一昨夜、食事の片付けが遅れてキッチンでばたばたしていたとき、ふと見ると、テレビにハンセン病療養所が映っていました。動きながら耳だけそばだてていましたが、お話は良く解りました。
80歳の女性は、愛情溢れる大家族の賑やかな家庭から『らい病感染』を理由に一人引き離されて、療養所に入れられ、19歳のとき、患者同士で結婚しました。その日夫は血だらけのパンツを洗濯してくれと出したのです。子供を作らせないために、断種手術を強制されてきたところでしたが、彼女は夫が自分に言わずに手術を受けて、子供を持てなくなったことでショックを受け、夫にわだかまりを持ってしまいます。夫のセイでは無いのですが、許せない感覚を持ち続けたのは、子供を産めなくなった事への怒りだったのでしょう。それでも60年連れ添って、介護を続けて、夫が亡くなったとき、彼女は号泣していました。
本当に「ひとり」になってしまったのです。
もう一人の女性は、(途中から見たのですが)二人目の子を身ごもったのがばれて、8ヶ月にもなった胎児を子宮から掻き出され、それでも生きていたので、目の前で息の根を止められてしまったそうです。あまりのことに、夫婦は脱走、長男を連れて農業で暮らしをたて次男を産みました。その幸せは次男が2歳のとき、打ち砕かれます。らい病患者を見つけ出して収容する役人が来て、夫は治っていたし子供も感染していなかったので、彼女だけが強制的に収容されてしまいます。その後も治る見込みが立たないので、子供たちに新しい母親を迎えてくださいと身を引きました。
やがて特効薬が出来て、今日本にはハンセン病患者は一人もいません。みんな『元患者』なのですが、故郷と縁を切らされた彼らに帰る所は無く、未だに療養所暮らしです。
何十年ぶりかに彼女は次男と会いました。2歳のときに別れて、連絡取ることも遠慮していた息子さんは継母に育てられ立派になっていました。
その頃、58年前に中絶させられた女の子が、ホルマリン漬けの標本にされて、残っている事が判明します。彼女は娘を返して欲しいと要求しましたがいつまでも返してもらえないので、支援者と東京に陳情に出かけるようになったときいて、息子さんは何回目かに、母に付き添いました。生まれて初めて母子で歩く東京。浅草を案内されて楽しそうなお母さん。
ようやく彼女の要求は認められました。58年ぶりに、ホルマリンから出して、棺に入れられた娘と対面。用意してきた産着を掛けて、かわいいと泣くお母さん。息子さんも感慨深げに姉の小さな遺体と対面・・・荼毘に付された遺骨は、療養所内の納骨堂に納められました。お母さんは墓も無かった娘を、もも子ちゃんと呼んでずっと供養していたのですが、58年もたってようやく納骨出来たのでした。
胎児を殺された人は、どのくらい居られたのか、人権無視も甚だしい時代でした。
今回テレビに出られた方は、手には異常があっても、顔は崩れていない方々でした。
実際は、もっともっと重症の方が多くて、眼球をえぐりだして、義眼を入れている方や、入れずに、眼窩のくぼむに任せている方。鼻がそげて、唇が変形した方など、なかなかカメラにはお出になりにくいのでしょう。

私が多磨全生園を初めて訪ねたのは、20代半ばのことでした。日本点字図書館の朗読グループに、全生園盲人会から、『お正月の新聞だけでも、読んで欲しい』という依頼があったのです。5~6人で訪問しました。そのときショックを受けたのはある歌を聞かされたことでした。愛子さんという方が『舌読みは 唾液に濡れて・・・・(正確には覚えていませんが)手指が崩れて居る上に、感覚が無いので、舌で点字を読むのだが、濡れてしまって点が潰れて読めなくなる。という意味の歌でした。手先は火傷しても気付かない無感覚状態。目は見えない。大変なことだと思いました。
そこで私は個人的に新聞の特集記事などを録音して、おしゃべりも添えて送るようになり、世の中に録音図書が行き渡るまで続けました。『茶の間の声』という私のテープは全国12の療養所に回送されました。これは苦しい事ばかりだった時代に、私の生きる力となりました。
御殿場の駿河療養所盲人会から招かれて、泊りがけでお訪ねした事もあります。そこは南方戦線でハンセン病に感染し、復員しても故郷に戻ることを許されなかった兵隊さんたちの療養所でした。皆さん若くて明るく活気がありました。兵隊さん以外にも、女性が小数居られました。
ハンセン病患者は男性が圧倒的に多く、女性が感染する割合はごく少ないのです。
『ここでは女性は良いんだよ。失明したって嫁に貰い手がいくらでもあるから』と聞かされました。男性は滅多に結婚できないのでした。
療養所内で結婚する際、不妊手術が義務付けられていたことは戦後になっても同じでした。
遺伝病ではないと科学的にわかった頃には、若い患者はもういませんでした。
子育ての権利を奪われた人たちの悲しみは、はたから想像しきれるものではないと思います。
「らい予防法」は廃止されたし、みんな完治したけれど、他の病気をたくさん患っていたり、身内が一人もいなかったり、その上顔や手足が異様に崩れていては、外に出たくは無いでしょう。勇気を持って社会復帰されたのは、体力のあるごく一部の方だけでした。
時間だけは十分お持ちだから、勉強家が多くて、凄い知識をお持ちの方や、短歌や俳句に秀でた方も多くいらっしゃいます。でもわが子を抱けなかった悲しみは癒えることが無いのです。