沖にヤミ船が買い付けに行くのです。
兄達はいつものようにヤミ船で魚を買い付けたあと、エンジン故障で漂流。氷のない時代だから魚は全部腐ってしまい、千葉県の船橋から、横浜の三渓園辺りまで流されて座礁。船は大破。命からがら上陸したものの、ヤミ商売は駄目になったそうです。
兄の波乱万丈はまだ続いていたのでした。
ヤミは違反ですがヤミ商品が出回らないと、配給だけでは餓死者が出る状況でした。
ある判事さんが、自分は一切法律違反のヤミ物資は口にしないと言って、飢え死にしてしまいました。命をかけて法を守ったのはご立派でしたが・・・・・・
庶民は何とかして食料を手に入れて命を繋いでおりました。


  今日は寒い曇天でした
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           つわぶきがまだ咲いていました。

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           名残惜しい花たち
by hisako-baaba | 2005-12-02 18:27 | 偽学生になってアルバイト | Comments(6)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
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