バス車掌の時代 正木鞆彦著 現代書館 1992年刊 を読んで驚いたこともたくさんありました。本の内容と、自分の思い出がごちゃまぜになりそうですが
「むかしむかしのバスガール」を補足する意味で今日は書いてみましょう。
まず驚いたのは、路線バスの車掌と言う職業が出来たころは、洋装の職業婦人の草分けとして、あこがれの目で見られていたと言うこと、今ならさしずめ客室乗務員のような存在だったようです。
都バスのルーツ、東京の市営バスが開業したのは大正13年。関東大震災で、電車が壊滅したため急きょバスを走らせました。はじめは車掌なしで、停留所に人が立って切符を売っていましたが、じき車掌の募集を始めました。応募してきた和服姿の女性たちは258名。採用は177名で、その中には高等女学校卒15名。裁縫女学校卒12名と当時としてはインテリも多かったそうです。
既婚者を31名も採用しているのは、信用できるからと言うことなのでしょうか?皆、夫の親と同居だから、子供の世話に問題が無かったとも言えましょう。中には夫を大学に通わせるために働くと言う妻もいたそうです。
制服が実に素晴らしい! 洋服を着たことのない彼女たち全員の寸法を計って、三越百貨店にオーダーメイドで作らせています。デザイナーはフランス人で、紺のワンピースに赤の襟をつけました。
この4年前、大正9年に東京で最初にできたバス会社は白襟だったので、それぞれ白襟嬢、赤襟嬢と世間から親しまれました。
(しかし当時から敗戦後まで、バスにはドアが無かった。車掌の立つべき場所も無い車だった。立ちっぱなし揺られどうしの車掌の仕事が、激務であったことに変わりはないでしょう)
こんなにも華やかにスタートした路線バスの車掌と言う職業が、いつから最低の地位に落とされたのか、はっきり書かれてはいません。昭和初期の大不況に続く15年戦争が暗い影を落としたことは否めないでしょう。
初期のころ、運転免許を持つ人は少なかったから、運転手の給料は高額でした。車掌は労働時間が他産業よりはるかに長いためもあって、給料は女工よりかなり良かったそうです。
オーダーメイドの制服を着た赤襟嬢には、車両清掃の仕事は無かったようです。車掌に本来業務以外の仕事がどんどん押しつけられるようになったのは何時からのことでしょうか。
昔トラックの運転手は見習い助手を徒弟として顎で使っていました。彼らがバスに転職したとき、車掌を助手並みに扱ったのだそうです。本来自分の仕事である筈の、フロントガラス拭きや、ラジエーターの水入れまで、車掌に押しつけて、自分は煙草をふかしている、それが当たり前になってしまいました。
冬季、凍結を防ぐため毎晩水を抜くラジエーターに、凍てつく朝、少女たちは遠くの水道からバケツで何回も水を運び、梯子によじのぼってやっとバスの鼻先に水を注いだのです。こぼせば自分がかぶってしまう。手がかじかんで自由が利かず、こぼすことはしばしばでした。
ただし、私の居た東急バスでは、ラジエーターの水補給は運転手の仕事でした。時々は車掌がやらなければならなかったし、それがとても大変な仕事だったので、私は毎日やらされたように思いこんでいましたが、会社は運転手の仕事と決めていたそうです。
車掌の地位が低くなったのは何時からだったのかはわかりません。私の入社した昭和26年には、ごく一部の古いタイプの運転手にこき使われるのが当たり前になっていました。生意気な私はその点使いにくかったらしく、私を避けて他の子に私用を頼んだりするのでした。
「車掌の分際で」という扱いを、無言で拒否していた私に、チャージの誘いは一度もありませんでした。
但し運転手の半数以上は常識的な人たちで、車掌をいわれなく見下したりはしませんでした。
車掌の生活を暗いものにしたのは、一部の人間が犯すチャージ(金銭着服)と、そのために会社が全員を疑ってかかる身体検査でした。仕事が終わると必ず風呂にいれ、その間に服のすべてと私物を検査する会社もあったそうです。東急には風呂場はありませんでしたが。
人間、プライドが有れば、不正は出来ないものです。プライドを持てない状況に追い込んでおいて、すべての車掌を泥棒扱いにした労務管理は最低だったと思います。
どの会社でも、車掌は40代50代になっても車掌のままでした。私は30代まで車掌でいることに耐えられない気がして28歳で辞めました。
出世のあては全くと言っていいほどないのです。要領のいい者がごくまれに検査員に昇格する、これは破格の出世で、もう車両清掃も、乗務もしなくて良い。彼女らは不正を摘発しようと懸命になり、かつての同僚に辛く当ることになるわけです。東急ではそこまでのうわさは聞きませんでしたが、他社では、警察官さえやらないような、長時間にわたる過酷な取り調べをした事実が有るそうです。
無実の車掌を自殺に追い込んだ例は、神戸での一件だけではないようです。
私も、友人が無実の罪を着せられたとき救済に奔走しましたが、無実のまま解雇されて泣き寝入りした例も多いと思います。最低の身分だった車掌が、何をどんなに抗弁しても通らない世界でしたから。・・・後篇に続く・・・