人気ブログランキング |


<   2008年 08月 ( 33 )   > この月の画像一覧

解らない事ばっかり

あまり使わない我が家の電話。今朝久しぶりに使おうとしたら、通じません。
そこで、コレも滅多に使わないケイタイで、用件を済ませ・・・・・・はて何がどうなったのか、修理を頼むべきかと、機械の周辺を調べました。(Bフレッツ・・・とやらの光電話で、パソコンも一緒です)

総てのコードはちゃんと繋がっているけれど、電話機の傍の二つの機械のうち、小さいほうの機械の電気が消えていました。

そこで、その機械の電源を抜いて、すぐ入れなおして見たら、正常に戻り、自分のケイタイにかけたら、ちゃんと繋がりました。・・・なんだったのかしら???わけが解りませんでした。


例の花名人の小さな花壇に新顔が・・・何かしら?
a0050728_2223282.jpg


a0050728_22241269.jpg


数日前。このブログを書いているときに、下の言語バーの一部が消えてしまい、平仮名が出なくなりました。言語バーを復活させようとやみくもにいじりましたが、どうしても出てきません。
前から、時々画面下の色々なバーが、何もしないのに出たり引っ込んだり、一段だったのが2段になって邪魔だったりします。
そういう時は、いったん電源を落として、入れなおせば、直ることも、それでもダメな事も有りました。

ためしに今回も電源を落としたいけれど、ほとんど書き終えたブログが消えてしまうのは惜しい。そこでいったん送信しようとしたら、題名が書いて無いと言う。仮名打ち出来ないので、ローマ字で題名を書いて、仮に送信。
すぐ電源を落として、再度入れなおしたら、言語バーが出ました。 やれやれ・・・
結局、編集しなおして送信することができましたが・・・・・・言語バーが行方不明になったとき、どうすればいいのでしょうか???ばあちゃんには、解らない事ばっかりです。
by hisako-baaba | 2008-08-20 22:44 | 終のすみか 暮らしの周辺 | Comments(8)

昭和18年に、日中戦争を止めようとした 、破天荒な男の話。

今回、日刊ベリタに載った兄の文章は、面白いので是非お読み頂きたいです。
ここをクリック
昭和18年ごろ、重慶まで飛行機を飛ばして、蒋介石と和平交渉をしようとし、天皇の許しも得たのに、反対者に止められ、実現出来なかった男の話。

辻政信・・・彼の破天荒な人生は、他の事で知られていますが、蒋介石と和平を図り、アメリカとの戦争だけに集中しようとした話は、知られていないので、是非書いて欲しいと、実は私が兄にせがんだのです。

もし彼が、あの時和平を実現させていたら、その後の戦争はどんな展開を見せたでしょう・敗戦は明らかでも、違った負け方があったかも・・・
又彼が、ラオスで消されてしまわなかったら、ひそかに中国で共産党政権とどんな交渉をしたでしょうか・・・?
by hisako-baaba | 2008-08-19 23:03 | 愚かな戦争 | Comments(4)

アヘンの儲けで戦争・・・

「阿片戦争」は昔・・・イギリスが清国(昔の中国)に仕掛けた理不尽な戦争でしたが・・・

日中戦争でも・・・日本は、ひそかにアヘンを作って売って、その膨大な儲けを、戦費に当てていた・・・と、先夜のNHKテレビで見てびっくりしました。

上海辺りのアヘン窟も、実は日本が蔭でやらせていた・・・?暴力団以上に凄い・・・と思っていたらこんな記事も見つけました。・・・すごい・・・
戦争って・・・なんでも有りなんですね・・・恐ろしい・・・
by hisako-baaba | 2008-08-19 11:25 | 愚かな戦争 | Comments(2)

仲代達矢さんの記事

こんな記事を見つけました。
私より一歳若い 仲代達矢さんの記事です。
共感したのでお知らせいたします。
by hisako-baaba | 2008-08-19 06:30 | 愚かな戦争 | Comments(2)

信義に厚かった中国人将軍の思い出

兄が日刊ベリタに、かつて強い信頼関係にあった中国人将軍の思い出話を書いています。
(蒋介石を一度裏切った人物が、信義に厚いと言うのはヘンなようですが、その時は数万の部下を飢えから救わねばならない、事態だったのです)
by hisako-baaba | 2008-08-17 16:21 | 愚かな戦争 | Comments(2)

名残の写真

昨日の雷雨と暴風は凄かったです。でも北陸などではもっともっと酷かったようですね。

涼しくなってから、買い物に出ようと思っていたら、一天にわかに掻き曇り・・・物凄い雷鳴。
やがて激しい南風に大粒の雨が、リビングにまで吹き付けました。ガラス戸を開けられなくなり、無理して買い物に出ていなくて良かったと思いました。

十分なお湿りになって、今日の気温は30℃に届かないようでほっとしました。


残りの写真です。
takeshi達とのお別れ会の日、子供たちはそれぞれ叔父ちゃん叔母ちゃんにむしゃぶりついて行って、遊んでもらいました。
叔父ちゃんの手のひらに乗って。
a0050728_6331766.jpg

叔母ちゃんは力持ち。
a0050728_15502144.jpg

叔父ちゃんの頭をかき回すユウホ。
a0050728_6352617.jpg

このみんなが、次に集まるのはいつのことでしょうか。

婿さんは、沖縄もとぶ流空手の有段者なんだそうで、今回の来日では何度も道場に通いました。
a0050728_644093.jpg

by hisako-baaba | 2008-08-17 06:46 | 終のすみか 暮らしの周辺 | Comments(4)

終戦の日に

8月15日・・・63年前と同じような、じりじり暑い日になりました。

私はその日、14歳になったばかりでしたが、猪熊 得郎氏は17歳で、たった3歳しか年上ではないのに、悲惨な戦場を体験し、シベリア抑留まで体験する事になったのでした。

その体験記を、1~5話、6~10話、と5話ずつまとめて、転載させていただいております。
今日は ↓ 11話から15話まで掲載しました。

カテゴリー『少年兵兄弟の無念』でまとめて有りますので、5話ごとに順を追ってお読み頂けたら嬉しいです。

それから私の八月十五日と言うこんなサイトに、多くの人が体験を載せておられます。
今日は、過去の戦争から学び、平和を護る方法を考える日にしたいものです。
by hisako-baaba | 2008-08-15 08:00 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(6)

少年兵兄弟の無念(11) 猪熊得郎

 【関東軍と王道楽土】
 特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に一年六ヶ月から九ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になったようです。シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和二〇年二月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。二月末から、私は、水戸・長岡教育隊で待機することになりました。沖縄と台湾への転属組が、それぞれ、隊伍を組んで出発しました。前線に喜び勇んで別れの手を振る戦友たちを、じりじりとする焦りと、うらやましい思いの入り交じった気持ちで、「がんばれよ!」と送り出しました。台湾か沖縄か。アメリカの反攻は沖縄に向かいました。台湾組みの殆どは、戦後無事に帰国しました。あの時手を振って別れた沖縄組みの半数は、生きて還りませんでした。二十歳前の青春を沖縄戦で散らしたのでした。三月一〇日、真っ暗闇の夜、壕の中で、西の空が赤々と照らされるのを眺めました。東京大空襲で、日本橋浜町の家が焼けたなど知るよしもありませんでした。戦後、姉からその夜のことを聞きました。父は警防団の班長をやっていました。近所の人はみんな逃げ出したのに、父は、隣の家の消火に夢中でした。そのうち
我が家が燃えだし、慌てて隅田川沿いに浜町公園に逃げ込みました。しかし、公園には高射砲隊が陣取っていました。明治座に入ろうとしましたが満員で人が一杯、入れません。仕方なく、新大橋のたもとで夜を明かしました。ところが明治座は猛火で炎上しました。中に入った沢山の人は焼け死に、父と姉は命拾いをしたそうです。
 本土防衛のために編成された第六航空軍に残りの大部分が転属となり、抜刀した中隊長を先頭に、意気揚々と隊伍を組んで出発をしました。京城に司令部があり中国方面を守備範囲とする第五航空軍組は、それぞれの任地に別れて出発しました。 四月、やっと関東軍に転属になりました。兵長でした。中国東北部、当時は日本の傀儡国家満州国の首都「新京」、現在の長春に第二航空軍の司令部がありました。途中東京を通るときは、あの東京大空襲の後ですから、車窓からの眺めは辺り一面の焼け野原、品川の海まで見えたのでびっくりしました。家は焼けたに違いない、父や姉はどうしただろうか。心配でたまりませんでしたが、どうすることも出来ませんでした。特幹入隊の前日、庭に、一生懸命防空壕を堀ったのを思い出しました。父が、「明日入隊だ。そんなことしなくていいよ」と云いながら、そばにきて汗をぬぐってくれました。門司から連絡船が出ないので、博多から釜山には貨物船に乗ったのですが、船はどんどん沈没させられていた頃で、救命胴衣を付けさせられて、「無事着けるかわからないぞ」なんて言われながら釜山上陸しました。釜山から長春までは汽車で行きました。長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。「情報無線」に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。
私の配属されたのは第二二対空無線隊で、中隊本部が長春にあり、市の外れ、満福街にありました。隊からは満州各地の飛行場に対空無線分隊を派遣していました。隊の雰囲気は何か異様です。「特幹」とか、「少年飛行兵」とは違う「若い」のが、二十歳前で、兵長になってやってきた。古兵たちが、「落ち度」がないか、あいつらぶん殴ったってまだ下士官ではない。「上官暴行罪にはならない」と虎視眈々、私たちを狙っているのです。内地や台湾に転属した組みは違っていました。下級技術系幹部の不足、新しい機器で訓練を受けてきた若手と言うことで、早速、兵長のまま下士官待遇され、初年兵の教育を任された者もあったようでした。
隊では、何かあってはと言うことで、当初、特幹7人、最古参の准尉が指導担当で、別個の特別教育の毎日でした。先に述べたように、私は初外出のとき、「『突撃一番(避妊具)』など持って慰安所に行かなければ立派な帝国軍人になれないのですか」とやって叩きのめされ、初外出が禁止になりました。これを知った担当准尉は烈火のごとく怒り、下士官全員を集めて、「俺に何の話もなく、特幹にちょっかいをかけたら、貴様たち、ただでは済まないぞ」と凄ごんだそうです。初めて外出できたのは四月二十九日の天長節(昭和天皇の誕生日)でした。驚きました。「新京」は満州国の首都です。日本で言ったら東京です。街の真ん中に慰安所があって、兵隊がズボンのベルトに手をかけて列をつくって順番を待っているのです。いわゆる身体を使う仕事、汚れる仕事はみんな中国人で、日本人は威張っていました。電車に乗ると運転手や車掌はみんな中国人ですから、兵隊たちは「切符は後ろの奴が持っている」、後ろでは「前の奴が持っている」と嘘を言って無賃乗車をしていました。道ばたで中国人がスイカを売っているときも、兵隊の一人がその中国人と話し込むのです。その間に別の兵隊がかっぱらって行ったり、どの兵隊も白昼公然とやっていて、愕然としました、 
日本の「記念日」です。長春の中心にある大同広場(現『人民広場』)に関東軍司令官の山田乙三と満州国皇帝溥儀の花輪が飾ってありました。山田乙三の方が上座にあるのです。満州国皇帝溥儀の花輪は下座です。中国人部落は危険だからと立ち入り禁止でしたが、演習で、重武装して部隊で入ったとき、子どもたちに石をぶつけられました。子どもたちはみな、私たちを恐れず、憎悪の目で睨み付けていました。恐ろしかったです。「満州国」建国の理念「五族協和・王道楽土」とは一体何だろう。「八紘一宇・
大東和共栄圏の確立」と言うけれどもどうなっているのだろうか。私の胸に疑問がわいてきました。心の中では八紘一宇とか大東亜共栄圏というのは信じていたし、だから、当然、五族協和、王道楽土が実現していると思っていました。八紘とは広い地の果て、
天下という意味です。一宇とは一つの家ということです。神武天皇が即位のときに発した言葉をもとにしています。八紘一宇、大東亜共栄圏の確立というのは、日出ずる国の天子、つまり天皇の意向のもとにアジアをそして世界を統一しようという対外膨張を正当化するために使われたスローガンです。五族協和、王道楽土というのは「満州国」建国の理念です。満州民族、大和民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の五民族が協力し、アジアの理想的な政治体制を「王道」として、満州国皇帝を中心に理想国家を建設するというものです。
天皇はこのことを知っているのだろうか。天皇に申し訳ない。誰がこんなことをやってんだ」と、また疑問に思うのです。兵隊の中には慰安所なんて当然だと並んでいる人もいるし、これはどうかと並ばない人もいる。私の中には、やはり戦争の目的はこういうことではないという気持ちがありました。今考えると全くのインチキですが、それをほんとに信じていたのですから、日本の天皇が盟主の中心なのに、その日本人が泥棒し、ふんぞり返ってはいけない、そう思っていたわけです。俺は皇軍の、天皇の兵士の一人だから慰安所なんてとんでもない。ところが、そういう女も買えないような兵隊に敵兵が殺せるか、そういってぶん殴られるのです。純粋に八紘一宇・大東亜共栄圏の確立を信じ、天皇のため、その「聖戦」に参加し、一兵士として身を捧げることを誇りとしていた少年兵の私は、「何か間違っている、天皇の御心をねじ曲げている奴らがいる」そんな怒りと悲しみが高まっていったのでした。
by hisako-baaba | 2008-08-15 07:46 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念 (12)    猪熊得郎

【陽動無線・内務班のしごき・ソ連侵攻を前にして】
私は五月に入って敦化(とんか)飛行場に派遣されました。敦化は吉林省の西北部にあり、朝鮮国境にも近く、弾薬の集積地でもありました。近年、日本軍が遺棄した毒ガス兵器で事故が起こっています。立派な飛行場がありましたが、南方に移動して飛行機は一機もありませんでした、関東軍はどんどん南方に移動していました。
1941年6月22日に独ソ戦が始まり、7月2日、天皇の臨席する大本営政府連絡会議が、御前会議として開かれました。この会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定され「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方の問題を解決す」という方針が示されました。
南方進出については、帝国はその自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各搬の施策を促進す。 之が為対米英戦準備を整え先づ「対仏印泰(タイ)施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す。帝国は本号目的達成の為め対米英戦を辞せず。とし、

北方については、
独「ソ」戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す。此の間固より周密用意を以て外交交渉を行う。独「ソ」戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。とさだめていました。北方についての「密かに対ソ武力的準備」の具体策は、陸軍の大動員でした。この時までの関東軍は、平時編成の12個師団、35万人の兵力を擁していました。この関東軍の兵力を戦時編制にし、16個師団で対ソ戦準備を整えようとしたのでした。この動員は、対ソ戦の企図をかくすため、秘密のうちにすすめられ「関特演」(関東軍特別大演習)とよばれ、人員50万人、馬15万頭が動員され、在満州・朝鮮兵力16個師団85万人の態勢が整備されました。その後日本は対ソ武力行使の企図は中止され、対米英戦の方向に進むことになりましたが、関東軍の戦備が最も充実した1942年夏前後の在満州・朝鮮兵力は、一般師団14、戦車師団2、戦車旅団1、騎兵旅団1、国境守備隊13、独立守備隊9、独立砲兵連隊19、独立砲兵大隊14。兵員約65万、戦車675両、装甲車155両、飛行機750機で強力な戦力でした。
(当時の極東ソ連軍は、師団29、戦車旅団20などを基幹とする兵員約145万、戦車2589両であった。)
しかし、1945年ガダルカナル島に始まった南太平洋方面からの連合軍の反攻に対して、その9月以降、関東軍から航空部隊のほか、一部の地上部隊の抽出が始められました。それ以来1945年春まで、関東軍は兵力供給基地と化し、在来精鋭部隊の殆ど全部が抽出転用されたのでした。ですから私が敦化飛行場に着任した頃には満州全土に飛行機は300機も無かったでしょう。少し前、新京東飛行場で、少年飛行兵15期生の操縦士が赤とんぼと言われた複葉練習機やグライダーで訓練をしているのを見ました。「なんで、そんなもんで訓練しているのだ」「そんなもので勝てるのか」と聞くと、「飛行機がないのだ」「敵機が来襲すると情報が入れば、これで上空に待機するのだ。待ち構えて、1対1の体当たりだ」という返事が返ってきました。同じ兵長ですが、私たち特幹より軍歴は長く、そして私とあまり年の違わない彼の眼差しは真剣でした。「お互い、頑張りましょう」そう言って敬礼を交わして別れましたが、ソ連の侵攻がはじまった後、彼は、どうなったでしょうか。「果たして日本は勝てるのだろうか。」「これから日本はどうなるのだろう」それが、国難に志願した少年兵の実感でした。シベリアに抑留されたときに国境にいたという兵士の話を聞いたのですが、重砲を皆南方に持って行ってしまったので、樽にコールタールを塗り、遠目には野砲に見せかけていたということでした。敦化飛行場での対空無線分隊の任務は「陽動無線」です。「陽動無線」というのは、実際には飛行機がいないのに、本部や他の基地と頻繁に無線通信をして、いかにも飛行機がいるかのように見せかける通信任務です。15人の分隊員が交替で、24時間送受信です。受信は数台の無線機で、数種の周波数の電波をとらえます。気象条件の影響で、電波は、高低、強弱、震えるフエ-デイングという現象に、ソ連の妨害電波が入り混じります。電波のリズムに無意識の感を働かせつつ5字遅れ、7字遅れに鉛筆を走らせます。上官や古兵の不合理な命令やいびりもなく、分隊員が一つになって、家族か兄弟のように心を合わせて任務に取り組んだ、充実した瞬間をこの時期味わうことが出来たのでした。7月初め、任務終了を告げられ、撤収して、本隊に帰りました。
新京の本隊は、なにか慌ただしく落ち着きがありませんでした。銃の遊底はみな取り外されました。遊底とは、銃に弾丸を込めるところのカバーです。埃や雨水などが入らないようにカバーしているのです。無くても射撃には差し支えありません。余分な鉄の回収だとのことです。新兵がたくさん増えています。数ヵ月後にソ連と交戦をするかもしれない。そんなとき、対空無線隊に新兵をたくさん入れて一体どうしようというのでしょうか。
航空部隊ということで、銃は3人に1丁、中隊武器庫から員数外で保管していた銃で兵隊の数に合わせました。しかし、軍靴はなく地下足袋、水筒は竹筒といった有様です。関東軍は一体どうなっているのでしょうか。これで本気で戦うのだろうか。そんな疑念が胸いっぱいに広がってきました。
こんな状況の背景です。1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありました。1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」
4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を発令しました。関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むという戦術でありました。関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、というものでした。そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりました。師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機でありました。しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからという状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10万人はいたということで、野砲も400門不足pしていました。新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハン事件で、の戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。
一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。
中隊では、新兵の教育訓練が始まりました。指導教官は見習士官。補助員として、特幹が当てられました。古兵をあてたら初年兵が壊れてしまうという配慮からでしょうか。おかげで私たち特幹は、毎日初年兵と一緒に教練で、模範演技を見せなければなりませんでした。初年兵はとりわけ大変です。6年兵、7年兵がいます。ここまで古くなると「解脱」(げだつ)の境地でしょうか。若い兵隊たちをあまりいびりません。寝台の神様で将校も下士官も煙たく敬遠して腫れ物に触るような扱いです。実際に内務班を取り仕切る5年兵のお目付け役です。内務班をかき回しているのは、3年兵、4年兵です。戦闘もなく、家族にも会えず、たいした任務もなく、ただ兵舎で暮らしているだけの古兵たちの楽しみは、祝祭日の外出で「慰安婦」を買うこと、そして内務班で新兵たちをいびることなのでした。私が語るよりも適切な文章がありますので、それを紹介します。
「不戦」89年3月号「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より
(前略)初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や褌を洗濯する暇もない。入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。(中略)ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。(中略)
初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している。規格に合った強い兵隊を作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)
徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)………

私たち特幹7名は、あらかじめ「寝台の神様」7年兵には話をつけておき、朝食後も、晩食後も、初年兵の訓練、演習に参加する以外は、班を抜け出し、一緒に集まることにしました。古年兵たちから身を守る「自衛」のためです。「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」本気でそんな風に思っていました。
毎週日曜になると、外出どころか「脱走兵」探しです。我慢がならなく脱走するのです。内地からでなく、現地召集の兵隊は土地勘があります。中国語もある程度できます。中国人部落に逃げ込み、匿ってもらったら百パーセント発見不可能です。応召の四十近い初年兵が自殺をしました。内地からの兵隊です。理不尽で地獄のような内務班生活に耐えられなかったのでしょう。便所で、銃剣を立て懸け、屈みこんで喉を突き息絶えました。上官の責任が問われます。自殺したことは内密にして、事故死として遺骨は送り返されたようです。これも「名誉の戦死」なのでしょうか。遺族には何と報告したのでしょうか。次々に見聞きする異常事態に「これで勝てるのかな」という不安が募る一方、日本は正しいと信じていて、「天皇陛下の大御心(おおみこころ)を途中で捻じ曲げる奴がいるからこういう事態になるのだ」「天皇に申し訳ない」「いつか立派な軍人になってこういう奴らを正すのだ」と思うのでした。子どもの頃からの日の丸・君が代・天皇づけの教育とは恐ろしいものです。なにしろ「天皇」は「大元帥陛下」で、「神聖にして冒すべからず」の「かしこくも現人神(あらひとがみ)」であらせられるのです。でも天皇のために死ぬとは思っていませんでした。「天皇陛下万歳」なんていうのはインチキです。(恰好をつけるポーズだと思っていました。死ぬとしたら、「祖国」のため、「愛する家族」のためだと思っていました。
by hisako-baaba | 2008-08-15 07:42 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(0)

少年兵兄弟の無念 (13)   猪熊 得郎

【新京の暑い夏、8月】
1945年8月、新京(長春)の夏は暑く、日差しは強烈でした。心配をしていた東京の我が家からの便りが届きました。
看護婦会を経営していた日本橋浜町の家は3月の空襲で消失、避難した薬局経営の市ヶ谷富久町の家は、またまた、6月の空襲で消失、父と姉は無事、リヤカー1台の荷物で、杉並の父の友人宅に落ち着いたとか。父は「得郎は満州で大丈夫だ」と言っているとのこと。赤い夕日の夕闇に、しばし、故郷の家族との日々を偲びました。
新京東飛行場や新京西飛行場では、時々八路軍のゲリラが出てくるとの情報がありました。照明弾が打ち上げられ、慌てて探索にゆくが、何時も逃げられてしまう。両飛行場の対空無線分隊からの報告です。中隊本部でも警戒が強められました。衛兵勤務では、「誰か」、「誰か」、「誰か」、と、3回「誰何」(すいか)して応答がなければ「発砲」「射殺」すること、と命令されました。
日本政府・ソ連軍の動向・・・政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしていました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否するでもなく回答を引き延ばしていました。その「和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政策を持っていました。7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末としていました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していました。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討していました。
ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生かし、日本軍をこう観察していました。
 日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈この上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。かつ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。 しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持っている。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団そのものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っている。」(ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社)
5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。ソ連軍最高総司令部は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20日~25日と予定されていました。8月6日広島に原爆が投下されました。8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機が勢揃いしていました。
ソ連の侵攻
8月9日早朝、ソ連機の空襲がありました。「いよいよ始まったか」、「手ぐすね引いた関東軍だ」、「待ち構えてロ助なんて、いちころだ」、威勢の良い言葉が飛び交っていました。昼過ぎ、人事担当の曹長に呼び出されました。「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は明朝、公主嶺飛行場の第2分隊応援のため、無線機材とともに出発せよ」との命令です。10日早朝、無線機材を積んだトラックに同乗して公主嶺飛行場に駆けつけました。
公主嶺は新京から南へ約60キロの美しい町です。与謝野鉄幹と晶子夫妻は昭和3年に満蒙旅行をしましたが、晶子が6月3日に公主嶺で詠んだ歌です。
夏雲が楡の大木のなす列にいとよく倣ふ公主嶺かな
しずかなり水ここにして分るると云う高原の駅のひるすぎ
まろき楡円き柳の枝となる羊飼はるる牧場に立てば
青白く楡銭乾けりおち葉より用なげなれどなまめしけれ
当時、在満の航空兵力は約300機、うち戦闘可能なもの200機でした。飛行戦隊は次の10戦隊です。 独立第15飛行団・  飛行第104戦隊、独立飛行体第25中隊、独立101教育飛行団・第5練習飛行隊、第23、24、26、42、教育飛行隊第4、第13、第22錬成飛行隊。
公主嶺飛行場では、第22対空無線隊第2分隊が第13錬成飛行隊と協力をしていました。第13錬成飛行隊は、ザバイカル方面のソ連戦車攻撃に飛び立っていました。対空無線分隊は、小さな単位ですが、飛行戦隊に協力する独立した部隊です。第2分隊の構成は15名、分隊長は東京府立化工出身乙乾の軍曹、まとめ役は古参の兵長、そして少年飛行兵第15期兵長、特幹1期兵長3名、その他上等兵、1等兵、2等兵計9名です。
分隊長と5名の兵長が送受信担当で、他の兵士が、設営、保守、営繕、炊事、運輸担当です。「さあ、やるぞ」と張り切っていたのですが、翌11日「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で、分隊は送信所、受信所とも撤収して、急遽新京に戻りました。日の丸鉢巻き 水杯、新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり、重要書類を焼却する黒煙が立ち上っていました。公園や広い道路には陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。性能の良い高射砲はみんな南方に持って行きました。残った高射砲はせいぜい3,4千メートルの高度にしか届きません。ソ連の飛行機を撃ち落とせません。日本の対戦車砲では、ソ連戦車の装甲板は撃ち抜けません。弾丸が跳ね飛ばされてしまいます。それで高射砲の水平射撃でソ連戦車を撃破しようというのです。満州国の首都新京で市街戦の準備です。7月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たちが、「義勇軍」に動員されていました。開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。国境線を突破したソ連軍は、戦車を先頭に、猛烈な勢いで進撃をしているようです。
戻りついた中隊本部は騒然としていました。下士官も、古年兵もソ連機の空襲にそわそわおどおどしています。内地でさんざん空襲に遭い、機銃掃射で戦友を失った我々特幹が目立って落ち着いていました。夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、各地の飛行場から戻った対空無線分隊員の兵長以上が集められました。先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞がありました。「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」、「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹
底すること」、「暗号書保管の担当者を定め、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいています。しばしの沈黙の後、「おう」、「やるぞ」、「お互、さらばだな」、低い声のささやきがかわされました。日の丸鉢巻きで、水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。水杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点にゲリラ活動をしよう。)」16歳の私は、妙に冷静でした。「いよいよ最後かな」、「お父さんどうしているかな」、家族のこと、故郷のこと、これまでの思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。私たち第2分隊は、朝満国境近く、通化後方の梅花口飛行場で、戦闘配備に着くことになりました。ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大公安嶺山脈を突破し、また雄基、清津 等の港から上陸し北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。
14日夜、私たちは新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。
by hisako-baaba | 2008-08-15 07:32 | 少年兵兄弟の無念 猪熊得郎 | Comments(2)


1931年生れのhisakobaabaが七十代万歳と言って始めたブログが八十代に続いています
ブログパーツ
カテゴリ
以前の記事
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
フォロー中のブログ
最新のコメント
marshaさま いま..
by hisako-baaba at 18:30
日替わりで温度差が大きい..
by marsha at 17:57
dekoさま お返事が..
by hisako-baaba at 17:09
marshaさまのご両親..
by hisako-baaba at 16:19
saheizi さま ..
by hisako-baaba at 13:18
油断大敵、お大事に!
by saheizi-inokori at 12:59
昨日は私も開戦の日のこと..
by marsha at 11:59
こんばんわ いつも前向..
by Deko at 19:36
koroさま もう14..
by hisako-baaba at 17:18
saheiziさま そ..
by hisako-baaba at 17:08
そうそう覚えています^^..
by koro49 at 14:05
saheiziさま 最..
by hisako-baaba at 21:41
スマホの字を大きくしても..
by saheizi-inokori at 20:51
marshaさま いや..
by hisako-baaba at 22:13
Kiyokoさま ぴっ..
by hisako-baaba at 22:11
saheiziさま 全..
by hisako-baaba at 21:50
痛み!このやろ!
by saheizi-inokori at 20:58
あっぱれ!!! 全くどう..
by marsha at 20:46
久子さまお顔がいかにもお..
by sidediscussion at 19:53
saheiziさま、 ..
by hisako-baaba at 15:38
最新のトラックバック
venussome.com
from venussome.com
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
緊急事態だぞ! 映画「日..
from 梟通信~ホンの戯言
いちはやく -189:児..
from 虹色せんべい
世界遺産に登録される日本..
from dezire_photo &..
月 長元坊 巨人機 溶岩..
from 掬ってみれば無数の刹那
セルバンテス『ドン・キホ..
from dezire_photo &..
セルバンテス『ドン・キホ..
from dezire_photo &..
検索
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧